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9つのピアノ変奏曲 ニ長調 K.573デュポールのメヌエットの主題による〔作曲〕 1789年4月29日 ポツダム |
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モーツァルトは1789年4月8日、最高裁書記官ホーフデーメル(Franz Hofdemel)に借りた資金で、リヒノフスキー公爵(33歳)と一緒に、プラハ、ドレスデン、ライプツィヒ、ポツダムへ向って旅立った。 この北方への旅(あるいは「ベルリンへの旅」)の目的は、モーツァルト自身の言葉によれば、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世(1744-97)に謁見し、名誉と名声を得ることだった。 国王はポツダムの離宮に滞在していたので、モーツァルトはポツダムに25日に到着し、謁見を願い出た。 そのときの上申書(4月26日)は
当地におりますモーツァルトなる人物(入国の際ヴィーンの楽長と称しております)の申請によりますと、彼はリヒノフスキー侯爵と行を共にしており、その才能を国王陛下の足下にて御披露致したく、国王陛下の御前にまかり出る御許しを得たいと申しております。というものであり、王の方からモーツァルトの類いまれな才能を是非見たいと呼び寄せたものではなかった。 この申請書の文面からすると、モーツァルトは旅行中の貴族リヒノフスキー侯爵に同行する一音楽家に過ぎず、訪問したついでに自分の才能を見せ物にしたいというものである。 しかもその申し出をしているのは主人たる貴族のリヒノフスキー侯爵ではなく、同行する芸人の方なのである。 よく知られているように、王自身チェロの演奏に秀でるほどであり、音楽に無関心ではなかった。 しかし、王からの求めではない以上、特別の紹介状もなく一介の音楽家が一国の王に直接面会できるはずがない。 当然のごとく謁見の許可はなく、音楽総監督のデュポール(Jean Pièrre Duport, 1741-1818)との面会を許されただけにとどまったのである。[ドイッチュ&アイブル] p.226
デュポールはパリに生れ、チェロの演奏で秀でていた。
1769年までパリのコンティ公の楽団に所属していたという。
各地を渡り歩いたのち、1773年にベルリンのプロイセン宮廷楽団の首席チェロ奏者を努め、フリードリヒ・ヴィルヘルム2世にチェロを教える機会を得た。
また作曲もでき、王のためにチェロ・ソナタを作る機会も得ていた。
1786年には音楽総監督に任命され、王の信頼を集めていたので、彼の意に沿わぬことは何も通らなかった。
ただし、レオポルトは、かつて旅先の息子に宛てた手紙(1778年2月9日)に「まことにうぬぼれ屋のチェロ奏者」と評し、
こうした人たちとのつきあいはなんの得にもならず、それどころか、こうした人たちと打ち解けてしまうのは害になるだけだ。と書いていた。 このような予備知識をモーツァルトが持って訪問したかどうかはわからないが、デュポールにとって、モーツァルトがプロイセン宮廷に近づこうとすることは自分の地位を脅かしかねず、したがって厄介者として門前払いするのが一番いいことであったと容易に想像できる。 その地のすべての音楽家がデュポールの意に従ったであろうことも想像できる。[書簡全集 III] p.507
とにかく、国王ウィルヘルム2世の許しを得るには、まずデュポールのご機嫌を伺うことが必要であった。 そこで、モーツァルトは彼のチェロ・ソナタのメヌエットを主題とする変奏曲を作り、手土産にしたのである。 しかし望んだ成果はほとんど何も得られなかった。
こうしたご機嫌取りにもかかわらず、王の謁見の知らせはなかなか来なかった。 モーツァルトからコンスタンツェへの手紙によると、ポツダムに来てから17日にもなると書かれているが、その間何をしていたかは不明である。 いつもの彼とは違って、彼はここの音楽家や愛好家、音楽通などを訪問して歩いた形跡もない。 4月26日の到着からほとんど2週間経った5月8日に彼は一旦ライプツィヒに戻るが、それまでの空白期間を彼がポツダムで過ごしたという確証は何もない。モーツァルトの旅の本当の目的は何だったのだろうか。 国王との謁見がかなわないことはモーツァルトにとって最初から想定内のことであり、その申し出をしたのはアリバイ作りだったのかもしれない。[ソロモン] pp.670-671
最初は6曲の変奏曲として構想され、モーツァルト自身のカタログにそのように記載されているが、死後1792年にアルタリアから出版されたときには9つになっていた。 自筆譜が紛失しているので、本人が後に変奏を追加したものかどうか確かめようがない。 主題はニ長調、4分の3拍子。 第6変奏はニ短調。
〔演奏〕
CD [東芝EMI CC30-3777] t=8'09 ギーゼキング (p) 1953年8月、ロンドン |
CD [PHILIPS PHCP-1308] t=13'20 ハスキル (p) 1954年5月 |
CD [PHILIPS PHCP-3675] t=13'37 ヘブラー (p) 1975年 |
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=17'04 アルヴィーニ (fp) 1990年8月、Teatro "Ponchielli" di Cremona |
CD [TOCE-7514-16] t=14'44 バレンボイム (p) 1991年3月、Bavaria Musik Studio |
CD [MEISTER MUSIC MM-1020] t=14'00 岩井美子 (p) 1996年1月、神奈川伊勢原市民文化会館 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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