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交響曲 第16番 ハ長調 K.128
〔作曲〕 1772年5月 ザルツブルク |
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1772年の春から夏にかけてモーツァルトはザルツブルクで6曲のシンフォニーをまとめ書きしているが、これらは3月に就任したばかりの新大司教に初めて見せるシンフォニーとして生まれたと思われる。 また、この年の10月には3回目のイタリア旅行が計画されていたことから父レオポルトがそのための準備をさせた結果とも考えられる。
1772年2月7日、レオポルトからライプツィヒのブライトコプフへ動機ははっきりしないが、16歳の少年作曲家が意欲的で挑戦的な内容の作品を大量生産しなければならない事情があったものと思われ、そうして生まれたシンフォニーはどれも外見は平凡ながら、いつものことながら少年モーツァルトがその時点で持っている最高のものを世に送り出して期待にこたえようとしている。
私たちは12月15日にミラノから帰着いたしましたが、愚息がまたまた劇場セレナータの製作によって多大の栄誉をかち得ましたため、ミラノにおける来年の謝肉祭第一オペラと、すぐそのあと、ヴェネツィアのサン・ベネデット劇場での同じ謝肉祭の第二オペラを書くよう、再度招聘されました。 したがいまして、私たちはきたる9月末まではザルツブルクに留まり、そのあとまた、それも三度イタリアに向けて発つことになります。[書簡全集 II] p.327
これらはヴォルフガングのここまでのシンフォニックな作品における腕前の成長ぶりを測ってみるのに恰好な物指しを提供してくれる。 これらの6曲に見られるのは、細心でバランスのとれた形式感覚であり、細緻なオーケストレーションであり、人を誘いこむ陽気さである。 それらはひどくプロフェッショナルに作られており、モーツァルトは今や自分のペースをつかんでいる。 だが、技術的にはJ・C・バッハ、イタリア、ミハエル・ハイドンらから吸収したものの中にとどまっており、一部の学者がいうようなヨーゼフ・ハイドンやマンハイムの影響はまだ見られない。 ハイドンは1773年以降に大きな影響を及ぼすようになるのである。[ランドン] pp.168-169
自筆譜(旧東ベルリン図書館所蔵)に上記日付がある。 第1楽章の展開部は短調に変化し、成人後に見せた大胆な転調が連続し再現部に入る。 第2楽章は弦のみの対話による優美な合奏。 終楽章にはホルンによる狩の音楽風の色彩が見られ、印象深い。 この時期の彼の最も野心的な作品ともいわれる。
余談であるが、上記「1772年2月7日の手紙」にある第二オペラは作曲が実現せず計画はたち消えとなったのは残念。
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20366] t=13'49 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1978年頃、ロンドン |
CD [PMG CD160108] t=13'18 リッチオ指揮 Alberto Lizzio (cond), モーツァルト・フェスティバル管弦楽団 Mozart Festival Orchestra 演奏年不明(1988年頃) |
CD [Membran 203300] t=8'43 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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