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ピアノ・ソナタ 第17番 ニ長調 K.576
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モーツァルトの最後のピアノソナタ。
自筆譜は紛失。
ベーレンライター版新全集では第18番。
この曲の成立の過程は以下のように知られている。
1789年4月8日、モーツァルトはウィーン最高法廷書記ホーフデーメルに借金し、リヒノフスキー侯爵(当時33歳)と一緒に、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダムへ旅立った。
旅の目的はベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム2世に謁見し、より良い境遇を求める機会を得ようとしてのものであり、もちろんそれを得る可能性を信じてのことである。
道中の4月22日、ライプツィヒの聖トーマス教会でオルガンを演奏。ライプツィヒの楽長ドーレスは「大バッハの再来」と感激したという。 5月16日、ピアノのための小ジーグ「アイネ・クライネ・ジーグ」(K.574)を作曲し、翌日、リヒノフスキー侯爵と別れてひとりベルリンに向けて出発した。 目的の達成は簡単ではなく、ようやく5月26日、ベルリンの宮廷でモーツァルトは御前演奏を披露することができ、そのときチェロを得意としていたウィルヘルム2世から弦楽四重奏曲を6曲と、ピアノ・ソナタを6曲依頼されたといわれる。 5月28日、モーツァルトはベルリンをたち、6月4日にウィーンに帰った。 そして相変わらずの貧しい生活に戻り、7月12日、プフベルクに借金の申込みをせざるを得なかった。 その手紙の中で
目下、フリーデリケ王女のためにやさしいピアノソナタ6曲と(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)王のために四重奏曲6曲を書いているのです。 これをすべてコージェルーホのところで私が費用を持って印刷させます。と書いている。 このとき500フローリンの借金を申し込み、150フローリンもらったという。 時代は、ちょうど7月14日のフランス革命が起った頃の話である。[手紙(下)] p.156
このようにして、このピアノソナタが作曲されるべき動機が説明され、今まで伝承されているのである。
ところがそれを裏付ける資料はほかに一切なく、あるのは上記のモーツァルトの手紙だけであり、
しかもモーツァルトは、手元不如意の時期であるにもかかわらず、ソナタ1曲、四重奏曲3曲で作曲をやめてしまい、献呈をおこなわなかった。せっかくの献呈をみずから放棄したのは不可解である。 ソロモンは手紙の内容を疑い、ベルリンでの成功談と王からの作品委嘱はモーツァルトの捏造だったと推測している。 彼はそもそもモーツァルトのベルリン旅行の目的には隠された理由があり、特に妻コンスタンツェを言い包めるための口実がこの作曲依頼であったと考えているのである。[磯山] p.47
また一説には、ヴィルヘルム2世はモーツァルトに「ベルリンに留まるならば年俸3000ターラーを与える」と言ったとも伝えられている。
では、なぜモーツァルトはベルリンに留まる決心をしなかったのか?
なぜウィーンの貧しい生活に戻ったのか?
この話は1789年5月にモーツァルトがライプツィヒに滞在中、当地の出版業者ロホリッツ(Johann Friedrich Rochlitz, 1769-1842)が本人から直接聞いたという信憑性の乏しい記録をのちにニッセンがもっともらしく伝えているものである。
王はモーツァルトに、ベルリンの宮廷楽団をどう思うか、と尋ねた。 お世辞が大の苦手であったモーツァルトは、こう答えた。 「世界最大の名手たちの集まりです。 でもみんながひとつになれば、もっとよくできるでしょうね。」 王はその率直さを喜び、ほほえみつつ彼に言った。 「私のもとにとどまりなさい、あなたなら、もっとよくできる、という結果を作れるはずだ。 毎年3千ターラーの俸給をさしあげよう。」 「私の大事な皇帝を見捨てろ、とおっしゃるんですか?」 大胆なモーツァルトはこう言うと、感動して黙り、考え込んだ。四重奏曲は3曲(プロシャ王セット K.575、K.589、K.590)しか作られず、印刷もコジェルフ(Leopold Anton Kozeluch)からではなく、アルターリアから(アインシュタインの言葉によれば「みすぼらしい版」で)作曲者の死後に出された。 そしてプロシャ王女フリデリーケ用の「やさしいピアノ曲」を6つも頼まれていながら、できたのはこの1曲だけであった。 なぜなのか? しかも依頼主の希望に反して、彼のピアノ・ソナタ中もっとも演奏が難しい作品となったのか? このソナタは依頼主には届かず、作曲者の死後、遺作として出版されたのである。同書 p.51
このような疑問に対して従来の言い伝えには納得のゆく説明がどこにもないように思われる。 すぐ金になることがわかれば、アマチュアのチェロ奏者やピアニストを喜ばせるくらいの曲なら造作なく数日で作ることができる才能を持っていた現実主義者モーツァルトがである。 ソロモンは
ベルリン滞在の謎を解くうえでの困難な問題は、いかなる宮廷記録も手紙も回想の類も、新聞記事その他の記録も、モーツァルトが宮廷に伺候したことや、6曲ずつ2つのセットの作曲を依頼されたこと、謝礼金の額、などについて、全く触れていないことである。 モーツァルトが王妃の前で弾いたという唯一の記録は、彼の2回目のベルリン到着の4日後に妻に宛てて書いた手紙の中で、「王妃は26日にぼくの演奏を聴きたいということだ。 だが、金にはならないと思う」と述べている件りである。 また謝礼の金額については、彼が同じ手紙の中で、「ぼくが家に持ち帰る金」と書いている箇所だけである。と述べ、このソナタが(四重奏曲と同様に)依頼によるものではないかもしれないと推測している。 アルターリアから出版された四重奏曲にも献呈の辞が付いてなく、ソロモンはこの点についても「王室からの注文の曲は、ふつうはそのような不用意な取扱いはされないものである」と注意を促し、[ソロモン] pp.672-673
従って、新しい資料が発見されない限り、モーツァルトは実際にプロイセンの宮廷で演奏したのかどうか、彼は本当にかなりの金額を受領し、国王からの作曲の依頼を受けたのかどうか、などについては疑問が残るとするほうが見識というものであろう。と述べているが、この方が説得力があり、最近の本はこの考え方にたっているものが多い。 [磯山]でも、ニッセンの『モーツァルト伝』にあるヴィルヘルム2世とモーツァルトのやりとりを疑問視し、ソロモンの解釈を支持している。 こうして、この曲の成立について、どの本にも書いてあった従来の説明は作曲者の書き残した手紙だけをもとに作り上げられた伝説だということになる。 裏付けとなる確実な証拠が示されないまま、モーツァルトは死後200年以上にもわたって後世の人たちを見事に騙し続けることができたように、今後も「プロシャ王女フリデリーケの依頼により作曲された」とするエピソードが伝承され続けるかもしれない。 しかし新全集では、この曲は王女のための作品ではないとしている。
・・・
モーツァルトはどうしても手ぶらではウィーンに戻れなかった。 ベルリンに無用の旅をしたことに対する言いわけとしても、作曲の注文が必要であったし、妻の怒りをかわし、プフベルクから借金をする担保としても、それは必要であった。同書 pp.674-675
こうして依頼主であるはずのフリーデリケ王女には決して届けられることのなかった「やさしいピアノソナタ」が1曲だけ書かれた。 もちろん自分自身が演奏するための曲として。 収入の見込みがないのに6曲も書くほどモーツァルトは愚かではなかった。 演奏者が作曲者自身となれば「やさしさ」のレベルが違ってくる。 アインシュタインも
このソナタは《やさしい》などというものではない。 それどころか対位法的性格が強く、ヨーハン・ゼバスティアーン的だといってもよいくらいの、デュエット進行する闘争に富んでいる。 偉大な先駆者バッハへの感謝としての創造物である。と言っている。 そうなった理由としてアインシュタインは、モーツァルトが帰郷の途中ライプツィヒの聖トーマス教会に立ち寄ったとき、大バッハの芸術に記憶を新たにしたためとし、関連する三声のジーグ(K.574)を例にあげた上で、[アインシュタイン] pp.343-344
フィナーレではプロイセンの王女のことはもはや考えていない。 これはピアノの音の甘さと弦楽三重奏曲の精緻さを結びつけている。 また、アダージョの深い憧れと慰めのなかでも王女を考えてはいない。 このアダージョと対比できるものはモーツァルト自身のもとにしかない。 それは1788年3月19日に作曲されたロ短調アダージョ(K.540)である。と続けている。 これほどのものは、やはり作曲者自身が演奏する目的で書かれたと考えるのが自然であろう。 第2楽章では(自筆譜がないので断言できないが)全く強弱が記されていないというが、本人が演奏するなら必要としないことであろう。 そしてその機会がないまま、早過ぎる死が訪れたのである。 この曲の難しさについては、その第3楽章の部分についての次の解説を読めば充分である。同書 p.344
奔放に見えながら動機の関連や全体の構成などかなり緻密に構築されている。 冒頭のロンド主題は歯切れの良い軽快な動機だが、繰り返されるとき、すぐに左手は自由自在なパッセージを伴い、この応答が曲の中であらゆる形に変化して発展を遂げる。 対位法的な処理も著しく、相互に関連した動きと、意表を突いて動機が現れたり、リズムが変化したりで、下手をするとバラバラになるか支離滅裂になりそうな危うさを秘めている。 技巧的にも芸術的にも、モーツァルトの18曲のピアノ・ソナタの中で、もっとも難解なメッセージを含んでおり、同時に弾き手にとっても最大の難曲だろう。[久元] p.143
〔演奏〕
CD [COCQ-84579] t=14'56 クラウス (p) 1950年 |
CD [artephon Berlin ETERNA 0031442BC] t=14'35 シュミット Annerose Schmidt (p) 1962年 |
CD [POCL-9421] t=14'30 アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (p) 1967年7月、ロンドン |
CD [DENON CO-3861] t=15'59 ピリス Maria Joao Pires (p) 1974年1〜2月、東京、イイノ・ホール |
CD [ASTREE E 7704] t=13'56 バドゥラ・スコダ (p) 1984年 ※ヨハン・シャンツ製、1790年頃ウィーンで使われたフォルテピアノで演奏 |
CD [ACCENT ACC 8853/54D] t=15'45 ヴェッセリノーヴァ (fp) 1988年 ※アウクスブルクのシュタイン・モデル(1788年)によるケレコム製(1978年)フォルテピアノで演奏 |
CD [EMI CDC 7 54102 2] t=14'26 Wilson (fl), Barrueco (g) 1988年 ※演奏者による編曲 |
CD [SONY CSCR 8360] t=12'48 御喜美江 (classic accordion) 1990年7月、カザルス・ホール |
〔参考文献〕
〔動画〕
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