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弦楽四重奏曲 第2番 ニ長調 K.155 (134a)
〔作曲〕 1772年10月末〜11月初 ボルツァーノ、ヴェロナ? |
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1772年10月24日、モーツァルト父子は第3回イタリア旅行に出た。 ザルツブルクに帰郷するのは翌1773年3月13日になる。 この旅行中に「ミラノ四重奏曲」と呼ばれている6曲の弦楽四重奏曲が書かれた。
その第1番になるこの曲は1772年10月末から11月初めにかけてボルツァーノ(ボーツェン)かまたはヴェロナで「退屈しのぎ」に作られたといわれる。
1772年10月28日、ボーツェン (レオポルトから妻マリア・アンナへ)この「四重奏曲」とはヴァイオリン2部、ヴィオラ、チェロ、コントラバスのような編成の弦楽合奏であったが、6曲セットの作品集としてまとめるとき、各パートをソロ編成にした四重奏に訂正したニ長調の作品(K.155)である。 第3楽章のテンポ指示は父レオポルトによる。
私の健康は目下のところ(おかげさまで)、一見するところのいつもの不節制にもかかわらず、またかなりきちんとしてきました。
私の健康のために旅行が必要だったら、飛脚の勤め口でも見つける努力をしなくてはなりません。 それとも、せめて駅馬車の御者にならなけりゃなりません。 ヴォルフガングもまた達者です。 あの子は今、退屈なので四重奏曲を書いています。 あの子はみなさんによろしくと言っています。[書簡全集 II] pp.332-333
旧全集では弦楽四重奏曲とされていた「ザルツブルク・シンフォニー」(K.136、K.137、K.138)が室内楽的というより合奏曲の域にとどまっていたのに対し、「ミラノ四重奏曲」において室内楽への決定的な転換がなされた。 この作品集の第1番となるニ長調の四重奏曲についてアインシュタインは
第一楽章は、まだシンフォニー的な主題の案出を楽しんでいるが、第二ヴァイオリンとヴィオラはシンフォニーの場合とは全くちがった役割を演じており、(ここでもまた模倣的に強調された)展開部では、ほかならぬ第二ヴァイオリンが魅惑的で心をそそるカンタービレなロ短調のメロディーを受け持っているが、それはオーケストラの合奏者たちには簡単に任されないようなメロディーである。と言い、またこの曲が持つ「ミラノでの幸福と陽光の日々に由来する」性格はのちのニ長調の四重奏曲「プロシャ王第1」(K.575)に引き継がれていると指摘している。[アインシュタイン] p.243
この作品の第1楽章と第2楽章のためにモーツァルトは、幸福なミラノ時代の四重奏曲(K.155)の冒頭を用い、青春と同時に円熟の精神をもって完成したのである。同書 p.259
〔演奏〕
CD [WPCC-4115] t=9'08 バリリ四重奏団: Walter Barylli (vn), Otto Strasser (vn), Rudolf Streng (va), Richard Krotschak (vc) 1955年2月、ウィーン |
CD [Deutsche Schallplatten 25TC-308] t=9'16 ミリング弦楽四重奏団 1986年 |
CD [Claves CD50-8916] t=8'37 ソナーレ四重奏団: Jacek Klimkiewicz (vn), Laurentius Bonitz (vn), 小林秀子 (va), Emil Klein (vc) 1989年7月、ダルムシュタット |
〔動画〕
〔参考文献〕
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