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ウィーン四重奏曲

K.168 ~ K.173

1763年6月9日、モーツァルト一家は3年半にも及ぶ西方への大旅行(帰郷するのは1766年11月29日)に出発し、ヨーロッパの各地で奇蹟を演じたことはよく知られている。 その後も、今度は父と二人で休むことなく旅行を続けているが、その目的は大旅行のときと違って、できれば息子の就職先を見つけることであり、オペラなど大作の作曲依頼をもらうことだった。 しかしそうなると、話は簡単ではないことは容易にわかることである。 かつて神童を熱狂的に受け入れた側にはどこにでも専属の音楽家がいるわけで、彼らが自らの職を手離して、モーツァルトに譲るはずはない。 1771年8月にモーツァルト父子が2度目のイタリア旅行に出たとき、次のような裏事実があったことは、このような状況の変化を雄弁に物語っている。

ウィーンの博物館前のマリア・テレジアと少年モーツァルトの像
ミラノのフェルディナンド大公が青年音楽家モーツァルトを宮廷に受け入れようと考え、それを母であるウィーンのマリア・テレージア女帝に相談したところ、

あなたは、若いザルツブルク人を自分のために雇うのを求めていますね。 私にはどうしてだか分かりませんし、あなたが作曲家とか無用の人間を必要としているとは信じられません。 けれど、もしそれがあなたを喜ばせることになるのなら、私は邪魔をしたくはないのです。 あなたは無用な人間を養わないように、そして決してあなたのもとで働くようなこうした人たちに肩書など与えてはなりません。 乞食のように世のなかを渡り歩いているような人たちは、奉公人たちに悪影響をおよぼすことになります。 彼はその上大家族です。
[書簡全集 II] p.323
という返事があった。 マリア・テレージアといえば、6歳だったモーツァルトを膝の上にあげ、キスするのを許したこともあったのであるが。 そのような背景があったとは知らず、モーツァルト父子は1771年12月15日にザルツブルクに戻ったが、その翌日、寛大であった大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去。

その翌年3月14日にヒエロニムス・コロレド伯がザルツブルクの新大司教に就任したが、さらに10月24日に、父と二人で3回目のイタリア旅行に出かけている。 父レオポルトはミラノで自分の病気を口実にして帰郷を延ばし、息子の就職先を探したが失敗に終った。 そのときいわゆる「ミラノ四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズ(第2番ニ長調 K.155、第3番ト長調 K.156、第4番ハ長調 K.157、第5番ヘ長調 K.158、第6番変ロ長調 K.159、第7番変ホ長調 K.160)が作られた。 そして1773年3月13日、ザルツブルクに帰郷。 ヴォルフガングの制作活動は旺盛に続くなかで、すぐさま、7月14日、父と二人で3回目のウイーン旅行に出るのだった。

レオポルトは、ウィーンにはモーツァルトの雇傭に反対する勢力があることについては、依然として何も知らなかったし、コロレド大司教が同じ8月の前半にウィーンに滞在していたことも彼らのためにはならなかった。
[ソロモン] p.181
コロレド大司教は7月31日にウィーン訪問し、8月2日にマリア・テレージア皇太后を表敬訪問している。 当然モーツァルト父子のことも話題になっただろうし、両者は父子の野望に対して否定的な考え(不快な心情)であることで一致したであろう。 その後、モーツァルト父子は女帝に拝謁がかなったが、もちろん何も得るものはなかった。
8月12日、ザルツブルクの妻へ
皇太后は私たちにとても好意をお持ちでした。 でもそれですべてでした。 帰ってからおまえに直接話すことにしましょう。 なんでもみんな書くわけにはいかないから。
[書簡全集 II] p.389
そもそもこの時期にモーツァルト父子がウィーン訪問したのは宮廷楽長ガスマン(44歳)が病気で倒れたため、何らかの漁夫の利を得ようとしてレオポルトが動いたものであると言われていた。 火のない所に煙は立たない。 レオポルト自身が言っている。
9月4日、ザルツブルクの妻へ
ガスマンさんは病気でしたが、しかしよくなっています。 このことが私たちのヴィーン滞在と関係があるものかどうか、私には分かりません。 馬鹿どもはまあどこでだって物分かりがよくはありません!
[書簡全集 II] p.410
皇太后が「彼はその上大家族です」と書いたのは、モーツァルト息子だけでなく父レオポルトも(ザルツブルクを捨てて)同時にそれなりの地位を求めていること、ひいては一家全員の面倒をみることになるという意味の警告だった。 レオポルトのザルツブルクに対する離反的な行動は「宮廷の眼には、長年の恩顧に対する忘恩の行為と映ったであろう」し、モーツァルト父子に対する不快の念はザルツブルクのみならず、ウィーンでも、ミラノでも、どの宮廷も共有していたと思われる。 なお、ガスマンは1774年1月21日に死去し、その後ボンノが楽長となり、彼が1788年4月15日に亡くなった後にはサリエリがその地位についた。

そのような状況下、ウィーン滞在中に息子の就職がうまく決まるように、事態を好転させようとして父レオポルトが命じて作らせたいわゆる「ウィーン四重奏曲」と呼ばれる6曲の弦楽四重奏曲シリーズが生まれた。 第8番ヘ長調 K.168、第9番イ長調 K.169、第10番ハ長調 K.170、第11番変ホ長調 K.171、第12番変ロ長調 K.172、第13番ニ短調 K.173 である。 「ミラノ四重奏曲」はどれも3楽章であるのに対して、「ウィーン四重奏曲」はメヌエットが追加され、4楽章から成る。

この曲の成立に関して、アインシュタインが

K.168 から K.173 までの次のグループは、番号と成立年代からすれば前述のK.155 から K.160 までのグループとあまりへだたっていないが、しかし両者のあいだには一つの裂け目がある。 それはもはやイタリア的、ミラノ的四重奏曲ではなく、オーストリア的、ヴィーン的四重奏曲なのである。 モーツァルトはその6曲全部を1773年の晩夏に書いた。 この1773年のヴィーン滞在はモーツァルトの発展に決定的な役割を演じた。
ヴィーン滞在によってモーツァルトは革命家ヨーザフ・ハイドンを知る。 もっと正確に言えば、ハイドンの作品17番、作品20番のそれぞれ6つの四重奏曲を知るのである。
モーツァルトは感銘に圧倒される。 またしても彼は自分に適合するものを模倣するだけであるが、しかしそれを完全に自分のものとすることができない。
モーツァルトはいわばハイドンのために狼狽させられたのである。
[アインシュタイン] pp.246-249
と述べているように、1773年の父との3回目のウイーン訪問の際、ハイドンの四重奏曲「作品17(1771年)」や「作品20(1772年)」(「太陽四重奏曲集」と呼ばれている)を手本に書いたものである。 当時ウィーンでは弦楽四重奏曲が人気を博していた。 弦楽四重奏曲のジャンルを当時41歳のハイドン(右の写真)が開拓し、新天地を切り開きつつあったとき、17歳の少年モーツァルトは先輩の作品を手本にするのは当然としても、ただ模倣するだけだったわけではない。 アインシュタインは続けている。
ハイドン自身もいくらか狼狽しているのであるが、それにもかかわらず、モーツァルトがその模範であるハイドンの独創性、因習に対する無関心、論理的な声部処理、民衆性と精神との結合に達しているとはとうてい言えないのである。
また、アーベルトも
われわれは明らかに、モーツァルトが偉大な模範に直面して当惑しているという、あるいは自分には確信のないものを細心な仕事によって補おうとしているという印象を受ける。
と評している。
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しかし、そのような型にはまった批評でこの連作を聴き終えたことにはならないであろう。 自筆譜の筆跡研究で有名なプラートは
しかしながら、いかにそのような影響の重要性を評価しようと、モーツァルトがその作曲様式において、ハイドンによる脱線を驚くほど少ししか自分に許していないということを基本的に認めざるを得ない。
K.169のアンダンテでモーツァルトは、おそらく彼の音楽では初めて、ヴィーン時代後期の作品にいたるまで彼を没頭させることになる形式のタイプを作り出した。
K.173(ニ短調)の開始楽章も予言的である点で勝るとも劣らない。 そしてこの四重奏曲のメヌエットは、この連作すべてのうちで最も壮大な楽章のひとつであり、確実に1773年の奇跡に数えられるものである。
[全作品事典] p.328
と述べている。 短期間で仕上げたこの連作によって、青年モーツァルトは一作ごとに成長していったようである。

余談であるが、1773年9月26日、就職が決まることなく父子はザルツブルクに帰った。 マリア・テレージアのウィーンでは無理な話であったに違いない。 モーツァルト父子はウィーンに受け入れられなかった深刻な裏事情について最後まで理解していなかった。

レオポルト・モーツァルトは再びここで誤算を犯した。 彼はまず自分が過去にその原因を作った宮廷内における自分に対する深い反感を把握していなかった。 そして、コロレド大司教のウィーンとの関係を過小評価していた。
[ソロモン] p.182
ザルツブルク帰郷の1年後、1774年9月、モーツァルトはミュンヘンのマクシミリアン・ヨーゼフ3世から、謝肉祭用のイタリア語によるオペラ・ブッファ『偽の女庭師』(K.196)の作曲依頼を取りつける。 そしてその年の12月6日、モーツァルト父子はミュンヘンに向けて出発。 懲りることなく父子はザルツブルク離反の口実を作り、利用する。 数年後、堪忍袋の緒が切れたザルツブルク宮廷の厳しい処分を受けて、初めて取り返しのつかない事態に直面したことに気づいたレオポルトは、手のひらを反すように息子のザルツブルク離反を咎めるようになる。 そして息子は一変した父の言葉に狼狽し、反発し、やがて独立することになる。

その後モーツァルトはハイドンの「ロシア四重奏曲集」(1781年)に深く感銘を受け、「ハイドン・セット」と呼ばれる傑作シリーズを1782年から1785年にかけて書き上げるが、その作品集はアルタリア社からすぐ出版(銅板印刷)され、6フローリン30クローネで販売されるという新聞広告が1785年9月17日に掲載された。 ところがその直前の9月10日にはトリチェッラがこの「ウィーン四重奏曲集」(筆写譜)を最廉価で販売するという新聞広告を出したばかりで、両社の間でちょっとした批判の応酬があったようである。 モーツァルトの時代の楽譜出版事情は次のようなものだった。

18世紀のヴィーンは、ロンドン、パリ、アムステルダムといった楽譜出版の中心地に比べ、印刷譜の普及が著しく遅れていた。 しかしモーツァルトがヴィーンに移住する3年前の1778年にアルタリア社が楽譜出版業を開始したのがきっかけとなり、ここからようやくヴィーンにおける楽譜出版が本格化する。
(中略)
アルタリア社の創業以降、ヴィーンの楽譜出版が本格化したことはたしかだが、結局のところ、モーツァルト時代のヴィーンで使われた楽譜の主流は印刷譜ではなく、従来どおりの手書きの楽譜であった。 ヴィーンにはこうした筆写譜の製造・販売を手がけるコピスト(写譜師)が数多くおり、1780年代から90年代にかけて新聞に盛んに広告を出し、モーツァルトをはじめとするヴィーンの作曲家の筆写譜を大量に販売したのである。 なかでも中心的な役割を担っていたのは、ズコヴァッティ、ラウシュ、トレークの三大写譜工房であった。
[西川] pp.201-202
写譜業界でトリチェッラ(Cristoph Torricella, 1716~1798)はあまり繁盛していなく、1784年までに深刻な財政難に陥り、1786年にはアルタリアに売却してしまった。 モーツァルトは1784年夏に、2曲ピアノ・ソナタ「第6番ニ長調 K.284」、「第13番変ロ長調 K.333」と「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第40番変ロ長調 K.454」を「作品 VII」としてトリチェラ社から出版している。

〔動画〕ハイドンの弦楽四重奏曲

以上、演奏はどれも The Aeolian String Quartet
メンバーは Emanuel Hurwitz (vn), Raymond Keenlyside (vn), Margaret Major (va), Derek Simpson (vc)

 

弦楽四重奏曲 第8番 ヘ長調 K.168

  1. Allegro ヘ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ヘ短調 3/4 二部形式
  3. Menuetto ヘ長調 3/4
  4. Allegro ヘ長調 2/4 (フーガ)
〔作曲〕 1773年8月 ウィーン

そのシリーズの最初にあたる。 第1と第4楽章のアレグロ表示はレオポルトの手で書かれているという。 第2楽章主題は作品20の5番のフーガ主題と一致する。 多くがハイドンから借りている段階にあり、モーツァルトならではの作品には至っていないというのが定説である。

アインシュタインの言う「狼狽」を、井上は「当惑」と表現し、

このK168の弦楽四重奏は、モーツァルトにしては珍しく実験的な作品であったと言わざるを得ない。 第一楽章の構成それ自身がそうであったし、この四楽章構成そのものもそうだし、何よりこの四つの楽章のそれぞれの関係がまるでバラバラになっているからである。 そしてそういうことになった最大の原因は、アーベルトも言うように、やはりハイドンが与えたショックにあると見るのが一番妥当なように思える。
モーツァルトは明らかに、何とかしなければいけないという衝撃で当惑している。 しかしまだそれを突破することが出来ないでいるのだ。 しかしおそらく僕等はこれをモーツァルトの責任に帰することも出来ないのではなかろうか。 半年前にこの新しい分野へ踏み込んだばかりのモーツァルトにとって、このハイドンの作品は何と言っても荷が勝ちすぎた。 しかし他方で、僕等は、このハイドンの作品が出たあと、これと正面から立ち向かった作曲家が、この若冠十七歳のヴォルフガングを除いて誰もいなかったことも知っている。
[井上] pp.112-113
と、この曲から受ける印象を説明している。 しかし、第2楽章には「モーツァルト特有のデモーニッシュなものを感じる」という。
実はこの第二楽章こそハイドンの作品20の5の最終楽章から旋律を借用したものだと言われている。 なるほどそう言われればその通りだが、ここにはハイドンを想わせるものは何もない。 主旋律の音階は同じであっても、これはハイドンのあずかり知らぬ世界である。 (途中略)
この何とも言えない暗さを秘めた情念のうねりは、実を言えばあのレクイエムのキリエの主題となって晩年爆発する。 あのキリエの凄みはもたないとしても、たしかにあの世界に通じていく情感をこの十七歳のモーツァルトの中に僕は見るのである。
同 p.111

〔演奏〕
CD [WPCC-4116] t=13'40
バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Richard Krotschak (vc)
1955年2月、ウィーン、the Mozartsaal of the Konzerthaus
CD [Warner-Pioneer 32XC-29] t=12'41
セコイア弦楽四重奏団、松田洋子 (vn)、渡辺実和子 (vn)、ダンハム James Dunham (va)、マーチン Robert Martin (vc)
1981年3月、ニューヨーク
CD [KICC 7156] t=10'51
ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc)
1991年4月、バンベルク

〔動画〕

 

弦楽四重奏曲 第9番 イ長調 K.169

  1. Molto allegro イ長調 3/4 ソナタ形式
  2. Andante ニ長調 2/4 二部形式
  3. Menuetto イ長調
  4. Rondo イ長調 2/4
〔作曲〕 1773年8月 ウィーン

ウィーン四重奏曲第2番。 ハイドンの作品に強く揺さぶられて出来た第8番の反動として、この曲は前シリーズの「ミラノ四重奏曲」か、あるいはもっと前のディヴェルティメント K.136 に戻ったような作品と言われている。 より遠くへ飛ぶために後退したのかもしれない。 次の「ハ長調 K.170」を書く前にどうしても自分を確かめておきたかったのかもしれない。 17歳の明るく軽快なモーツァルトがそこにいる。

〔演奏〕
CD [WPCC-4116] t=16'25
バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Richard Krotschak (vc)
1955年2月、ウィーン、the Mozartsaal of the Konzerthaus
CD [KICC 7156] t=12'13
ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc)
1991年4月、バンベルク

〔動画〕

 

弦楽四重奏曲 第10番 ハ長調 K.170

  1. Andante ハ長調 2/4 主題と4変奏
  2. Menuetto ハ長調
  3. Un poco adagio ト長調 3/4 三部形式
  4. Allegro ハ長調 2/4 ロンド形式
〔作曲〕 1773年8月 ウィーン

ウィーン四重奏曲第3番。 ハイドンの作品17-3 にならって、第1楽章をアンダンテの変奏曲にした。 井上によると、

それだけではない。 未だ誰も指摘していないが、そのテーマの後半の出だしと、ハイドンの作品2の6にあるテーマの類似に驚かされる。 ヴォルフガングがこの時、徹底して若い時代のハイドンにまで遡って研究を重ねたことを示唆しているのだと思う。 そらくそれほどヴォルフガングのショックも深刻だったのである。
[井上] pp.117-118
という。 全楽章がソナタ形式でなく、また主題と4つの変奏を持つ作品はこれしかないな ど、実験的な試みを通して、先輩の辿った道を懸命に消化しようとする姿が見え る。 それを井上和雄は次のように述べている。
大きな精神は問題を大きく深く捉え、他人が何も感じないところに大きな苦しみを感じる。 そしてその解決のために苦しむ。 今のヴォルフガングがまさにそれなのだ。
同書 p.118

〔演奏〕
CD [WPCC-4117] t=13'57
バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc)
1955年3月、ウィーン
CD [KICC 7156] t=12'58
ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc)
1991年4月、バンベルク

〔動画〕

 

弦楽四重奏曲 第11番 変ホ長調 K.171

  1. Adagio - Allegro assai 変ホ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Menuetto 変ホ長調 Trio 変イ長調
  3. Andante ハ短調 4/4 二部形式
  4. Allegro assai 変ホ長調 3/8 ソナタ形式
〔作曲〕 1773年8月 ウィーン

ウィーン四重奏曲第4番。 第1楽章に序奏(アダージョ)を置く試みはハイドンにもない。 それは「不協和音」(K.465)とこの曲のみである。 後にハイドンも弦楽四重奏曲で用いる。 主部はアレグロ・アッサイ。そして再びアダージョの後奏がある。 そのため、アンダンテとメヌエットを入れ替える工夫がなされている。 アンダンテはいわゆる「短調のモーツァルト」がしみじみと歌う。 それについて、井上は「モーツァルトはハイドンを忘れて優しさをとり戻したのである」と言い、

何と言ってもこの K171 で素晴らしいのは第3楽章のアンダンテである。 弱音器をつけた第1ヴァイオリンの旋律は、あの節度をもったメヌエットの情感からもう一歩深い情念の中へモーツァルトが入り込んだことを示している。 モーツァルトの心は求心的に自己の情念と向い合っている。
[井上] p.125
と評している。

〔演奏〕
CD [WPCC-4117] t=15'01
バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc)
1955年3月、ウィーン
CD [KICC 7156] t=12'40
ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc)
1991年4月、バンベルク

〔動画〕

 

弦楽四重奏曲 第12番 変ロ長調 K.172

  1. Allegro spiritoso 変ロ長調 3/4 ソナタ形式
  2. Adagio 変ホ長調 4/4 二部形式
  3. Menuetto 変ロ長調 Trio ト短調
  4. Allegro assai 変ロ長調 2/4 ソナタ形式
〔作曲〕 1773年9月? ウィーン

ウィーン四重奏曲第5番。 せっかくハイドンを丸呑みしたものの消化できず、第2番 K.169 同様、第1楽章では再びミラノ風のソナタ形式に戻っているようである。 ただし前作と違って、混乱といったものはなく、まとまりのある作品に仕上がり、その意味で、この時期の最も正統的で規範的な作品ともいわれる。 なお、第1楽章のテンポは第三者の筆跡だという。 また、自筆譜には作曲日付と地名が明記されていないので、成立時期が不明である。 メヌエットでは第1ヴァイオリンとヴィオラによるカノンがある。

〔演奏〕
CD [WPCC-4117] t=17'20
バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc)
1955年3月、ウィーン
CD [KICC 7156] t=12'57
ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc)
1991年4月、バンベルク

〔動画〕

 

弦楽四重奏曲 第13番 ニ短調 K.173

  1. Allegro ma molto moderato ニ短調 2/2 ソナタ形式
  2. Andantino grazioso ニ長調 2/4 ロンド形式
  3. Menuetto ニ短調
  4. Allegro ニ短調 4/4 フーガ
〔作曲〕 1773年9月 ウィーン

ウィーン四重奏曲第6番。 シリーズ中唯一の短調作品。 第1楽章は「快活に、しかしきわめて節度を持って」演奏するよう指示されているが、そのテンポは父の手により記載されている。 第4楽章には K.168 で試みたフーガを再び用いている。 ただし、お手本としたハイドンのフーガと比べて「17歳のモーツァルトが40歳を過ぎたハイドンに挑戦した心意気は窺えるが、フーガそのものの技法と完成度は及ばない」といわれている。

まずハイドンのフーガを見ると、テーマがふたつあり、これが相互に関連づけられながら発展していくという手法をとっている。 ひとつめのテーマは、5度下がって6度上がり、7度下がる、という跳躍から始まり、今度は半音で下りてくるという音型で、とても緊張感に満ちている。 ふたつめのテーマは同音反復で始まるこれまた緊張感のあるもので、最初のテーマに2小節遅れて入り、重ねられる。 展開部では、ふたつのテーマが複雑に入り組み、カノンやテーマの反行、鎖型連結といったフーガのさまざまな技法が総動員されている。
(中略)
これに対し、モーツァルトの終楽章では、ハイドンのような複雑な技法は使われていない。 テーマは一つで、後年のオペラ『ドン・ジョヴァンニ』序曲を連想させるニ短調の半音階が効果的に使われたものである。 4つの楽器がテーマを重ね合わせながら繰り返し奏する、といった範囲にとどまっている。
[久元] p.157
それでもウィーン滞在中の短い期間のうちに、巨匠ハイドンの新作に素早く反応し、ウィーンの貴族や音楽愛好家たちに自分を売り込むという目的をはたすために、見事にまとめあげたと言うことができる。 井上は、少年モーツァルトがハイドンに挑んで、苦悩の末に最後に(ようやく)獲得した自己の世界をフーガの技法で表現し、締めくくっていることを高く評価している。
とくにこのフーガの最後の三分の一ほどは『ウィーン四重奏曲』の最後を飾るに相応しい出来ばえで、とりわけ最後にフォルテの何小節かが激しく歌ったあと、チェロからこのテーマが弱音で順次出ていく姿、そして一番最後に、これまでニ短調だったものがニ長調の和音となって静かに終わるところは、一種のカタルシスがあるといってよい。
ヴォルフガングは『ウィーン四重奏曲』6曲の最後の最後になってとうとう掴んだのである。 自分の求めていたものを。 それを言葉で表すことは出来ない。 しかし僕等はこのフーガの感動の中でそれを確実に感じ取ることが出来る。
[井上] p.141

〔演奏〕
CD [WPCC-4117] t=17'04
バリリ四重奏団、Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Emanuel Brabec (vc)
1955-56年頃、ウィーン
CD [Warner-Pioneer 32XC-29] t=15'19
セコイア弦楽四重奏団、松田洋子 (vn)、渡辺実和子 (vn)、ダンハム James Dunham (va)、マーチン Robert Martin (vc)
1981年3月、ニューヨーク
CD [KICC 7156] t=15'38
ソナーレ四重奏団、Ruxandra Constantinovici (vn), Laurentius Bonitz (vn), Marius Nichiteanu (va), Emil Klein (vc)
1991年4月、バンベルク

〔動画〕

 

〔参考文献〕


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2014/05/25
Mozart con grazia