Mozart con grazia > ピアノのための小品
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ピアノと管弦楽のためのロンド K.382

Concerto Rondo for piano in D
  • Andante grazioso ニ長調 2/4 ロンド形式 主題と7変奏、カデンツァとコーダを持つ

〔編成〕 p, fl, 2 ob, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1782年3月 ウィーン

1782年3月




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演奏会用ロンド。 ピアノ協奏曲第5番ニ長調 K.175 のフィナーレをウィーンの聴衆の趣味に合わせて書き換えたもの。 そのテーマは「3つのピアノ協奏曲 K.107」の第1曲の第1楽章(Allegro ニ長調)すなわちクリスティアン・バッハの「ピアノソナタ作品5の2」と同じものである。

ウィーンで自活するための安定した収入源としてピアノ教師の道を選び、オペラの作曲のチャンスを狙っていたので、そこにピアノ演奏にかけては自分の方が上とばかりに登場してきたクレメンティ(30歳)の存在は気がかりだった。
そこで、モーツァルトの友人たちの勧めもあって、ブルク劇場で3月3日に演奏会を催し、「イドメネオ」の名場面をトゥーン伯爵夫人やアダムベルガーが歌い、モーツァルトはピアノ協奏曲第5番と、このロンド、そして即興で幻想曲を演奏した。 ウィーンの趣味に合わせたロンドは大当たりし、その後たびたびプログラムにのせることになった。

3月23日、ザルツブルクの父にこの曲の楽譜を送り、「これは自分専用なので、宝石のように大事に保管し、お姉さん以外には誰にも演奏させないで欲しい」と頼み、レオポルトのピアノの生徒たち(マルシャン兄妹)にさえも演奏させないように伝えている。 そして4月10日以降にその楽譜を返してもらっている。 また、あとでこのロンド用のアインガングを姉のために送るつもりだったが、実現しなかったらしい。 その理由は「それを演奏するときはいつも、そのとき感じたことを弾くから」ということであった。

ウィーンの聴衆の好みにぴったり合って、モーツァルトにとって宝石のように大事にしておきたかった曲であったが、しかし、どうしても欲しかった美しいフロックコートを手に入れるために、ヴァルトシュテッテン男爵夫人(38歳)に贈ることになった。

1782年10月2日
例のロンドーを、ここに、2冊の喜劇集、小コント集とともに、光栄にも送らせていただきます。 きのう、ぼくは大変なドジをふみました! あのとき、まだ何か申し上げたいことがあったように思いましたが、ぼくのトンマなおつむはそれをどうしても思いつこうとしませんでした! それは美しいフロックコートのことで、奥様にすぐにもいろいろと御心配をいただき、ぼくに一着約束してくださった御好意に対して、お礼を申し上げることでした!
[書簡全集 V] p.294
1783年3月12日の演奏会のときも拍手が鳴りやまず、この曲をアンコールしなければならなかったほどで、モーツァルトは「3月23日に予定している演奏会の良い宣伝になる」と父に報告している。 もちろん23日のプログラムの真ん中にウィーンの聴衆に好まれていたピアノ協奏曲第5番とこのロンドを入れていた。 おそらく「待ってました!」とばかりに聴衆から大喝采を受けたであろう。 モーツァルトもそれを見越して自分の存在を宮廷にアピールし、安定した地位を得ること、そしてオペラの作曲依頼が来ることを狙っていたであろう。 モーツァルトは、聴衆の喝采を受けて、それだけで有頂天になるような単純な男ではなかった。

余談であるが、ヴァルトシュテッテン男爵夫人(Martha Elisabeth Baronin von Waldstätten, 1744-1811)はこのころ夫と別居していたが、モーツァルトがウィーンで自立しだしたとき最初のパトロンとなった重要な人物であり、コンスタンツェとの結婚に理解と協力を惜しまなかった。 当時宮廷作曲家だったサリエリの弟子ヴィンター(Peter von Winter, 1754-1825)がモーツァルトとコンスタンツェの仲を中傷し、コンスタンツェを売女呼ばわりし、その噂がザルツブルクの父の耳に入ったとき、モーツァルトは激怒し、コンスタンツェの潔白を父に説明し、それが正しいことであることをヴァルトシュテッテン男爵夫人に尋ねてほしいと言ってるほどである。 したがってモーツァルトにとって宝石に等しいこのロンドを夫人に贈ることは不思議ではなかった。
ただし、モーツァルトの音楽がそうであるように、重いと感じていたものが突然軽くなることが(またはその逆のことも)よくあり、4月、結婚前のコンスタンツェの軽はずみな行動に対して、モーツァルトは次のように彼女をたしなめているから、もしこれが夫人に聞こえたら気分を害することになったであろう。

もし、実際に男爵夫人自身が同じことをさせたなら、事情はまったく違ったことになっていたろうね。 だって、あの人は(もう魅力がなくて)とうが立っている上に、およそ人を選ばず誰彼の愛人にもなってしまうのだから。 最愛の友よ、たとえきみがぼくの妻になりたくないとしても、あの男爵夫人のような生活を送ってほしくないね。
[書簡全集 V] p.235
よく知られているように、二人は(父の同意がないまま)8月4日に聖シュテファン教会で結婚式をあげた。 そして披露宴は男爵夫人が世話をしてくれたものだったのである。 8月7日、父へ次のように書いている。
披露宴はすべてヴァルトシュテッテン男爵夫人が用意してくれた夜食で行なわれましたが、それは本当に、男爵風というより王侯にふさわしいものでした。
これに対してレオポルトはさっそく23日に夫人へ礼状を送っている。 その後、上記の赤いフロックコートの話になるのである。

〔演奏〕
CD [TELDEC WPCS-10098] t=10'53
エンゲル Karl Engel (p), ハーガー指揮 Leopold Hager (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Mozarteum Orchester Salzburg
1979年頃、ザルツブルク・モーツァルテウム大ホール
CD [ポリドール F32L-20321] t=10'23
アシュケナージ Vladimir Ashkenazy (p, cond), フィルハーモニア管弦楽団 Philharmonia Orchestra
1980年3月、ロンドン

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2013/04/27
Mozart con grazia