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ピアノのための小ジーグ「アイネ・クライネ・ジーグ」 K.574〔作曲〕 1789年5月16日 ライプツィヒ |
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1787年末に死去したウィーン宮廷作曲家グルックの後任として、モーツァルトは待望のポストに就くことができた。 宮廷は「モーツァルトは高額な俸給で採用された。この傑出した音楽家は長い間真価を認められずにいたので、すべての音楽愛好家は心から喜びを感じるだろう」と公表しているが、実際は「音楽の分野での稀なる天才がウィーンから離れてゆかないようにする最低の称号」を与えたものであり、かろうじて職にありついたに過ぎなかった。 そのことは、前任者の給料2,000フロリンに対して、モーツァルトのそれはたった800フロリンであり、さらに、モーツァルトの後任者となるボヘミア生まれのコゼルフのときには、再び2,000フロリンとなったことにも如実に現れている。 その才能に比してあまりに薄給な処遇に見合う宮廷作曲家としてモーツァルトに求められた仕事は毎年冬期間の舞踏会でのダンス音楽を作ることであった。 もっと大きな仕事、特にオペラの作曲に自分の才能を発揮したいと願うモーツァルトにとって屈辱的とも言えることである。 しかし、その頃のモーツァルトに対する一般的な評価は「ピアノの演奏については秀でているが、彼の作品は難しく、オペラも音楽の通でなければ分からない代物」というもので、人気を得るどころか逆にだんだん忘れ去られる存在となっていったことはよく知られている通りである。 当時の「音楽実業新聞」(ドレスデン、1789年5月28日)によると
4月14日、ヴィーンの有名な作曲家モーツァルト氏は選帝侯閣下の御前でフォルテピアノの演奏をした。 この他彼はドレースデンでも指導的階級の人々の邸宅で演奏し、限りない喝采を博している。 クラヴィーアとフォルテピアノに関する彼の腕前は正に筆舌に尽し難いものがある。 その初見演奏の能力も並はずれており、正に神技であると言えよう。と伝えられているが、一方のオペラについては、「演劇論集」(フランクフルト・アム・マイン)に[ドイッチュ&アイブル] p.229
4月30日、『偽の女庭師』のような状況だった。 ウィーンではコゼルフの作品が至るところで聞かれ、モーツァルトの作品は人気を失っていた。 「ドン・ジョヴァンニ」については前年の5月にウィーンで初演されたのち年内に15回されただけで、以後モーツァルトの死後まで二度となかったという。 その他の地においても(プラハを除いて)同様であり、マインツでは1月に「偽りの女庭師」が、3月に「ドン・ジョヴァンニ」が、それぞれ上演されたが、どちらも失敗だった。 それとともに、モーツァルトは経済的にも苦しい状態に陥り、富豪プフベルクに何度も借金を繰り返していたことはよく知られている。
華やかではあるが、大抵のイタリアものと同様無趣味な代物。 モーツァルトの音楽も何のセンセーションも呼び起こさなかった。 その音楽は繊細な美しさを認識する能力のある識者に向いており、ごく自然な感情だけに操られ、最初の直接的な印象だけで判断するような愛好家には向いていない。
5月4日、『ドン・ファン』
この作品は我々の所ではやがて忘れられるであろう。 音楽も大きなセンセーションを呼び起こす程充分にポピュラーでない同書 pp.226-227
このような現状を打破し、さらに大きな可能性を求めるために、1789年4月、ウィーン最高法廷書記ホーフデーメル(Franz Hofdemel, 1755?-91)に100フローリンの借金をして、モーツァルトはリヒノフスキー侯爵(Karl Furst von Lichnowsky, 1756-1814, 当時33才)と一緒に、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダムへ旅立つ。 リヒノフスキー侯爵はのちにベートーヴェンの保護者として後世に名を残すことになる人物である。 なお、ホーフデーメルはその借金の申し出の手紙を引き裂いたという。 余談になるが、彼の美貌の妻マリア・マグダレーナはモーツァルトのピアノの弟子であったこと、モーツァルトが没した日(1791年12月5日)に、彼は妊娠中の妻マグダレーナにカミソリで重傷を負わせ、自殺したこと、などから何らかの理由があったものと憶測されている。 さらに飛躍して、1983年イギリス南端の町ブライトンで「モーツァルト裁判」なるものがあり、ホーフデーメルはその中心人物となっている。
ライプツィヒ聖トーマス教会 |
教会前のバッハ像 |
大きな収穫がないまま、モーツァルトは6月4日にウィーンに帰ることになるが、この旅行の途中、ヨハン・セバスティアン・バッハゆかりの地ライプツィヒの聖トーマス教会でオルガンを演奏する機会があった。 そこでは、大バッハの高弟であり、ライプツィヒの楽長ドーレス(Johann Friedrich Doles, 1715-97, 当時74才)が「大バッハの再来」と感激したという。 そして、ザクセン選帝侯宮廷オルガニストのエンゲル(Karl Imanuel Engel, 1740?-1795)の要請に応えて、この小さな作品が書かれた。 エンゲルの記念帳(現在は行方不明)には「1789年5月16日、ライプツィヒにて」と記されていた。 ジーグ(またはジグ)gigueとは、17〜18世紀に流行した3拍子系の軽快な舞曲で、バロック期の組曲を構成する一つの楽章として用いられていた。 バッハの様式で作られたとされるこのジーグ(ト長調、アレグロ、8分の6拍子)は、グスタフ・フェレラーによると、ヘンデルの「組曲第1集」(1720年)の「第8番ヘ短調」のジーグを模範としているという。 ただし、ウイリアム・グロックの言葉によれば
対位法によるジーグであることを除けば、われわれにバッハを想起させるものは非常に少ない。 しかしそれまでに書かれた作品のなかで最もモーツァルトらしいというわけでもない。 実際のところ、この作品は、大胆な外形や絡み合うリズム、冒険的な和声などを有する、非常に孤立した現象であったと思われる。という。 モーツァルトは演奏家の力量に合わせて作曲することがよくあったので、依頼主エンゲルの好みも考慮しながら、その場の雰囲気で作曲し彼の記念帳(ゲスト・ブック)に書き込んだのかもしれないが、実際にその演奏を耳にすると、いつものモーツァルトとは違った響きに戸惑う。[全作品事典] p.402
この出色のジーグでは、調性のパターンが異常で、それは十二音音楽に近く(最初の2小節の間に11音が使われている)、全体の印象はカフカに似ており、蜘蛛の巣のようであり、不吉な感じを伴っている。[ランドン] p.181
余談であるが、ライプツィヒ滞在中の5月12日、モーツァルトの演奏会が旧ゲヴァントハウスで開かれている。
さて、この小品を書いた翌17日早朝、モーツァルトはひとりベルリンに向けて出発、19日到着。 23日に、モーツァルトの弟子フンメル(11才)の演奏会が催されたので、そこで師弟は再会したのだろう。 フンメルは前年末から演奏旅行中であり、プラハ、ドレスデンを経てベルリンにやって来て、当地では3月10日にも演奏会を開き、そのとき彼は師の「ピアノ変奏曲 K.264」と「ピアノ協奏曲ハ長調 K.503」を弾いたといわれているので、5月23日のコンサートでも同じ曲を師の目前で披露したかもしれない。 その会場にモーツァルト本人がいたのなら聴衆は彼の演奏を期待したであろう。 しかしモーツァルト自身が何か演奏したのかどうかはまったく知られていない。 自分自身の演奏についてはコンスタンツェに次のように書き送っている。
1789年5月23日「火曜日」とは5月26日のことである。 そのとき宮廷でモーツァルトは御前演奏を披露し、「チェロを得意としていたウィルヘルム2世から弦楽四重奏曲を6曲と、王妃のためにピアノ・ソナタを6曲依頼された」という伝説が生まれたのであった。 5月28日、モーツァルトはベルリンをたち、6月4日にウィーンに帰った。 収穫のまったく得られなかったこの旅行中、妻はプフベルクの世話になっていたようである。
王妃陛下が火曜日にぼくの演奏をお聴きになりたいとのこと。 でも、それはたいした稼ぎにはならない。
最愛の妻よ、ぼくが帰ったら、きみはお金よりもぼく自身に再会するのをきっと喜んでくれるよね。[書簡全集 VI] p.523
〔演奏〕
CD [東芝EMI CC30-3777] t=1'33 ギーゼキング Walter Gieseking (p) 1953年8月、ロンドン |
CD [PHILIPS 32CD-3120] t=1'36 ヘブラー Ingrid Haebler (p) 1977年8月、アムステルダム、コンセルトヘボウ |
CD [ポリドール F32L-20266] t=1'37 シフ András Schiff (p) 1986年2月、ウィーン・コンツェルト・ハウス |
CD [TELDEC K37Y 10184] t=2'12 タヘッツィ Herbert Tachezi (og) 演奏年不明 |
CD [クラウン Novalis CRCB-3013] t=1'39 ハーゼルベック Martin Haselböck (og) 1989年9月、オーストリア、ブリクセン大聖堂 |
CD [SONY CSCR 8360] t=1'36 御喜美江 (classic accordion) 1990年9月、カザルス・ホール |
CD [ポリドール POCL-1559] t=1'35 トロッター Thomas Trotter (og) 1993年11月、オランダ、Hervormde Kerk |
〔動画〕
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