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交響曲 第14番 イ長調 K.114

  1. Allegro modarato イ長調 2/2 ソナタ形式
  2. Andante ニ長調 3/4 ソナタ形式
  3. Menuetto イ長調 3/4 複合三部形式
  4. Molto allegro イ長調 2/4 ソナタ形式
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1771年12月30日 ザルツブルク
1771年12月






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この年の8月、モーツァルト父子は2回目のイタリア旅行に出て、10月17日、ミラノ宮廷劇場で約束の『アルバのアスカニオ』(K.111)初演をはたし、年末の12月15日に帰郷。 ところが、その翌日、寛大であった大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去。 それから2週間後にこの交響曲が書かれた。 作曲の動機は不明であるが、ザスローは次のように説明している。

服喪期間、派手な音を抑えた謝肉祭期間、四旬節のために、交響曲は、(許容される音楽として)ずっと必要とされたと思われる。 加えてヴォルフガングは昇進を求めていた。 「コンサートマスター」という従来の称号が、実権のない、肩書だけのものだったためである。 熱意を示した結果、16歳の少年は1772年8月9日、大司教より、宮廷オーケストラの固定給メンバーの一員と認められた。 ただし年俸は、せいぜい150フロリーンであった。
[全作品事典] p.227
こうして少年モーツァルトは、この曲を初めとして1年足らずの間に8つの交響曲を書くことになる。 この曲は今までのイタリア風の交響曲と違うスタイルを模索し始めた最初の作品とも評価されている。 第2楽章でフルートはオーボエと交代する。 トリオを持たない最初のメヌエット譜は破棄され、イ短調のトリオを持つ、高貴と世俗とが同居するメヌエットに作り直された。 その初稿はのちにアインシュタインによって発見され、新全集で取り上げられた。 また、メヌエット K.61g-I がこの交響曲のためのものという説は否定されている。

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20365] t=20'24 + 1'02
ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music
1978年頃、ロンドン
※第4楽章のあとにメヌエットK.61gの第1を追加して演奏。
CD [Membran 203300] t=12'03
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2013/08/25
Mozart con grazia