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交響曲 第19番 変ホ長調 K.132

  1. Allegro 変ホ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante 変ロ長調 3/8 ソナタ形式
  3. Menuetto et Trio 変ホ長調 3/4 複合三部形式
  4. Allegro 変ホ長調 4/4 ソナタ形式
  5. (追加)Andante grazioso 変ロ長調 2/4 ソナタ形式
〔編成〕 2 ob, 4 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1772年7月 ザルツブルク
1772年7月


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この時期には以下の表にあるように6曲のシンフォニーが作られている。 これらの作曲の動機は不明であるが、父レオポルトの深謀遠慮が働いていたと思われる。 前年8月14日に寛大であった大司教ジギスムント・フォン・シュラッテンバッハが死去し、後任のコロレド伯がこの年の3月に着任したからである。 この時期にはシンフォニー以外にも多くの作品を矢継ぎ早に書いている。 なかには父レオポルトの曲も混じっているようであるが。 そうして、新しい大司教にモーツァルト(まだ16歳の少年であるが)の優れた力量を印象づけようとしたとも考えられる。 あるいは、この年の10月、3回目のイタリア旅行に出かけるために新作の交響曲が必要であるとレオポルトが作曲を促したことによるのかもしれない。 いずれにしても、大量の作曲のかいあって、少年モーツァルトに対して、1769年11月27日以来無給のコンサートマスターに任命されていただけであったが、この年の8月21日に宮廷財務局に次の指示が下ったのである。

閣下には慈悲深き9日の指示により、従順なる宮廷付コンサートマスター、ヴォルフガング・アマデーウス・モーツァルトに給料として年間150グルデン下げ渡された。 従って財務局は日々それに見合う額を支払うべきこと。
[ドイッチュ&アイブル] p.111
記録は残ってないが、その日はモーツァルト一家にとって最良の日だったに違いなく、母マリア・アンナが腕をふるった特製の料理が食卓に並び、一家4人は上機嫌だったのではないかと想像される。 道化役の息子ヴォルフガングは次々と冗談を飛ばし家族を笑いの渦に巻き込み、大張り切りで即興演奏の手を休めなかったのではないかとも。

さて、この時期に作られたシンフォニーとは次の通りである。

作曲月
楽章数楽器編成
1772年5月(第16番)ハ長調 K.128 32 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs
1772年5月(第17番)ト長調 K.129 32 ob, 2 hr, 2 vn, va, bs
1772年5月(第18番)ヘ長調 K.130 42 fl, 4 hr, 2 vn, va, bs
1772年7月(第19番)変ホ長調 K.132 42 ob, 4 hr, 2 vn, va, bs
1772年7月(第20番)ニ長調 K.133 4fl, 2 ob, 2 hr, 2 tp, 2 vn, va, bs
1772年8月(第21番)イ長調 K.134 42 fl, 2 hr, 2 vn, va, bs

これらの曲に共通する特徴の一つに「シンフォニア、騎士ヴォルフガンゴ・アマデーオ・モーツァルト」という書き込みがあることがあげられ、身分の高い人物にアピールする意図があったことが窺える。 この第19番のシンフォニーにも、自筆譜にモーツァルトが「シンフォニア」と書いたあとに、父レオポルトが「騎士ヴォルフガンゴ・アマデーオ・モーツァルト、1772年7月ザルツブルクにて」と記されている。 さらに第1、第2、第4楽章のテンポ表示はレオポルトが書いたものであるという。
また、これらの作品についてロビンズ・ランドンは次のように評価している。

6曲のシンフォニー(K128、K129、K130、K132、K133、K134)は1772年の春から夏にかけて書かれているが、これらはヴォルフガングのここまでのシンフォニックな作品における腕前の成長ぶりを測ってみるのに格好な物指しを提供してくれる。 これらの6曲に見られるのは、細心でバランスのとれた形式感覚であり、細緻なオーケストレーション(典型的にザルツブルク的というべき2部に分かれたヴィオラと、K130、132に見られる4本のホルンに着目)であり、人を誘いこむ陽気さである。 それらはひどくプロフェッショナルに作られており、モーツァルトは今や自分のペースをつかんでいる(この年、彼は『ルーキウス・スルラ』を書く)。 だが、技術的にはJ・C・バッハミハエル・ハイドンから吸収したものの中にとどまっており、一部の学者がいうようなヨーゼフ・ハイドンマンハイムの影響はまだ見られない。 ハイドンは1773年以降に大きな影響を及ぼすようになるのである。
[ランドン] pp.168-169
一部の学者とは、このうち第19番の K.132 について、
フィナーレの「くつろいだ」案出においては、ハイドンの刺激と「フランス的」刺激が混じり合っている。 しかしこのシンフォニーはすでに、魂のきわめて個人的な不安と強情さに満ちた緩徐楽章を含んでいる。 この楽章を「アンダンテ」と呼ぶのは適当でないと思われるほどである。 モーツァルト自身も、こんなに「表現主義的な」もの、すなわち、表現が伝来の形式をもはやかえりみないように見える楽章はほかに書いていない。
[アインシュタイン] p.307
を念頭においてのものであろう。 しかしロビンズ・ランドンは「(K.132は)依然として根強くJ・C・バッハの影響を留めている」と評している。 この作品(第19番K.132)では珍しいことに前曲の第18番(K.130)と同様に「ホルン4本」が使われているが、それにも増して、この曲の大きな特徴としてあげられるのは、第2楽章が異例に長い(151小節の長さの「アンダンテ」8分の3拍子)ことと、なぜか通常の長さのもう一つの第2楽章(56小節の簡素な「アンダンテ・グラツィオーソ」4分の2拍子)が書かれていることである。 異例に長い第2楽章については様々な印象を聴き手に与えるが、アインシュタインは上記のように「魂のきわめて個人的な不安と強情さに満ちたものであり、表現主義的なもの」と解釈した。 16歳の少年作曲家モーツァルトが個人的な理由で長大な緩徐楽章(それを「アンダンテ」と呼ぶことにアインシュタインが躊躇するほどの)を書いたのに対し、父レオポルトがその個人的な思い入れを排除した「汎用のアンダンテ楽章」も用意するように指示したのだろうか。 それともこのシンフォニーは他のシンフォニーとは違う何か特別な目的があって作られたものであり、「個人的」な理由のみで片付けられない事情があったのだろうか。 大小2つの第2楽章が用意されていることについて、ザスローは次のように説明している。
この楽章は、ほぼ同時期に作曲された他の7つの交響曲のアンダンテと比べればわかるように、あまりに長大だった。 当時のアンダンテは演奏に平均5分45秒程度かかるが、K.132のこのアンダンテは、9分半に達する。 この例外的な楽章は、なんらかのその土地でしかわからない意味をもっていたに違いない。 すなわちザルツブルクの事情を暗示しているか、さもなくば個人的なジョークである。 しかしそれが何であったにせよ、われわれには知るすべがなくなっている。 このような特殊性ゆえに、(知られているかぎり)引用を含まない、汎用の「抽象的な」楽章がこれにとって代えられたのであろう。
[全作品事典] p.234
ここで「引用」というのは、問題の「アンダンテ」に含まれているグレゴリオ聖歌の「クレド」とクリスマス聖歌「大好きなヨゼフ」のことである。
部分的に、借用素材に基づいて作られている。 その冒頭の旋律は、グレゴリオ聖歌のクレドの最初の7音を写している。 先に進むと、ドイツの有名なクリスマス・キャロル『あたしのいとしいヨーゼフ Joseph, lieber Joseph mein』(Resonet in laidibus というラテン語のテキストでも知られている)の変形もあらわれる。
モーツァルトは、第37~56小節の第2ヴァイオリン・パートと、第128~147小節の対応箇所に、引用を織り込んだ。
[全作品事典] pp.233-234
クリスマス聖歌の方は『ガリマティアス・ムジクム』(K.32)でも使われている旋律で、当時はホーエンザルツブルク城の塔(写真の中央、2004年5月、池田氏撮影)にある機械仕掛けのカリヨンから流れ、ザルツブルクの住人は誰でもよく耳にしていたのであった。 このようなことから、この交響曲はザルツブルクにおいて何らかの宗教的な、あるいは公的な行事で演奏される目的があって作曲されたと考えることができる。 そして、そのような状況にない場合の演奏用の代替として短いもう一つの緩徐楽章を追加しておいたのだろう。 どちらか一方を残し、他方を捨てることなく、一緒に自筆譜に収められて残されていることは、状況に応じた選択が可能であるようにと考慮したものであるかもしれない。
その「アンダンテ」だけでなく、次のメヌエット楽章にも注意をひく部分があるようである。
アインシュタインがハイドンの影響と入り混ざっているフランスの影響に注目している。 彼はそのアンダンテの「表現主義的な」性格をほめているのだが、私が最も驚くパッセージはグレゴリオ旋法で書かれたメヌエットのトリオだ。
[オカール] p.35
オカールがどのように驚いたのかここには記されていないが、ザスローが次のように説明していることを言っているのかもしれない。
弦楽器のみによるトリオは、フランスの著述家テオドール・ド・ヴィゼワとジョルジュ・サン=フォアに「大胆かつ奇妙な」ものとされ、オーストリアの学者ヘルマン・アーベルトには「風変わりな傾向の」と注釈されたものである。 このトリオは、詩篇唱定式(グレゴリオ聖歌の最も単調なタイプ)のスタイルによる旋律に基づき、ルネサンス以後のモテットのパロディとして作曲されているように思われる。
[全作品事典] p.234
ただしメヌエットは終楽章(ガヴォット風のコントルダンス)とともに前の楽章より軽い印象を受けるので、第2楽章に「単純だが優雅なメロディを特徴とする、より因襲的な」(ザスロー)代替が必要だったのだろう。

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20367] t=25'17
ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団
1979-81年
※自筆譜に書かれた順で、追加楽章を終楽章の後に演奏
CD [TELARC PHCT-5007] t=18'47
マッケラス指揮プラハ室内管弦楽団
1989年
※追加楽章を第2と第3楽章の間に演奏
CD [Membran 203300] t=20'19
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
演奏年不明

〔動画〕

〔動画〕 Joseph lieber Joseph mein

〔参考文献〕

 

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2017/03/12
Mozart con grazia