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弦楽五重奏曲 第1番 変ロ長調 K.174
〔作曲〕 1773年12月 ザルツブルク |
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モーツァルトの弦楽五重奏曲としてはもちろん第1番であるだけでなく、ほかのいろいろな楽器の組合せによる五重奏曲の中で最初の作品である。 また、この作品は一度書き上げたものを書き直したことが知られている。
1772年にミラノで『ルーキウス・スルラ』を上演したあと、ザルツブルクに戻ったモーツァルトは、宮廷楽員の仲間のヨーハン・ミハエル・ハイドンが作った新しい弦楽五重奏曲(ヴィオラが2本)を知ることになる。 この曲がモーツァルトの最初の弦楽五重奏曲変ロ長調K174を書く上での書き方の見本となったのは確かである。 その数ヶ月後、ミハエル・ハイドンは2番目の五重奏曲ト長調(1773年12月1日完成)を作った。 それを見てモーツァルトは自分の変ロ長調の五重奏曲に手を入れたが、その際に新しいトリオを入れ、フィナーレを作り直した。 その表紙には「1773年12月、ザルツブルクにて、騎士アマデオ・ヴォルフガンゴ・モーツァルト」と書かれている。この年の春、3月13日に3回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰郷してすぐ、弦楽五重奏という彼にとって初めてのジャンルに取り組んだ。 その手本となったのはミヒャエル・ハイドン(当時36歳)がこの年の2月に作った弦楽五重奏曲ハ長調「ノットゥルノ MH187」だという。 刺激を受けて17歳の少年モーツァルトはすぐに初稿に着手、晩春には出来上がったと思われているが、やがて書き直すことになった。 7月14日、父と二人で3回目のウイーン旅行に出て、9月下旬に帰郷する。 その後ハイドンは2作目となるト長調の曲「ノットゥルノ MH189」を作った(12月1日完成)ことから、モーツァルトは自作を見直し、第3楽章に新しいトリオを入れ、終楽章の全部を作曲し直して完成したのだった。[ランドン] p.121
この変ロ長調五重奏曲の作曲の直接の動機は、ミヒャエル・ハイドンのハ長調五重奏曲と競争する作品を書きたいという願望でなかったとすれば、ほかには知られていない。 ウィゼワとサン・フォワがきわめて本当らしいとしているが、この作品の改作の動機もミヒャエルの新しいト長調五重奏曲に帰せられるのである。終楽章は「モーツァルトが書いた最も長いソナタ形式のフィナーレ」(アインシュタイン)となった。 ロビンズ・ランドンは次のように言っている。[アインシュタイン] p.263
フィナーレは、改訂稿が初稿よりも、より長く、より複雑になっている。 モーツァルトは4つの楽章の重みを平均化しようとしたのかもしれない。 彼がフィナーレの重要性を増すために行なったのは、展開部に対位法的な重みをつめこむことだった。このように野心的な動機を想像すると、ウィーンではミヒャエルの兄ヨーゼフ・ハイドン(当時41歳)の最新の交響曲や四重奏曲を知る機会があったはずで、ザルツブルクに帰郷してから、才能に恵まれ負けず嫌いの17歳の作曲家はさらにこの作品を書き直し、それらに匹敵する作品にしようと考えたことに違いない。 そして作品を仕上げたとき、天才少年作曲家は晴れ晴れとした充実感に包まれ、上記のように表紙に署名したことも想像に難くない。 そうした自信作だからこそ、4年後の1777年から78年にかけて母と二人でマンハイムからパリに向けて就職活動の旅に出た際に持っていた曲の中にこの曲も含まれていたのだった。 なお、そのとき1778年3月マンハイムをたつ前に、世話になったプファルツ選帝侯の枢密顧問官ゲミンゲン男爵(1755-1836)にこの曲を写譜させていたことが知られている。[全作品事典] p.319
1778年3月24日、パリからザルツブルクの父へ
ぼくはフォン・ゲミンゲン氏には、マンハイムを立つ前に、ローディの宿屋で夕方作った四重奏と、それから五重奏と、フィッシャーの変奏曲を写譜させてあげました。[手紙(上)]p.141
余談であるが、モーツァルト父子が3回目のウィーン旅行から帰ってまもなく、モーツァルト一家はゲトライデ街(ガッセ)にあるハーゲナウアー氏所有の借家から、ザルツァハ河対岸にあるハンニバル広場(現在マカルト広場)にある新しい借家に引っ越した。 その住居は、かつて舞踏教師が住んでいたことにちなみ、「タンツマイスターハウス」と呼ばれている。 それまでより広くなった新たな生活環境も、もしかしたらモーツァルトの創作意欲に影響を及ぼしていたのかもしれない。
1780年の暮れ、ヨハン・クローチェによって描かれた有名な「ザルツブルクでのモーツァルト一家」の絵がある。 ただし、母アンナ・マリアは2年前に他界したので、壁に肖像画として収まっている。 さらに、ウォルフガングもザルツブルクを離れていたので、クローチェは別の絵から写したと思われる。 なお、この絵のモデルになるために、ナンネルはザルツブルク宮廷侍従長フォン・メルクの小間使いに髪の毛を縮らせてもらったという。 この大きな住居にひとり暮らしていたレオポルトは、ときどきこの絵をながめて幸福だった頃を懐かしく思い出すこともあったであろう。 レオポルトが亡くなった後、この絵は競売にかけられることなく、ほかの多くの遺品とともに娘ナンネルの所有となった。
〔演奏〕
CD [WPCC-4122] t=22'13 バリリ四重奏団 Barylli Quaretet ; バリリ Walter Barylli (vn), シュトラッサー Otto Strasser (vn), シュトレング Rudolf Streng (va), ブラベッツ Emanuel Brabec (vc) ; ヒューブナー Wilhelm Hübner (va) 1955-56年頃、ウィーン |
CD [CBS SONY 75DC 953-5] t=23'16 ブダペスト弦楽四重奏団 The Budapest String Quartet ; ロイスマン Joseph Roisman (vn), シュナイダー Alexander Schneider (vn), クロイト Boris Kroyt (va), シュナイダー Mischa Schneider (vc) ; トランプラー Walter Trampler (va) 1966年2月、ニューヨーク |
CD [DENON 33C37-7965] t=28'12 スメタナ四重奏団 Smetana Quartet ; ノヴァーク Jiri Novak (vn), コステツキー Lubomir Kostecky (vn), シュカンパ Milan Skampa (va), コホウト Antonin Kohout (vc) ; スーク Josef Suk (va) 1983年6月、プラハ |
〔動画〕
〔参考文献〕
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