Mozart con grazia
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モーツァルトの時代の歌曲はまだ芸術的に重要なジャンルではなかった。
彼の作品においても多くは簡素な有節形式の小品であり、ピアノも和声的な伴奏の域を出ていない。
しかし12歳のときのK.52から没年のK.598まで、約30曲の作品はどれも個性的で、このジャンルにおいてもまた彼は新しい世界を切り開いたと言える。
そして最後の歌曲において、「ああ、もう沈んじゃうの、太陽よ、こんなに早く?」と歌うのを聞くとき、編者は感慨無量とならざるを得ない。
- K.20 モテット「神はわれらが避難所」 1765
- K.43a (Anh.24a) 二重唱「ああ、なんたる知らせか」 1767
- K.52 (46c) ダフネよ、汝がバラ色の頬 1768
- K.53 (47e) 歓喜に寄す 1768
- K.147 (125g) いかに私は不幸なことか 1772 ?
- K.148 (125h) ヨハネ分団の儀式のための讃歌「おお、聖なる絆よ」 1772 ?
- K.149 (125d) 大らかな落着き (レオポルト作)
- K.150 (125e) 秘そかな愛 (レオポルト作)
- K.151 (125f) 低き身分にある喜び (レオポルト作)
- K.152 (210a) 静けさはほほえみつつ 1775
- K.307 (284d) 鳥たちよ、毎年 1777
- K.308 (295b) 寂しく暗い森で 1778
- K.343 (336c) 2つの教会用歌曲「おお、神の仔羊」と「エジプトよりイスラエルの民が」 1787 ?
- K.346 (439a) 三重唱「優しき光、美しき光」(ノットゥルノ第5) 1783
- K.349 (367a) 満足 1780-81
- K.351 (367b) おいで、いとしのツィターよ 1780-81
- K.390 (340c) 希望に寄す 1780-82
- K.391 (340b) 孤独に寄す 1780-82
- K.392 (340a) 偉人たちの栄光に感謝せよ 1780-82
- K.436 三重唱「いざ恐るべき時が来た」(ノットゥルノ第1) 1783
- K.437 三重唱「無言のうちに悲しむ」(ノットゥルノ第2) 1783
- K.438 三重唱「いとしい人よ、君が遠くにいると」(ノットゥルノ第3) 1783
- K.439 三重唱「かわいい2つの瞳」(ノットゥルノ第4) 1783
- K.441 喜劇風三重唱「かわいいマンデルよ、リボンはどこに」 1783
- K.468 結社員の旅 1785
- K.472 魔法使い 1785
- K.473 満足 1785
- K.474 偽りの世 1785
- K.476 すみれ 1785
- K.483 結社員のための合唱つき歌曲「今日こそ、狂気し歓喜の歌を歌おう」 1785
- K.484 結社員のための合唱曲「汝はわれらが新しき指導者」 1785
- K.506 自由の歌 1785-86
- K.517 老婆 1787
- K.518 秘めごと 1787
- K.519 別れの歌 1787
- K.520 ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき 1787
- K.523 夕べの憩い 1787
- K.524 クローエに 1787
- K.529 小さなフリードリヒの誕生日 1787
- K.530 夢の姿 1787
- K.531 小さな紡ぎ娘 1787
- K.549 カンツォネッタ「もはや見当たらず」 1788
- K.552 戦場への門出に 1788
- K.596 春への憧れ 1791
- K.597 春の初めに 1791
- K.598 子供の遊び 1791
- K.Anh.5 (571a) 喜劇的四重唱「愛しい君よ、飲んだり呑んだり」 1789
- K.Anh.24a (43a) 二重唱「ああ、なんたる知らせか」 1767
- K.Anh.25 (386d) ジブラルタルを歌う吟遊詩人の歌 (スケッチ) 1782
- K.Anh.26 (475a) 私は孤独だ (断片) 1785
K.43a (Anh.24a) 二重唱「ああ、なんたる知らせか」
Duet for 2 sopranos "Ach, was müssen wir erfahren?" (fragment)
〔作曲〕 1767年10月15日以降 ウィーン
1767年10月 |
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
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26 | 27 | 28 | 29 | 30 | 31 |
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ケッヘル第2版で K.Anh.24a、第3版から K.43a となっている。
結婚を前に死んだ王女ヨゼファ(1767年10月15日、天然痘で死亡)のために作曲しようとした。
作詞者は不明。
1767年9月11日、モーツァルト一家はウィーンを目指してザルツブルクをたった。
皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女、16才)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世(16才)の婚儀の祝典に参加するためだった。
9月15日にウィーン到着。
しかしこの頃ウィーンでは天然痘が大流行していた。
王女は一ヶ月後に亡くなり、モーツァルト一家もウィーンを離れてオルミュッツに逃れた。
ヴォルフガングが、次に姉ナンネルも天然痘にかかった。
このときヴォルフガングは一時的に失明し、危険な状態にまでいったらしい。
K.Anh.25 (386d) 「おおカルペよ、お前の足もとに雷鳴がとどろく」
Bardengesang auf Gibraltar "O Carpe! dir donnerts am Fusse"
〔作曲〕 1782年12月終 ウィーン
1782年12月 |
月 | 火 | 水 | 木 | 金 | 土 | 日 |
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30 | 31 |
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イギリス領となっていたジブラルタル(地中海支配の要)を取り戻すために、スペインとフランスはその地を包囲し、砲撃を続けていた。
そのなかで最大の戦いが1782年9月に発生し、連合軍は10万の大軍で攻撃したが、イギリスはそれに打ち勝ったことからモーツァルトは父に次のように手紙を書いている。
1782年10月19日
もちろん、イギリスの勝利については聞いていましたし、ぼくもすごく嬉しいです!
だって、ぼくはまったくのウルトラ・イギリス人ですからね。
[書簡全集 V] p.303
包囲されていたイギリス軍(指揮官ジョージ・オーガスタス・エリオット)を救うために、リーチャード・ハウ提督がフランス・スペイン連合軍に奇襲攻撃し、食料などの補給路を開くことに成功した英雄的作戦に対してウィーンの詩人ミハエル・デニス(Johann Nepomuk Michael Denis, 1729-1800)が賛歌を書いたことから、その作曲依頼がモーツァルトにあった。
彼は続いて父に次の手紙を書き送っている。
1782年12月28日
デーニスの『ジブラルタルに寄せる抒情詩』のための音楽という、とてもむつかしい仕事に取りかかっています。
でも、これは内緒です。
というのは、あるハンガリアの貴婦人がデーニスに敬意を表したいというのです。
この頌歌は、崇高で、美しく、なんとでもほめられますが、ただ、ぼくの繊細な耳にはあまりにも不自然で誇張したものに聞こえます。
[書簡全集 V] pp.313-314
この手紙のなかでモーツァルトは自分の美学を語っているが、それを踏まえてアインシュタインは次のように言っている。
モーツァルトがなぜ『ジブラルタル頌歌』を完成しなかったということについては、われわれはすでに知っている。
彼は《誇張と虚飾の多い》テキストに自分の音楽の衣を着せる気にならなかったのである。
[アインシュタイン] p.195
K.Anh.26 (475a) 歌曲「ひとり寂しく」
Song for one voice "Einsam bin ich." with piano. (fragment)
〔作曲〕 1785年? ウィーン
ピアノ伴奏。
自筆譜はサザビーの競売後に不明。
アインシュタインにより『すみれ』(K.476)の前後の作と見られている。
〔演奏〕
〔動画〕
〔引用文献〕
- [アインシュタイン]
アルフレート・アインシュタイン 「モーツァルト、その人間と作品」 浅井真男訳、白水社 (復刊)
- [書簡全集]
海老沢敏・高橋英郎編訳 「モーツァルト書簡全集」 白水社
2012/05/20