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ヘンデルの「メサイア」の編曲 K.572〔編成〕 S, 2 A, T, Bs, Chor, 2 fl, 2 ob, 2 hr, 2 fg, 2 tp, 3 tb, timp, 2 vn, va, bs〔作曲〕 1789年3月 ウィーン |
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1780年代、ウィーン宮廷図書館長スヴィーテン男爵(1789年当時59歳)は私設の音楽サークルを開いていた。 彼自身も作曲し習作を残しているが、何よりもその音楽サークルにモーツァルトを招いたことと、私蔵する豊富な楽譜文献(特にバッハやヘンデルのもの)をモーツァルトに触れる機会を与えたことで有名である。
1782年4月10日、父へそうした体験からモーツァルトは大きな影響を受けたこともよく知られている。
ぼくは毎日曜日の12時に、スヴィーテン男爵のところへ行きますが、そこではヘンデルとバッハ以外のものは何も演奏されません。 ぼくは今、バッハのフーガの蒐集をしています。 ゼバスティアンのだけではなくエマーヌエルやフリーデマン・バッハのも。 それからヘンデルのも。[手紙(下)] p.54
1782年4月20日、姉へ後のウィーン楽友協会(1812年創立)につながるスヴィーテン男爵のサークルは会員(ほとんどがフリーメーソンだったという)の邸宅を会場にして定期的に演奏会を催していた。 それはウィーン芸術家協会(1771年創立)が主催して四旬節やクリスマスの時期にケルントナートーア劇場で催していた大規模な公開演奏会と違ったものだった。 そこでは彼がイギリス滞在中に知ってから傾倒するようになったヘンデルの作品がよく採り上げられていて、シュタルツァー(当時63歳)が編曲と演奏会での指揮を任されていた。 そのシュタルツァーが1787年2月に世を去ってから、若いモーツァルトが編曲と指揮を担当するようになり、ハッセ、エマヌエル・バッハ、ヘンデルなどのオラトリオが演奏され、そのような状況下で、スヴィーテンの依頼によってモーツァルトはヘンデルの作品の編曲
このフーガ(K.394)が生まれた原因は、実はぼくの愛するコンスタンツェなのです。 ぼくが毎日曜日に行っているファン・スヴィーテン男爵が、ヘンデルとゼバスティアン・バッハの全作品を(ぼくがそれをひと通り男爵に弾いて聴かせた後で)ぼくにうちへ持って帰らせました。 コンスタンツェがそのフーガを聴くと、すっかりそれの虜になってしまい・・ (以下略)同書 p.55
「メサイア」または「メシア」(英語 Messiah、ドイツ語 Messias、フランス語 Messie)とは、キリスト教では「イエス・キリスト」のことであり、「救世主」と訳されている。 1742年にヘンデルによって作曲され、オラトリオの最高傑作といわれる原曲は
救世主について、その誕生の預言、降臨と受難から復活の奇跡、救済の約束まで、すべてを一曲の中で語るオラトリオである。 一つの作品で、キリストについてこれだけの内容を扱う上に、テキストはすべて聖書の言葉で構成され、特定の主人公も登場しない。 したがって『メサイア』は、いわゆる物語の展開を持つオラトリオと比べると異例な作品である。このような作品を演奏したいことをスヴィーテン男爵から持ちかけられ、モーツァルトはオラトリオの伝統に新しい趣味の装いで仕立てたのである。 ホールシュナイダーによれば、モーツァルトは劇作法上のバランスを考えて[事典] p.613
1789年3月21日、スヴィーテンからモーツァルトへしかし不自然なことに、この手紙は初演(3月6日)のあとであり、そもそも手紙の自筆稿がないことから、真正性が疑われている。
冷たいアリアのテキストをレツィタティーフに代えた方が良いとのお考えだったと思います。 まだそのお言葉通りのお考えかどうか分かりませんが、ここにそれを浄書したものを送ります。 ヘンデルの作品に、一方では流行かぶれにも気に入られるように、他方では常にその崇高さを示させるように華やかに、趣味豊かに装いを着せることのできる人は彼の価値を感じ取った人であり、理性で理解した人であり、彼の表現の根源にまで到達した人であり、従ってそこからきっと何かを創造することのできる人、それをする人です。 私はあなたのなさったことをそのように考えています。 信頼からこんなことを申し上げる必要はありません。 レツィタティーフを早くいただきたいというそれだけの希望からです。[ドイッチュ&アイブル] pp.223-224
モーツァルトは4月7日の再演の翌日リヒノフスキー公爵とともにベルリン旅行に出かけ、4月29日に訪問地ポツダムで「ピアノ変奏曲」(K.573)を、そして5月17日にライプツィヒで「アイネ・クライネ・ジーク」(K.574)を書き、6月4日にウィーンに帰っている。 この2つの作曲の間で何か思い出すことがあったのか、モーツァルトは自作目録に「3月には、ヘンデルの『メサイア』をスヴィーテン男爵のために編曲」と記入している。
モーツァルトが編曲するにあたり変更したことは以上だけにとどまらず、その詳細についてCD[Archiv POCA-2178-9]とCD[COCO-9159-60]にアンドレアス・ホールシュナイダーによる解説がある。 曲順は以下の通り(海老沢敏訳)。
□第1部
〔演奏〕
CD [Archiv POCA-2178-9] t=146'12 マティス Edith Mathis (S), フィニレ Birgit Finnilae (A), シュライアー Peter Schreier (T), アーダム Theo Adam (Bs), マッケラス指揮 Sir Charles Mackerras (cond), オーストリア放送合唱団 Chor des Österrichischen Rundfunks, オーストリア放送交響楽団 Symphonieorchester des Österrichischen Rundfunks 1974年 ※モーツァルト編曲による『メサイア』の最初にレコード化された演奏。 アンドレアス・ホールシュナイダー(渡部恵一郎訳)による詳しい解説あり |
CD [COCO-9159-60] t=131'33 ブラウン Donna Brown (S), カリッシュ Cornelia Kallisch (S), サッカ Roberto Sacca (T), マイルズ Alastair Miles (Bs), リリング指揮 Hermuth Rilling (cond), ゲッヒンゲン聖歌隊 Gaechinger Kantorei Stuttgart, シュトゥットガルト・バッハ合奏団 Bach-Collegium Stuttgart 1991年 ※アンドレアス・ホールシュナイダー(杉山 好訳)による詳しい解説あり |
〔動画〕
〔参考文献〕
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