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劇的セレナータ 「シピオーネの夢」 K.126

序曲(ニ長調)と1幕12曲
Il sogno di Scipione - Serenata drammatica in 1 act, overture and 12 numbers
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, bs
〔作曲〕 1771年3〜8月 ザルツブルク

第1幕

  1. シピオーネのアリア 「この混乱した頭では、決めかねる」
  2. フォルトゥーナのアリア 「風のように軽やかな私、顔はよく変わり、足は早い」
  3. コスタンツァのアリア 「太陽を見るものは、その光のために真の美しさが分からない」
  4. 英雄たちの霊の合唱 「いくたの英雄たち、ローマの栄誉を担い、天の国に名の知れた人達よ」
  5. プブリオのアリア 「いつの日か、この国に来たいのなら、お前の祖を思い忘れるな」
  6. エミーリオのアリア 「お前達は地上の子供が泣くのを笑うが、天国ではお前が笑われる」
  7. プブリオのアリア 「樫の老木が急な斜面に立ち、厳しい風にめげずしっかり根を張る」
  8. フォルトゥーナのアリア 「私が笑顔を向ければ、夜でも空が明るく、凍土からも芽が出る」
  9. コスタンツァのアリア 「海に白く浮かび出た暗礁が、今にも波に呑まれるかに見えても」
  10. シピオーネのアリア 「どんなにあなたが世界を支配できても」
  11. アリア 「なぜ私は忘却し去った残り粕に求めているのだろう」
  12. 全員の合唱 「百倍の麗しい姿で、わが気高き王様は海の波を越えて再来したもう」

登場人物

メタスタージオ(Pietro Metastasio)詞。 その詩は1735年カール6世の誕生日を祝って皇后エリーザベトが依頼したことで書かれたものであった。 アインシュタインによればキケロの『スキピオの夢』の翻案劇であり、この宮廷詩人メタスタージオの作品の中で「最も情けないものの一つ」と言っているが、あらすじは次のようなものである。
小スキピオがマッシニッサの宮殿で寝入っている。 すると夢に恒常の女神(コスタンツァ)と幸福の女神(フォルトゥーナ)が現われ、彼が生涯において二女神のどちらに従うつもりかを即座に決断することを要求する。 フォルトゥーナは特にうるさく迫る。 コスタンツァは、彼が天上界の死んだ祖先たちのいる場所に来ていることを告げる。 ついでに彼は天体の音楽の仕掛けを少し聴かされる。 至福の偉大な死者たちも合唱に加わる。 スキピオの義父スキピオ・アフリカヌス(アフリカのスキピオ)は魂の不滅と彼岸における善人の報酬を説く。 そして実夫アエミリウス・パウルスは、地球が宇宙のなかの単なる火花にすぎないさまを示し、いっさいの地上的なもののはかなさを教える。 スキピオはすぐにも至福の死者たちの仲間に加えられたがるが、そのまえにまだローマ救済の義務があることを指摘される。 当然彼はコスタンツァに従う決心をする。 すると、フォルトゥーナは稲妻を投げ雷鳴をとどろかせて、よこしまな復讐女神の正体を現わす。 スキピオは目ざめる。 そこで《リチェンツァ》すなわち大司教への呼びかけのアリアが、物語から教訓をひき出すのである。
[アインシュタイン] p.543
von Schrattenbach
シュラテンバッハ大司教
Colloredo
コロレド大司教
この台本をもとに、少年モーツァルトは1772年1月に予定されていた大司教シュラテンバッハ在位50周年記念のために、1771年3月から8月にかけて(すなわち最初のイタリア旅行から帰郷し、第2回のイタリア旅行に出かけるまでの間のザルツブルク滞在中に)作った劇音楽であったが、突然の死去(1771年12月16日、それは第2回のイタリア旅行から帰郷した翌日だった)によりそれをヒエロニムス・コロレド伯の大司教新任祝典のために書き直した。
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祝典劇としての華やかさに乏しく、このオペラの評価は高くない。 意欲的に『アルバのアスカニオ』(K.111)を書き上げたモーツァルトにしては本気度が足りない印象がある。 それは内容が単純な寓意劇で、劇的要素がなく、したがって作曲意欲があまりわかなかったせいなのかもしれない。 どのような経緯でこの劇作品が選ばれたのかわからないが、当時のザルツブルクは歌手も含めてこの程度の公演しかできない劇場の環境だったのだろうか。 アインシュタインは次のようにそもそも台本がつまらないと言いきっている。

この情けないしろものの作曲は、モーツァルトにとっては全く作曲練習にすぎなかった。 舞台構成の魅力などはなきに等しかった。
(中略)
フォルトゥーナの性格を描くことなどはいささかも試みてはいない。 いっさいが装飾的なものにとどまっている。

コロレド伯がザルツブルクの大司教に選出されたのは1772年3月14日のことであり、ザルツブルク城に入ったのは4月29日だったが、そのとき(または5月1日に)初演されたものと思われる。 ただし全曲(2時間近くもかかる)ではなく、演奏された可能性があるのは曲末におかれた新大司教のためのリチェンツァと合唱の部分だけといわれる。

余談であるが、少年モーツァルトはザルツブルク宮廷楽団において無給の第3コンサートマスターにすぎなかったが、新大司教により8月21日に年俸150グルデンの給料が支払うよう指示が下った。 ロバート・マーシャルによると、1990年のドル換算で約3000ドルに相当するという。 だが、この処遇に父レオポルトは内心不満だっと想像できる。 彼は自分の息子が音楽上のあらゆる知識と演奏技量においてヨーロッパ中で(すなわち世界中で)比類ない才能を持ち、すでに楽長としてどこの宮廷楽団でも通用するはずと考えていたからであろう。 10月24日にモーツァルト父子は第3回のイタリア旅行に出発。 オペラ『ルチオ・シラ』(K.135)のミラノ初演が表向きの目的であり、それは前年(1771年)3月4日に契約されていたものだった。 それによると、モーツァルトには「1772年10月までにすべてのレチタティーヴォを、11月の初めにはアリアを作曲し、ミラノに滞在すること」が求められていたからである。 『ルチオ・シラ』は12月26日にミラノのレッジョ・ドゥカール劇場で初演されたが、ところが、こともあろうに父レオポルトは息子の就職活動に奔走。 レオポルトは仮病を使ってまでミラノ滞在の期間を引き伸ばしていたが失敗して、翌1773年3月13日にザルツブルク帰郷。 それはちょうどコロレド大司教の選任日の一周年記念ぎりぎり前日であった。 旅行中のレオポルトの行動がザルツブルクの宮廷の耳に届かないはずはなく、就任早々のコロレド大司教からすると侮辱あるいは裏切り行為と映ったであろうことは想像に難くない。

〔動画〕

Salzburg Festival 2006 - Direttore d'orchestra - Robin Ticciati (cond)
 

交響曲 第50番「シピオーネの夢」 K.141a (161 & 163)

  1. Allegro moderato ニ長調
  2. Andante ニ長調
  3. Presto ニ長調
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 第1・2楽章 1771年、第3楽章 1772年5〜10月? ザツルブルク

ザルツブルク新大司教のために作ったオペラ「シピオーネの夢」K.126の序曲にフィナーレを加えた。 ケッヒェルは序曲にあたる部分を K.161 に、終楽章を K.163 としたが、アインシュタインにより K.141a にまとめられた。 成立時期についてはアインシュタインは、モーツァルト父子が第3回のイタリア旅行中のミラノ滞在中(1772年11月〜73年3月)に当地のフィルミアーン伯爵またはフォン・マイヤーの邸宅で演奏するために改作したと考えたが、その確証はない。 のちに終楽章についてはタイソンの用紙研究があり上記のように推定されている。

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL 20368] t=7'15
ホグウッド指揮AAM
1979-81
CD [BVCD 34019/21] t=6'52
アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
1999-2000年
 


〔参考文献〕

 

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2012/07/22
Mozart con grazia