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オペラ・セリア 「ルチオ・シラ」 K.135〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs, 通奏低音〔作曲〕 1772年10月〜12月 ザルツブルク、ミラノ |
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ジョヴァンニ・デ・ガメルラ(Giovanni de Gamerra, 1743-1803)詞。 2年前(1771年3月)のイタリア旅行のとき、1773年のカーニヴァル用として、このオペラの作曲を委嘱されていた。 その1771年3月4日の契約書は
アマデーオ・モーツァルト氏は1773年の謝肉祭にミラノ宮廷劇場において上演される最初の劇に曲をつけることに同意し、その芸術上の労力に対する報酬として、130ギリアートならびに家具つき宿舎が氏に与えられる。という内容のものだった。 タイトル『ルチオ・シラ Lucio Silla』(または『ルーチョ・シッラ』)はオペラの中心人物である独裁者の名前であるが、それは紀元前に実在したローマの政治家ルキウス・コルネリウス・スッラ(Lucius Cornelius Sulla)である。 アンガーミュラーによると
契約条件は、上記作曲家氏がすべてのレチタティーヴォに音楽をつけ、1772年10月中に送付し、またアリアを作曲して上記オペラに必要な練習のすべてに立ち会うべく、翌11月初めにミラノに到着していること。 劇場で起こりうる災害ならびに主君による干渉については、これを留保する。[書簡全集 II] p.265
この名前の古代における発音は後にシュッラ Sülla、さらにシッラ Sylla となり、イタリアではシッラ Silla となった。また、その人物像については次のように説明している。 そしてこれがこのオペラのあらすじでもある。[全作品事典] p.69
前キリスト教時代のローマの歴史に登場する、謎めいて、いくぶんいかがわしい人物である。 帝国以外の敵に対して数多くの勝利を収めた後、紀元前81年にスッラはみずから終身の独裁執政官となり、無制限の権力を身につけた。 彼は敵に対してあくまでも執念深く扱い、人間性の感覚にはまったく縁遠かった。 ところが、紀元前80年に彼は独裁執政官の称号を返上し、市民に執政官を選ぶ権利を回復する。16歳のモーツァルトに託されたのはこのような歴史上の大人物を題材にした長大なオペラであり、劇中では、ジュニアが追放された恋人チェチリオと、父の墓場で、死の危険をもかえりみず出会う場面の二重唱や、ジュニアがローマ市民や元老院議員の前で独裁者シラを弾劾するくだりなど、見どころ多い魅力的なドラマである。 少年モーツァルトはジュニア役となる当時の名歌手アンナ・デ・アミーチス(約32歳)のために全力投入したといわれる。 彼女はロンドンで成功を収め、1763年にイタリアに帰ったが、モーツァルト父子に大きな感銘を与えていた。 そしてモーツァルトは1770年のイタリア旅行のときナポリで彼女と再会をはたし、彼女の歌声に「見事」と賞賛していた。 そのデ・アミーチス夫人のためにも、そして何より自分の名誉のために巡ってきた機会を最大限に生かそうとモーツァルト父子は考えていた。
父レオポルトと一緒に1772年10月24日ザルツブルクを出発。 11月4日ミラノ着。 それからさまざまなトラブルに悩まされながら作品の完成と上演に成功し、翌1773年3月13日までミラノに滞在することになる。
デ・ガメルラはウィーンにいたメタスタージョに台本を送り校閲してもらったところ、大幅に訂正が加えられたため、モーツァルトは既に仕上げてあった部分を書きなおしたり、新しく作曲し直ししたりすることになった。 ミラノからレオポルトはザルツブルクの妻に
歌手たちのうち、当地にいるのは第二男性歌手役をやるスアルディ嬢、それに最後のテノール歌手だけで、第一男性歌手のラウッツィーニ氏は、ここ2、3日でやってくるらしい。 ただ、デ・アミーチスは今月末か来月初めにようやく着くことになります。と書き送っている。 デ・アミーチスは11月28日にヴェネツィアを出発、およそ2日間ほどでミラノに到着するはずだったが、大幅に遅れてしまった。 レオポルトは次のように知らせている。
そうこうしている間に、ヴォルフガングは3つある合唱を書いたり、ザルツブルクで作ったいくつかのレチタティーヴォを変えたり、一部分あらたに書いたりして、存分に楽しんでいました。 というのは、詩人が台詞をヴィーンのメタスタージョ師に送って校閲してもらい、師が多くの部分を直したり、第2幕では一場そっくりつけ加えたからです。 そこであの子はレチタティーヴォを全部と序曲を書きました。[書簡全集 II] p.339
(1772年12月5日)さらにこの手紙では、ルチオ・シッラ役のテノール歌手コルドーニが重病のため出演できなくなり、交代することになったと伝えている。 その人物はトリノのバッサーノ・モルニョーニというテノール歌手で、12月14日か15日にミラノに到着。 それを待って、モーツァルトは彼のためのアリアを4曲書かなければならなかった。 このとき既に到着しているデ・アミーチスのためにはアリアを3曲書き上げていたが、そのうち主要アリア(第2幕第11曲)には「新しくて、まったくびっくりするくらいむずかしいパッセージをつけて」作ったが、彼女はそれをみんなが驚嘆するほどすばらしく歌ったという。 またレオポルトはおもしろいエピソードを伝えている。 それは彼自身は「ひどいペンとインクで」手紙を書いているのに対して、「良いインクはヴォルフガングが持っている」というのであった。 一刻の有余もない中でも、少年モーツァルトはミラノから姉へ次のようなおどけた手紙を書き送っているが、それは「良いインク」を使ったことによる産物だったのだろうか。
デ・アミーチス夫人はおまえたちやアードゥルガッサーさんによろしくとのことだが、彼女もやっと夕べ遅くになって着きました。 ヴェネツィアからミラノまで6頭立ての駅逓馬車で1週間もの旅行でした。 それほど道は水と糞とでいっぱいです。[書簡全集 II] p.339
12月18日この手紙は、ハートに火がついて燃えている側に鳥が「さあ、飛んで行って僕の可愛い子ちゃんを探せ。 そこらじゅう、すみずみまで探せ!」と言いながら飛んでいる漫画が書いてあり、その周りに上記の文が輪になっている。
お元気のことと思います。 お姉さん、あなたがこの手紙を受け取る頃、お姉さん、ちょうどその晩、お姉さん、僕のオペラが上演されます。 明日、僕らはフォン・マイヤー氏のところで食事をします。 なぜだか分かる? 当ててごらん。 招かれたからです。 明日舞台稽古があります。 でも、劇場支配人のカスティリオー氏から頼まれています、それを言い触らさないようにと。 さもないと、みんな来て困ったことになります。 だからお嬢さん、お願いだから、誰にもこのことを言わないでね、お嬢さん、さもないと大勢の人たちが駆けつけるからね。 お嬢さん、ところで、ここで起こったこともう知ってる? 話してあげるね、僕らはフィルミアン伯爵邸から家に帰ろうとしました。 家の通りまで来て、玄関の戸を開けたとき何が起こったと思う? 僕らは中に入りました。 ごきげんよう。 僕の肺臓さん、キスを贈るよ、僕の肝臓さん。 僕の胃袋さん、いつも変りないあなたのろくでなしの弟、ヴォルフガング。
初演は12月26日ミラノ・スカラ座(テアトロ・ドゥカーレ)で行われた。 登場人物と初演のときの歌手は
彼はあまりにも美しすぎ、あまりにも豊かで、あまりにも一杯に詰まった、あまりにも器楽的に構成された音楽を書いた。 彼は一つの純粋な音楽的課題を果たすのであって、アリアは彼にとって支配的な歌唱声部を持つシンフォニー楽曲となったのである。 実際彼はアリアから1ダースものシンフォニーの素材を取り出すこともできたであろう。 このことは聴衆には明らかに本能的に感じ取られたのである。そして次のように続けている。[アインシュタイン] p.546
この作品はミラノだけで上演され、他の土地の舞台は一つとしてこれを取り上げなかった。 1774年にアンフォッシはヴェネツィアの新しい『ルチオ・シルラ』を書き、1779年にはガメルラが自分のテクストをトリノのミケーレ・モルテルラーリのために改作した。 モーツァルトはもはやイタリアのためには、オペラを一曲も書くことができなかった。初演の後、日増しに人気が出てきたことは確かなようで、レオポルトは翌1773年1月16日には「もう17回も上演された」と書いていて、その後も上演が繰り返され合計26回も上演された。 しかしこの「モーツァルトが書いた本格的イタリア・オペラは、批評家にも大衆にも人気があり成功したにもかかわらず、ミラノからは二度とオペラの注文は来なくなった」とソロモンはレオポルトの見込み違いを指摘している。
そしてそのほかのイタリアの諸都市からもなんの依頼も来なくなった。 おそらくは、マリア・テレジアの反対を向こうに回してレオポルトが就職の請願をすることに対して、市場が横を向き始めていたということであろう。 オペラ『ルーキウス・スルラ』が、最初に予定されていたとおり、26回も公演されたのに、ついにミラノの人たちに歓ばれなかったのも、同じ理由であるかもしれない。 台本作者は自分の台本を手直しし、ミケーレ・モルテラーリの作曲により、このオペラを数年後にトリーノで公演したことを付記しておこう。このことからソロモンも「大失敗だった」と結論を下している。 それでもオカールは[ソロモン] pp.159-160
交響曲の分野で研究したばかりの経験を劇場に導入することができた。 ことに「墓場」の場面では調子が深刻になり、『イドメネオ』や『ティト』の最も美しい瞬間の芽生えを感じる。また、ランドンは
『ルーキウス・スルラ』では、のちにモーツァルトの専売特許となる、光と影の両面の共存する姿を、すでにして認めることができる。 そしてオーケストラの書法もまたみごとな完成を見せている。と高く評価している。[ランドン] pp.108-109
余談であるが、レオポルトはザルツブルク帰郷を引き伸ばしていた。
それは初めてのことではなく、前回のイタリア旅行でも、そのときもオペラ(劇場セレナータ『アルバのアスカニオ』)の作曲と初演に関連してのことだったが、彼は息子にミラノでの安定した地位が得られるよう画策していた。
そしてマリア・テレジア女帝の固い壁に跳ね返されていた。
今回も彼は仮病を使ってまでミラノ滞在を引き延ばして、息子の就職口を探していたのであった。
そのあたりの裏話については「ディヴェルティメント第4番変ロ長調」(K.186)のページで・・・
また、1773年謝肉祭に向けて『ルチオ・シラ』のほかにモーツァルトはヴェネツィアのサン・ベネデット劇場のための「第2オペラ」を作曲する契約もしていた。
しかし同時に2つのオペラの作曲は無理であり、その「第2オペラ」は実現しなかった。
あるいはレオポルトの画策にヴェネツィア側が警戒したことにより立ち消えになったのか?
チェチーリオ役カストラートのラウツィーニ(Venancio Rauzzini, 1746?-1810)は優れた力量の持ち主で、モーツァルトはミラノ滞在中に彼のためにモテット『エクスルターテ・ユビラーテ』(K.165)を書いた。
第2幕第11曲のジュニアのアリアについてレオポルトが「新しくて、まったくびっくりするくらいむずかしいパッセージがついている」と言ったことをモーツァルトはしっかり覚えていて、6年後の1778年、自分が思いを寄せるアロイジアの力量をそっくりそのままの表現「デ・アミーチスのためのぼくのアリアはおそろしくむつかしいパッセージがいくつもあるのですが、彼女は見事に歌います」で父レオポルトに説明している。
モーツァルトにとってデ・アミーチスのために書いた3つのジュニアのアリアすなわち第4曲、第11曲、第16曲は特に忘れられないものであり、それらを「実に魅力的に歌う」アロイジアを伴ってイタリアへ演奏旅行に出て、自分のオペラにそっぽを向いた連中に痛烈なしっぺ返しをしてやりたいと考えていたに違いない。
〔オペラの構成〕
序曲 Molto allegro - Andante
第1幕
(1) チンナのアリア 「行け、愛が君を招く所へ」
Recitativo (Cecilio, Cinna) : Oh ciel, l'amico Cinna
Aria (Cinnna) : Vieni, ov'amor t'invita
(2) チェチリオのアリア 「喜びのこの時は、強いわが愛の報い」
Recitativo (Cecilio) : Dunque sperar poss'io
Aria (Cecilio) : Il tenero momento
(3) チェリアのアリア 「やさしく務めた希望が愛を育てることができなければ」
Recitativo (Silla, Celia) : A te dell'amor mio
Aria (Celia) : Se lusinghiera speme
(4) ジュニアのアリア 「暗い陰の岸から、あなたの娘の最後の息をひきとりに来て下さい」
Recitativo (Silla, Giunia) : Sempre dovrò verderti
Aria (Giunia) : Dalla sponda tenebrosa
(5) シラのアリア 「復讐の考えが私の心に火をつける」
Recitativo (Silla) : E tollerare io posso, Mi piace! E il cor di Silla
Aria (Silla) : Il desio di vendetta
(6) 合唱 「この悲しい墓の中から、誉れの魂よ出て来たれ」
Recitativo (Cecilio) : Morte, morte fatal
Coro (Giunia, Coro) : Fuor di queste urne
(7) ジュニアとチェチリオの二重唱 「天国で待っていて下さい」
Recitativo (Giunia) : Se l'empio Silla
Duetto (Giunia, Cecilio) : D'elisio in sen m'attendi
第2幕
(8) アウフィディオのアリア 「剣のきらめきに青ざめる戦士なら、戦に出ないがよい」
Aria (Aufidio) : Guerrier, che d'un acciaro
(9) チェチリオのアリア 「にわかに起こるこの戦慄は私の胸に増すばかり」
Recitativo (Silla, Celia) : Io ti scopro
Aria (Cecilio) : Quest'improvviso trèmito
(10) チェリアのアリア 「臆病な私の言葉が秘かな恋を語れなくても」
Aria (Celia) : Se il labbro timido
(11) ジュニアのアリア 「ああ、残酷にも、夫の危険を思うと、すべてが恐ろしい」
Recitativo (Giunia, Cinna) : Silla m'impone. Vanne. T'affretta
Aria (Giunia) : Ah se il crudel periglio
(12) チンナのアリア 「至福な瞬間を彼は待っているだろうが」
Recitativo (Cinna) : Ah sì, scuotasi omai
Aria (Cinna) : Nel fortunato instante
(13) シラのアリア 「私は慈悲の衣を脱ぎ捨てた」
Recitativo (Silla, Giunia) : Giunia? Qual vista!
Aria (Silla) : D'ogn pietà mi spoglio
(14) チェチリオのアリア 「残酷な運命が私を死へ導いてくれるのなら」
Recitativo (Giunia, Cecilio) : Che intesi eterni Dei?
Aria (Cecilio) : Ah se a morir mi chiama
(15) チェリアのアリア 「乾いた野原に夏の雨が降れば、木の葉と花をよみがえらせる」
Aria (Celia) : Quando sugl'arsi campi
(16) ジュニアのアリア 「私は行く。けれどこの胸は張り裂ける」
Aria (Giunia) : Parto, m'affretto
(17) 合唱 「頭を飾るあなたの栄光は、千軍の勝利が賜ったもの」
Coro : Se gloria il crin ti cinse
(18) 三重唱 「今日こそ、あの高慢な心をくじいてやろう」
Recitativo (Silla, Giunia, Cecilio) : Padri coscritti
Terzetto (Silla, Giunia, Cecilio) : Quell'orgoglioso sdegno
第3幕
(19) チェリアのアリア 「荒れ狂う嵐が聞こえてくる」
Recitativo (Cinna, Celia) : A lui t'affretta
Aria (Celia) : Strider sento la procella
(20) チンナのアリア 「傲慢な心をこらしめるジュピターの落とした雷は」
Recitativo (Cecilio, Cinna) : Più non mi resta
Aria (Cinna) : De' più superbi il core
(21) チェチーリオのアリア 「泣くな、あなたより先に私は死んでいく」
Recitativo (Cecilio, Giunia) : Ah nò, ch'l fato estremo
Aria (Cecilio) : Pupille amate
(22) ジュニアのアリア 「不幸な死に思いを馳せるとき」
Recitativo (Giunia) : Sposo, mia vita
Aria (Giunia) : Fra i pensier più funesti
(23) 合唱 「偉大なシラは、すべての栄光と賛美の勝利を受ける」
Recitativo (Silla, Giunia, Cecilio, Cinna, Celia) : Roma, e il senato
Finale (Coro) : Il gran Silla a Roma in seno
〔演奏〕(部分)
CD [POCL-6027] 序曲 t=9'15 マーク指揮ロンドン交響楽団 1959年 |
CD [WPCS-21094] (2) t=8'09 バルトリ (MS) 1984年 |
CD [POCA-1132] (2) t=10'29 オッター (MS) 1995年 |
CD [東芝 EMI TOCE-55200] (11)「ああ、愛しいものが残酷な危険に」 t=8'46(レチタティーヴォ含む) ナタリー・デセイ (S), ラングレ指揮ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団 2000年 |
〔動画〕
交響曲「ルチオ・シラ」ニ長調 K.135
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オペラ「ルチオ・シラ」の序曲から作られたシンフォニー。 第2楽章でオーボエ以外の管は休む。
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20367] t=7'44 ホグウッド指揮AAM 1979-81年 編成は 2 ob, 2 hr, 2 tp, timp, 弦4部 |
Anna Lucia de Amicis1740頃〜1816 |
アンナ・ルチーア・デ・アミーチスはイタリアの優れたソプラノ歌手。 10代の頃から家族に伴われてパリやブリュッセルでコミック・オペラに出演し知られるようになった。 1763年、ロンドンでクリスティアン・バッハのオペラ・セリア『オリオン Orione』に出演。 それを契機にコミック役からセリア役に転向したという。 その1763年6月、モーツァルト一家は3年半にも及ぶ西方への大旅行に出かけたが、8月に一家が訪れたマインツでデ・アミーチスと出会っている。 彼女は家族とロンドンを離れ、イタリアに戻る途中だった。
1765年または1768年(28歳頃)にフィレンツェの医師フランチェスコ・ブオンソルラッツィ(Francesco Buonsollazzi)と結婚。
1778年、グルックの『アルチェステ』のイタリア初演に出演したのを最後に引退したという。
1816年(76歳頃)生地のナポリで没した。
〔参考文献〕
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