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弦楽四重奏曲 第21番 ニ長調 「プロシャ王第1」 K.575

  1. Allegretto ニ長調 2分の2 ソナタ形式
  2. Andante イ長調 4分の3 二部形式
  3. Menuetto : Allegretto ニ長調
  4. Allegretto ニ長調 2分の2 ロンド形式
〔編成〕 2 vn, va, vc
〔作曲〕 1789年6月 ウィーン
1789年6月
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自作目録には上の日付で「プロイセン王のために」と書かれてあるので、この年の4月8日から6月4日までのベルリン旅行の際に国王ウィルヘルム2世(Friedrich Wilhelm II, 1744-97)に求められて、ウィーンに戻ってからさっそく作曲したものとされている。 タイソンの五線紙研究によると、

ベルリンからウィーンに戻る途中、おそらくはドレスデンかプラハで紙を購入し、第1番の全体とさらには第2番の2楽章目までをも書き進めていたようだ。
[事典] p.522
という。 よく知られているように、モーツァルトの晩年は経済的困窮の中にあり、プフベルクにさかんに借金を申し入れる手紙を書いている。 モーツァルトの音楽は難しいと言われるようになり、また、彼自身「営業的な感覚も薄れてしまったかのようである」という有様で、コンサートを開くことができず、楽譜出版も売れ行きが悪かった。 1786年頃から収入がいちじるしく落ち込みはじめ、1788年から家計が窮地に陥った兆候が現れているという。
88年はウィーンに定住するようになってから最低の収入で、2000グルデンに及ばず、全盛期の66パーセント減となるが、89年はそれにも及ばず、およそ1500から2000の間となる。 作曲の注文、演奏の機会、出版など、いずれもが予想外に急減したために、彼の収入が目の回りそうな渦巻を描いて降下していったのだが、こうなると単なる節約では窮状の解決にはならなくなる。
[ソロモン] pp.653-654
しかもモーツァルト個人の努力だけではどうにもならない社会情勢があった。
1788年から1791年にかけて行われた対トルコ戦役は、オーストリアの国力を疲弊させる評判の悪いものであったが、それに伴ってこの国の文化生活もまた衰微した状況では、モーツァルトの仕事の面での落ち込みも、経済的な困窮も、すぐには解決しそうになかった。
同書 pp.661
ソロモンは言う、「その一生を通じてモーツァルトが重大岐路に立って困ったときの反応は旅だのみであり、それはほとんど肌に染みこんだ本能的なものであった」と。
ヨーハン・エステルハージ伯爵の館で、スヴィーテン男爵の騎士協会がヘンデルの『メサイア』の新編曲版K572の指揮をした翌日、1789年4月8日、モーツァルトはウィーンを出てベルリンへの長旅の途に就いた。
同書 pp.666
Friedrich Wilhelm II
1744-1797
5月26日、モーツァルトはベルリン宮廷で御前演奏を行うことができ、国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世から「ベルリンに留まるなら、年俸3000ターラーを与える」というありがたい言葉(ニッセン伝)をいただいたという。 ところが、現実はだいぶ違っていたようである。 プロイセン国王はポツダムの離宮に滞在していたので、モーツァルトはポツダムに4月25日に到着し、謁見を願い出た。 そのときの上申書(4月26日)は
当地におりますモーツァルトなる人物(入国の際ヴィーンの楽長と称しております)の申請によりますと、彼はリヒノフスキー侯爵と行を共にしており、その才能を国王陛下の足下にて御披露致したく、国王陛下の御前にまかり出る御許しを得たいと申しております。
[ドイッチュ&アイブル] p.226
というものであり、王の方からモーツァルトの類いまれな才能を是非見たいと呼び寄せたものではなかった。 実はモーツァルトは最高裁書記官ホーフデーメルに借りた資金で、リヒノフスキー公爵(33歳)と一緒に旅に出たのであり、この上申書ではモーツァルトは旅行中の貴族リヒノフスキー侯爵に同行する一音楽家という立場に過ぎない。 王からの求めではない以上、特別の紹介状もなく一介の音楽家が一国の王に直接面会できるはずがない。 当然のごとく謁見の許可はなく、音楽総監督のデュポール(Jean Pièrre Duport, 1741-1818)との面会を許されただけにとどまったのである。 彼はパリに生れ、チェロの演奏で秀でていた。 各地を渡り歩いたのち、1773年にベルリンのプロイセン宮廷楽団の首席チェロ奏者を努め、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世にチェロを教える機会を得た。 また作曲もでき、王のためにチェロ・ソナタを作る機会も得ていた。 1786年には音楽総監督に任命され、王の信頼を集めていたので、彼の意に沿わぬことは何も通らなかった。 国王の許しを得るには、まずデュポールのご機嫌を伺うことが必要であり、 そこで、モーツァルトは彼のチェロ・ソナタのメヌエットを主題とする変奏曲「ニ長調 K.573」を作り、手土産にしたのである。 しかし望んだ成果は(このベルリン旅行でモーツァルトはいったい何を望んでいたのか?)ほとんど何も得られなかった。 ニッセンが伝えている栄誉は作り話であろう。 5月23日、モーツァルトはウィーンの妻に次のように書いている。
1789年5月




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王妃陛下が火曜日にぼくの演奏をお聴きになりたいとのこと。 でも、それはたいした稼ぎにはならない。 ここの慣習ではあるし、悪く取られても困るので、ぼくの到着を知らせたまでだ。
最愛の妻よ、ぼくが帰ったら、きみはお金よりもぼく自身に再会するのをきっと喜んでくれるよね。
[書簡全集 VI] p.523
宮廷の方からモーツァルトの訪問を心待ちにしていたわけではなかった。 ようやく彼の旅の面目が立つ機会、すなわち5月26日火曜日、そこでどんな演奏会が開かれたというのだろう? 招かれた訪問でない以上、手身近に表敬訪問の用を済ませるしかなかったのではあるまいか。 まして相手は国王である。 うやうやしくひざまづき、国王と王妃にそれぞれ新作を献上したい希望を伝えるのがやっとで、もしそのとき王妃のご機嫌が良ければ、ピアノ演奏を披露することもできるかもしれない。 モーツァルトはそんな状況をあらかじめ想定していたのだろう。 そして先手を打って妻には「たいした稼ぎにならない」と、弁解じみた強がりを言うしかなかったのだろう。
ベルリン滞在の謎を解くうえでの困難な問題は、いかなる宮廷記録も手紙も回想の類も、新聞記事その他の記録も、モーツァルトが宮廷に伺候したことや、6曲ずつ2つのセットの作曲を依頼されたこと、謝礼金の額、などについて、全く触れていないことである。
[ソロモン] p.672
モーツァルトが王妃の前で弾いた(?)という唯一の記録は上記の5月23日の手紙だけである。 こうして実りのないベルリン旅行は終わる。 なお、その23日に、ベルリンのコルシカ楽堂でフンメル(11歳)のフォルテピアノの演奏会が開かれた。 彼は1786年から88年まで、ウィーンでモーツァルトの家に住み込んで教えを受けた弟子であるから、モーツァルトがその演奏会に顔を出さなかったことは考えにくいので、たぶん師弟の再会があったと思われている。

モーツァルトは6月4日にウィーンに帰った。 そして7月12日、プフベルクに宛てた手紙の中で

目下、フリーデリケ王女のためにやさしいピアノソナタ6曲と(フリードリヒ・ヴィルヘルム2世)王のために四重奏曲6曲を書いているのです。 これをすべてコージェルーホのところで私が費用を持って印刷させます。
[手紙(下)] p.156
と書いている。 このような動機で四重奏曲が相次いで書かれるはずであり、そのときすでに第1番(K.575)はできあがり、第2番(K.589)に着手していたと思われる。 また、「ピアノソナタ」とは「第17番ニ長調 K.576」に関連するものと思われ、この手紙を書いた頃に作曲されていた。

ところが、これまたよく知られているように、弦楽四重奏曲は3曲しかつくられなかった。 その第1番にあたるこの四重奏曲について、アインシュタインは「ミラノ四重奏曲」と呼ばれている6曲のうちの第1番ニ長調(K.155)に共通する明るさ「ミラノでの幸福と陽光の日々」があると言っている。 チェロの演奏を得意とするプロイセン王のために、モーツァルトは苦心して作曲したかもしれない。 オカールは

この作曲(特にメヌエットには)ある種の緊張がみられる。 モーツァルトがそこで新しい探求に打ち込んでいたからだ。 プロイセン王が弾くために、チェロに大きな役割があたえねばならなかったのだ。 だから、低音部を生彩あるものにしなければならなかったのだが、そのために全体の対位法を組織し直さざるをえなかった。 その結果、構成はどこか鋭利にすぎるところがあり、ときに素気なくなることもある。
[オカール] p.157
といい、そして第4楽章については、モーツァルトが晩年に「音の官能性」を喪失し始めた最初の曲だと評している。

とにかく、3曲の弦楽四重奏曲がほんとうにプロイセン王のために作曲したものかどうかについては謎であり、これらを「プロイセン(プロシャ)王四重奏曲」と総称していいかどうか疑問である。 この曲(K.575)に続く「第22番変ロ長調 K.589」と「第23番ヘ長調 K.590」については、自作目録に「プロイセン王のために」と書かれていないこと、またこれら3曲が作曲者の死後すぐに(12月28日に)ウィーンのアルターリアから出版されたが、それには献呈の言葉がないという。 ソロモンが次のように疑問を投げかけている。

しかし、ふしぎなことには、1789年と90年とはモーツァルトへの作曲の依頼がひどく落ちこんで暇だったにもかかわらず、右の K575 に続いて K589、K590 の2曲の四重奏曲を完成させたあと、1790年にはこのセット6曲の完成作業を中断してしまうのである。
(中略)
3曲の四重奏曲はモーツァルトの死後まもなくアルタリアから出版されたが、それには献呈の辞はついていない。 王室からの注文は、ふつうはそのような不用意な取扱いはされないものである。
従って、新しい資料が発見されない限り、モーツァルトは実際にプロイセンの宮廷で演奏したのかどうか、彼は本当にかなりの金額を受領し、国王からの作曲の依頼を受けたのかどうか、などについては疑問が残るとするほうが見識というものであろう。
[ソロモン] pp.674-675

〔演奏〕
CD [WPCC-4123] t=21'28
バリリ四重奏団
1954年5月、ウィーン
CD [KING K33Y 137] t=22'46
ウィーン・アルバン・ベルク四重奏団
1975年6月
※下と同じ
CD [TELDEC 72P2-2803/6] t=22'46
アルバン・ベルク四重奏団
※上と同じ

〔動画〕

〔参考文献〕


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2014/11/02
Mozart con grazia