ザルツブルク宮廷 |
Sigismund Christoph Graf von Schrattenbach1698 - 1771 |
ジギスムント・クリストフ・フォン・シュラッテンバッハ伯爵。 モーツァルトの天敵のように見られているコロレド大司教の前任者で、モーツァルト親子の外遊を許していたことから常に「寛大な大司教」と評価されることが多い。 しかも彼がこの世を去ったのは1771年12月16日。 それはモーツァルト親子がイタリア旅行から郷里ザルツブルクに戻った翌日という象徴的な(運命的な)日であった。
しかし、彼が寛大であったのは、几帳面で真面目なレオポルトを信頼していたからであり、またそのようなレオポルトの良き理解者たちが周りにいたからかもしれない。
モーツァルトが大司教フォン・シュラッテンバッハの依頼により作曲した作品
Ferdinand Christoph Graf Waldburg-Zail1719 - 1786 |
フェルディナンド・クリストフ・ヴァルトブルク=ツァイル伯爵はザルツブルク大聖堂参事会の会長で、モーツァルト一家とは親しかった。 シュラッテンバッハ大司教の後任として、ヒエロニムス・コロレド伯爵とその地位を争ったが敗れ、その1771年にキームゼー司教に選ばれた。
バイエルン宮廷との関係が深く、モーツァルトが1774年ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン3世から「偽の女庭師」の作曲を依頼されたのは彼の仲介があったためと言われている。
また、モーツァルトのマンハイム〜パリ旅行の際、ミュンヘン滞在中の就職活動では選帝侯に働きかけてくれるなど、モーツァルトの良き理解者であった。
ただし、その就職活動は成功しなかったが。
Hieronymus Joseph Franz de Paula Colloredo1732 - 1812 |
ヒエロニムス・コロレード伯爵。
父ルドルフ・ヨーゼフ・コロレード(Rudolph Joseph Colloredo-Mels und Waldsee)はオーストリア帝国副宰相であり、兄フランツ・デ・パウラ・グントアッカー・コロレード(Franz de Paula Gundacker Colloredo, 1731 - 1812)も1788年にその地位を継いでいる。
また伯父カール・コロレード(Carl Colloredo)はドイツ騎士団のオーストリア管区長だった。
ヒエロニムス・ヨーゼフ・フランツ・デ・パウラはこのような著名な貴族一家であった。
なお、カール・コロレードの館は「ドイチェ・ハウス」と呼ばれていて、「イドメネオ」公演を口実にミュンヘンに長居していたモーツァルトが1781年コロレード大司教にウィーンに来るように呼び付けられたとき、3月11日から5月2日までそこに宿泊したことがあった。
ザルツブルクのシュラッテンバッハ大司教が没した後、1772年3月14日、ハプスブルク家の後押しにより新大司教に就任した。 彼は18世紀の啓蒙時代にふさわしく、厳格で思慮深く、贅沢を好まない知識人だった。 ヨーゼフ2世を信奉し、ザルツブルクにおける政治や文化の改革を行ったが、それまで独立した地方都市の生活になじんでいた市民に理解されなかった。
大司教に就任した3月14日は記念日となり、毎年祝賀会が催され、アロイジア(ランゲ夫人)もそのためにザルツブルクを訪れ、歌ったこともある。
彼は前任者(シュラッテンバッハ大司教)のように寛大ではなく、以後モーツァルトにとっては忌まわしい人物となり、ついには大喧嘩の末、1781年、モーツァルトがウィーンに定住して自由な活動をすることになり、父レオポルトは両者の間にあって苦しむことになったのは結果論であり、モーツァルトの側に立って見た感想である。
コロレードがまずモーツァルトに求めたことは、教会での典礼音楽を短く簡明にせよ、ということであった。 そのため、モーツァルトは1776年9月4日にマルチーニ神父へ宛てた手紙で「もっとも荘厳なミサでさえも、45分以上にわたることはできません」と手紙で不満を伝えている。 ミサ曲 K.220を参照。
モーツァルトが希に見る大天才であることを見抜けなかったことは事実であるが、宮廷に仕える音楽家に対する普通の処遇をしようとしただけであり、むしろ最初はモーツァルト一家に厚意さえ示していた。 しかし、父レオポルトにとってはそれで十分であったかもしれないが、息子ヴォルフガングにとってはあまりに過小評価であった。 要するに、それがザルツブルクとかコロレードとかでない話であったとしても、時代の枠を越えたモーツァルトが相手であれば、同じ結果になったと思われる。
したがって、コロレードを悪者と決め付け、それに対比してシュラッテンバッハを「寛大な」と強調することには慎重でありたいと思う。
編者にはコロレードの肩をもつつもりがあるわけではないが、当時において、このような人物に対して歯向ったモーツァルトの行動は自殺行為に等しかったと言わざるを得ない。
Johann Baptist Joseph Joachim Ferdinand von Schidenhofen1747 - 1823 |
ヨハン・ヨアヒム・フォン・シーデンホーフェン。 ザルツブルク宮廷顧問官。 のちに宮内大臣。 妹はマリア・アンナ・テークラ(Maria Anna Aloisia Antonia Walpurga Thekla)、愛称はルイーゼ(Louise)。 モーツァルト一家と親交があった。
1774-78年の日記はモーツァルトの伝記に貴重な資料を提供している。
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