17 age |
61 5 |
62 6 |
63 7 |
64 8 |
65 9 |
66 10 |
67 11 |
68 12 |
69 13 |
70 14 |
71 15 |
72 16 ▲ |
73 17 |
74 18 |
75 19 |
76 20 |
77 21 |
78 22 |
79 23 |
80 24 |
81 25 |
82 26 |
83 27 |
84 28 |
85 29 |
86 30 |
87 31 |
88 32 |
89 33 |
90 34 |
91 35 |
92 |
交響曲 第17番 ト長調 K.129
〔作曲〕 1772年5月 ザルツブルク |
|
自筆譜(旧西ベルリン図書館所蔵)に上記日付があるが、ただし冒頭の数小節は以前の筆跡なので、そのスケッチから曲を続け、新大司教を祝う行事のために、完成させたらしい。 メヌエットなしの3楽章であり、前作「ハ長調 K.128」の双生児とも言われる。 したがって動機として3回目のイタリア旅行に備えたものとも考えられる。 その第1楽章はリズムに工夫をこらした軽快なアレグロでモーツァルトならではの晴れやかさがある。 第2楽章は弦楽器がゆったりと歌う親しみやすい旋律で始まり、その歌を繰り返す。 そして終楽章はやはりホルンが奏する主題にもとづく狩の音楽風。 そのテーマは後の「ピアノソナタ K.576」第1楽章の主題にも現れることが知られている。
モーツァルトの成長を彼のシンフォニー作品の中で見ようとするとき、アインシュタインは「この時代のモーツァルトの発展、彼が圧倒されたり、対抗したりしたさまざまな感銘を一つ一つ追う必要はない」と言い、
この発展は必ずしも直線的なものではなかった。 そこには突然の飛躍や、例えば1772年5月のト長調シンフォニー(K.129)の第1楽章のような突然の後戻りがある。 第2、第3楽章は早くもハイドンの精神を呼吸しているのに、この第1楽章はヨーハン・クリスティアーンの影響下に、すでにロンドンあるいはハーグで書かれたかのように見える。と手厳しい。 しかしシンフォニーを「偉大なもの、シリアスなもの」を最上とする物差でモーツァルトの音楽を測り、その方向から外れたとき「後退」あるいは「後戻り」と単純に決めつけることはできないのは言うまでもないであろう。[アインシュタイン] p.306
これらはヴォルフガングのここまでのシンフォニックな作品における腕前の成長ぶりを測ってみるのに恰好な物指しを提供してくれる。 これらの6曲に見られるのは、細心でバランスのとれた形式感覚であり、細緻なオーケストレーションであり、人を誘いこむ陽気さである。 それらはひどくプロフェッショナルに作られており、モーツァルトは今や自分のペースをつかんでいる。 だが、技術的にはJ・C・バッハ、イタリア、ミハエル・ハイドンらから吸収したものの中にとどまっており、一部の学者がいうようなヨーゼフ・ハイドンやマンハイムの影響はまだ見られない。 ハイドンは1773年以降に大きな影響を及ぼすようになるのである。アインシュタインには「偉大な」ドイツ音楽の(特にイタリアに対する)優越性を信奉する個人的な感情もあるようで、成長著しいモーツァルトがこのようなシンフォニーをこの時期に書き残したことに我慢がならなかったのだろう。 しかもモーツァルトは(アインシュタインの意に反して)この後また「突然の後戻り」をするのである。 彼は1年後、3回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰って間もなく第22番「ハ長調 K.162」から第30番「ニ長調 K.202」までの9つの交響曲を書くことになるが、アインシュタインはその中で第29番「イ長調 K.201」に対して「われわれはすでに『イタリア風シンフォニア』から、なんと無限に遠くへだたってしまったことか! イタリアでは、誰がこのような作品を生みだしたろう!」と最大の賛辞を贈る一方、平凡な第30番「ニ長調 K.202」にはとうとう「落伍兵」という烙印を押すのだった。[ランドン] pp.168-169
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20366] t=16'42 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1978年頃、ロンドン |
CD [Membran 203300] t=8'43 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
〔動画〕
〔参考文献〕
Home | K.1- | K.100- | K.200- | K.300- | K.400- | K.500- | K.600- | App.K | Catalog |