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ジングシュピール「後宮からの誘拐」 K.384

Singspiel in 3 Akten "Die Entführung aus dem Serail"
 
〔編成〕 2 fl, picc, 2 ob, 2 cl, 2 basset-hr, 2 fg, 2 hr, 2 tp, トライアングル, シンバル, 大太鼓, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1781年7月30日〜82年5月19日 ウィーン

序曲 Presto ハ長調

第1幕

  1. ベルモンテのアリア 「ここで君に会えるのだ 僕のいとしいコンスタンツェ!」
    Hier soll ich dich denn sehen, Konstanze!
  2. オスミンとベルモンテのリートと二重唱 「まじめで身持ちのいい娘っこを見つけたら」
    Wer ein Liebchen hat gefunden, die es treu und redlich meint
  3. オスミンのアリア 「どこの馬の骨とも分からねえ こいつのような にやけた男は」
    Solche hergelauf'ne Laffen
  4. ベルモンテのレチタティーヴォとアリア 「コンスタンツェよ!」
    Konstanze!
  5. トルコ近衛兵の合唱 「偉大なパシャをたたえて歌おう 響け 火と燃える歌声よ!」
    Singt dem großen Bassa Lieder, töne, feuriger Gesang
  6. コンスタンツェのアリア 「私は恋をして 幸せでした」
    Ach, ich liebte, war so glücklich
  7. ベルモンテ、ペドリルロ、オスミンの三重唱 「出て行け 消えうせろ さもないと痛いめにあうぞ!」
    Marsch! Marsch! Marsch! Trollt euch fort! Sonst soll die Bastonade euch gleich zu Diensten stehn!
第2幕
  1. ブロントヒェンのアリア 「こまやかな愛情 やさしさ 親切な心 そしてユーモア」
    Durch Zärtlichkeit und Schmeicheln, Gefälligkeit und Scherzen
  2. オスミンとブロントヒェンの二重唱 「言っておくがな あのペドリルロだけはやめとけ」
    Ich gehe, doch rate ich dir, den Schurken Pedrillo zu meiden
  3. コンスタンツェのレチタティーヴォとアリア 「なんという悲しみが私の心を覆っていることでしょう」
    Welcher Wechsel herrscht in meiner Seele
    「悲しみが私の運命となりました」
    Traurigkeit ward mir zum Lose
  4. コンスタンツェのアリア 「あらゆる拷問が」
    Martern aller Arten
  5. ブロントヒェンのアリア 「なんという喜び! なんという楽しみ!」
    Welche Wonne, welche Lust
  6. ペドリルロのアリア 「さあ戦おう 元気よく!」
    Frisch zum Kampfe! Frisch zum Streite!
  7. ペドリルロとオスミンの二重唱 「バッカス万歳 バッカス万歳 バッカスは いい男だよ」
    Vitat Bacchus! Bacchus lebe! Bacchus war ein braver Mann!
  8. ベルモンテのアリア 「うれし涙が流れるとき」
    Wenn der Freude Tränen fließen
  9. 四重唱 「ベルモンテ! いとしい人!」
    Ach, Belmonte, ach, mein Leben!
第3幕
  1. ベルモンテのアリア 「僕にとっては お前の強さだけが頼りだ」
    Ich baue ganz auf deine Stärke
  2. ペドリルロのロマンツェ 「ムーアの国に捕らえられた きれいでかわいい娘さん」
    Im Mohrenland gefangen war ein Mädel hübsch und fein
  3. オスミンのアリア 「おれは勝ち誇った気分だぞ」
    Ha, wie will ich triumphieren
  4. コンスタンツェとベルモンテのレチタティーヴォと二重唱 「なんという運命 ああ なんと心が痛むことか」
    Welch ein Geschick! O Qual der Seele!
  5. ヴォードヴィル(全員)「あなたの恩義を忘れずに いつも感謝の念をささげます」
    Nie werd' ich deine Huld verkennen; mein Dank bleibt ewig dir geweiht
杉 理一訳 LD[クラレ KYLC-10001,2]
1782年7月
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ウィーンでは1778年から82年にかけてヨーゼフ2世が推進したドイツ語オペラを積極的に導入しようとする「ドイツ国民劇場」構想にのった作品が取り上げられる機会が多くなり、そのチャンスを掴もうとしてモーツァルトはザルツブルクで1779年から1780年にかけて手がけていたドイツ語劇『ツァイーデ』(K.344)をウィーンに持っていったところ、もっとウィーンの聴衆に向いている台本の提案をシュテファニー(Johann Gottlieb Stephanie, 1741-1800)から受けて、『ツァイーデ』を未完成のまま放棄。 かわりにできあがったのがジングシュピール『後宮からの誘拐』(K.384)でり、1782年7月16日ウイーンのブルク劇場で初演された。 ただし、ちょうど「ドイツ国民劇場」構想の終焉時期にあたり、その後またイタリア語によるオペラの復活へと流れが変ってゆく時期であった。

台本はもともとブレッツナー(Christoph Friedrich Bretzner, 1748-1807)によるものであり、それをシュテファニーが編集。 その台本をモーツァルトは前年の1781年7月30日に受け取っていた。

1781年8月1日、ウィーンからザルツブルクの父へ
一昨日、シュテファニーの弟のほうが、ぼくに作曲するよう台本を渡してくれました。 彼は他の連中にとってどんなに悪い人間なのか知りませんが、正直のところ、ぼくにとってはとっても素晴らしい友人です。 この台本は上出来です。 主題はトルコ風で、題名は『ベルモンテとコンスタンツェ』別名『後宮からの脱出』です。 序曲、第一幕の合唱、それにフィナーレの合唱は、トルコ風の音楽で書くつもりです。 カヴァリエーリ嬢、タイバー嬢、アーダムベルガー氏、ダウアー氏、そしてヴァルター氏が歌うことになっています。 この台本を作曲するのがとても楽しいので、カヴァリエーリの最初のアリア、アーダムベルガーのアリア、それから第一幕を締める三重唱をもう書き上げてしまいました。
[書簡全集 V] p.105
この劇作品のあらすじは次のようなものである。
キリスト教徒の貴族ベルモンテは、トルコの太守の宮殿に奴隷として囚われている恋人コンスタンツェを救出にやってくる。 彼は、従僕ペドリッロやコンスタンツェの侍女ブロンデの助けを借りて、彼女を連れて逃げようとするが、宮廷の番人オスミーンに妨害されて捕まり、処刑されそうになるが、太守の英断により放免される。
[事典] p.129
モーツァルトは「最高の情熱に燃えて机に飛びつき、最大の喜びをもってそこに座り続けています」といい、わずか2日足らずのうちに8月1日の手紙にあるように作曲が進んでいた。 その3曲は、カヴァリエーリが歌うことになっていた第6曲コンスタンツェのアリア「私は恋をして 幸せでした」、アーダムベルガーのための第1曲ベルモンテのアリア「ここで君に会えるのだ 僕のいとしいコンスタンツェ!」、そして第7曲ベルモンテ、ペドリルロ、オスミンの三重唱「出て行け 消えうせろ さもないと痛いめにあうぞ!」である。 よく知られているように、このときモーツァルトは現実にコンスタンツェとの結婚を真剣に考えていて、なおさらのこと、作曲の意欲に燃えていた。 また、この手紙には作曲の動機となることも明らかにされている。
ロシアの大使が当地へ来られる予定です。 そこでシュテファニーは、もしできたら、この短期間にそのオペラを作曲してほしいとぼくに頼んできたのです。 皇帝とローゼンベルク伯爵がまもなくお戻りになり、そこでまず、何か新しいものが用意されているか? とお聞きになるだろう。 そのとき、シュテファニーは、ウムラウフの(もう長いこと取りかかっている)オペラがまもなく出来上がるだろうし、ぼくも特別にオペラを書いていると申し上げられる、というわけです。
[書簡全集 V] p.106
ロシアの大使とは、のちに1796年に第9代ロシア皇帝となるパーヴェル・ペトロヴィッチ(Pavel Petrovich Romanov, 1754-1801)である。 その訪問が9月半ばに予定されていて、歓迎のためのオペラ上演にこぎ着けるには、リハーサルのことも考えると、時間はぎりぎりであり、8月中に全曲完成させなければ間に合わないであろうが、モーツァルトにはわずか一ヶ月間という短期間でも作曲できる自信があった。 そしてその功績が認められることを期待するという大きな野望を持っていた。 ただしオペラの作曲に取りかかっていることが周囲に知られ、妨害されたらすべてが水の泡となるので、台本作家も作曲家も慎重だった。
このことは、アーダムベルガーとフィッシャー以外、まだ誰も知りません。 シュテファニーがぼくらに何も言わないでくれと頼んだからです。 なにせローゼンベルク伯爵はまだ不在だし、少しでも漏れたりしたら、すぐに大変な噂となるでしょうから。 シュテファニーは、ぼくと親友であると思われたくない、つまり、こうしたことはすべてローゼンベルク伯爵が望んだからしているのだと思われたいのです。 それに、実際、伯爵は出かけるとき、ぼくのために台本を探すよう彼に命じましたからね。
モーツァルトは8月8日頃には第一幕を書き上げたようであり、作曲のスピードには驚くばかりだが、しかし9月中旬にウィーンを訪問する予定だったロシアの大使の訪問が延期になった。
1781年8月29日、ウィーンからザルツブルクの父へ
ロシアの大公は、11月にならないと来られないそうで、そこでぼくはもっとゆっくりオペラを書けることになりました。 とてもうれしいです。 このオペラは、万聖節まで上演させないつもりです。 その時が一番よい時期だからです。 その時はみんな田舎から帰ってきますしね。
[書簡全集 V] p.128
上演の延期は結果的にモーツァルトに幸いし、彼は組み立てから真剣に考え直すことができたようであり、また9月19日以降に、父に登場人物を明らかにする気持ちの余裕も生まれたようである。 それに当時のドイツ・オペラの一流歌手が以下のように予定されていて、このような一流の歌手たちにより初演を迎えることになる。 そしてこのあと有名な1781年9月26日の手紙が父レオポルトに送られる。 そこではモーツァルトがどのようにしてオペラを作曲しているか、登場人物の性格、物語の進行、聴衆の好み、そして何よりも自分自身の音楽に対する美学と表現方法について克明に父に伝えている。 レオポルトが人並み以上の高い見識を持っていたからこそ、モーツァルトは詳しく説明しなければならなかった。 それはまた、モーツァルトは自分自身が(父が毛嫌いしているように思えるウェーバー家の娘)コンスタンツェを真剣に愛していることをレオポルトが納得してくれるように誘導する意識が働いていたからだろう。 この手紙の全文をここで紹介することはできないので、オスミーンの怒りがますます激しくなっていくアリアの部分で彼が音楽の表現美学を語っているところを取り上げよう。
その怒りがつのるにつれて、アーリアがもう終るかと思うころに、アレグロ・アッサイがまったく別なテンポと、別な調性になるので、正に最高の効果をあげるに違いありません。 じっさい、人間は、こんなに烈しく怒ったら、秩序も節度も目標もすべて踏み越えて、自分自身が分からなくなります。 音楽だって、もう自分が分からなくなるはずです。 でも、激情は、烈しくあろうとなかろうと、けっして嫌悪を催すほどに表現されてはなりませんし、音楽は、どんなに恐ろしい場面でも、けっして耳を汚さず、やはり楽しませてくれるもの、つまり、いつでも音楽でありつづけなければなりませんので、ぼくはヘ調(アーリアの調)に無縁な調ではなく、親近性のある調、しかし、ごく近いニ短調ではなくて、もう少し遠いイ短調を選びました。
[手紙(下)] p.25
モーツァルトはバス歌手フィッシャーの卓越した能力を高く買っていたので、彼のために非常に低い音域のアリアを用意し、しかもこの手紙で説明しているように登場人物オスミンの表現に難しい演奏技術を求めたのだった。 それはまた、コロレド大司教がフィッシャーに対して「バス歌手としては低く歌いすぎる」とけなしたことをモーツァルトは覚えていて、それに対する痛烈なしっぺ返しでもあった。 彼は大司教を音痴の代名詞である「ミダス王」にたとえ、オスミンのアリアの作曲には「ザルツブルクのミダス王がなんと言おうとも、フィッシャーの美しい深みのある声が響くように」書いたのである。 そしてその音楽に合うように詞を作るよう、シュテファニーに求めたのだった。 このように台本に注文をつけているところでは、次のような言い回しに関するものもある。
コンスタンツェのアーリアは、ぼくがいささかカヴァリエーリ嬢のよどみない喉に捧げたものです。 「別れが私の不安な運命です。そして今、私の目には涙が溢れます」という感じを、南欧のブラヴール・アーリアに許される限り、表そうと努めました。 「さっさと」を「早く」に変えました。 つまり、「それにしても、なんと早く私の喜びは消え去ることか…」となります。 わがドイツの詩人たちはどう考えるか、ぼくには分かりません。 たとえかれらが演劇を、オペラに関する限り、理解しないとしても、せめて人々に、目の前にるのが豚でもあるまいし「さっさと豚め」というような言い方をさせないで欲しいものです。
同書 p.26
このオペラに対するモーツァルトの情熱はかつてないほどに高まり、湧き上がる曲想は抑えきれず、彼自身の言葉で「いつもなら2週間かかる曲でも、いまなら4日で書ける」ほどであった。 しかもほかの曲(たとえば「セレナード変ホ長調」K.375など)を書きながらであっても。
(1781年10月6日)
アーダムベルガーのイ長調のアリア、カヴァリエーリ嬢の変ロ長調のアリア、そして三重唱を一日で作曲し、一日半で書き上げました。
[書簡全集 V] p.152
頭の中に曲ができあがっても、それにペンが追いつかない状態であった。 その一方で、ロシア大公のウィーン訪問が延期されただけでなく、たとえそのときが来ても歓迎オペラとしてはやはりグルックの作品が選ばれるだろうとわかり、オペラの完成を急ぐ理由がなくなってきた。 おかげでモーツァルトにとっては、『後宮からの誘拐』の作曲を通して、自分の考えをしっかり見つめることができる時間が生まれたのである。 ここにまた、父に送られたもう一つの有名な手紙がある。 そこでは歌詞に対する音楽の優位性がはっきりと書かれているのである。
1781年10月13日
オペラにあっては詩は絶対に音楽の忠実な娘でなければならないのですが、イタリアのコミック・オペラが、台本から言えば実につまらないのに、いたるところで、あんなに好かれるのはなぜでしょおう。 パリでさえ、そうです。 ぼくはこの目で見たのですが。 それは、オペラでは音楽がまったく支配して、そのためすべてを忘れさせるからです。 それだけ一層オペラは、作品の構想がよく練り上げられ、詞(ことば)が音楽のためにだけ書かれていて、あっちこっちでへたな韻をふもうとして(韻は、神にかけて、たとえどんな価値だろうと舞台上の演出に、寄与するものではなく、むしろ害をもたらすものです)作曲者の着想全体を打(ぶ)ちこわすようないくつかの言葉あるいは詩節を加えるようなことがなければ、かならず喜ばれるはずです。 歌詞は音楽にとって、何よりも欠くことのできないものですが、韻のための韻は、もっとも有害なものです。 そんなに杓子定規に作品に取りかかる先生方は、かならずその音楽もろとも、没落してしまいます。
[手紙(下)] p.30
ロシア大公の歓迎オペラは11月25日にシェーンブルン宮殿で催され、案の定そこではグルック(68歳)の旧作『アルチェステ』が上演されたが、もはやモーツァルトにとって目の前のジングシュピールの完成と上演は特に急ぐものではなくなり、父への手紙にも書かれなくなる。 おそらく、モーツァルトはこれ以上架空の「ベルモンテとコンスタンツェの恋物語」について力説しなくても、父がしぶしぶながらも現実の恋物語を認めてくれるとわかったからでもあろう。 想像をたくましくすれば、ロシア大公のウィーン訪問に合わせた『後宮からの誘拐』の作曲というのは口実作りだったのかもしれない。 本当の動機はやはりコンスタンツェとの結婚に対して、父から猛反対の牙を抜いておくことであり、台本作家シュテファニーから「ウィーンの聴衆に向いている」という表向きの理由をつけて恰好のドラマを書いてもらい、最大の情熱を傾けて作曲に取りかかったのだろう。 ロシア大公のウィーン訪問が遅れること、その歓迎のために自分のオペラが上演されないことは、モーツァルトにとって最初から織り込み済みのことであり、むしろそうなることで父の同情を買うことができれば作戦が大成功となる。 事実、8月29日の手紙で「ぼくはもっとゆっくりオペラを書けることになりました。 とてもうれしいです」と書いている。 そして自分の気持ちが父に見透かされないように、すぐ「万聖節まで上演させないつもりです。 その時が一番よい時期だからです」と新たな理由を持ち出しているのである。

とにかくモーツァルトはオペラ全体を見直すことができたことは確かなようであり、アインシュタインの言葉によれば「モーツァルトがはじめて演劇の要点を悟った」のだった。

ベルモンテはもはやアリアを歌うテノールではなく、タミーノなどのたぐいに属する、高貴な青年であって、感情がこまやかで、活動的で、英雄的なのである。 コンスタンツェもそれに似た性格を持っている。
(中略)
単に歌うだけのために舞台にいる者は一人もない。
(中略)
作品全体が、劇的作曲家としてのモーツァルトの個性の十全の発現なのである。 それは彼におそろしく苦労をなめさせた。 彼のオペラ総譜のうちで『後宮からの逃走』ほど削除、短縮、変更に満ちているものは一つもない。 彼はどんなオペラの作曲にもこれほど長時間を要しなかった。 『後宮からの逃走』はほとんどまる一年間かかったのである。
[アインシュタイン] pp.629-632
こうしてモーツァルトはシュテファニーの決して一流とは言えない台本から同時代の人たちを、あっといわせる作品を書き上げ、彼はドイツ語オペラの分野にかつてない金字塔を打ち立てることができたのである。
彼らが新しさに眼を見張ったのは、その総譜の豊かさであった。 良くできたオーケストレーションや管楽器の思い切った起用、「トルコの楽器」の特別な使い方などが光っていた。 そのため、たとえ台本が二流であったとしても、音楽には人の耳をとらえるものがあり、あまりにも美しく、かつオリジナルにできあがっていたので、これまでにオペラを知っており、耳もある人たちは、モーツァルトがドイツ・オペラの形式について、新しい道を見出したと思ったに違いない。
[ランドン] p.111
モーツァルトにとっても分水嶺となったこのオペラは、同時に音楽の歴史の上でも大きな転換点となり、ランドンは「オペラの構造を革命的に変えてしまったのは、グルックではなくモーツァルトである」と絶賛している。
モーツァルトはドイツ語オペラに新たな水準をもたらしている。 すなわち、それまでのジングシュピールが知らなかったような崇高で深い感情を扱う新たな可能性を与えたのである。 それに加え、彼はオスミーンという人物像のなかに新たな生き生きとした劇的な歌唱の類型、すなわちドイツ流の喜劇的バス(バッソ・ブッフォ)を生み出した。 このタイプは、20世紀におけるリヒャルト・シュトラウスの『ばらの騎士』のオックス男爵にいたるまで、ドイツのオペラで際だった存在感を示していくこととなるのである。
[全作品事典] p.78
作曲に着手した1781年8月から10ヶ月がたち、年が明けて1782年5月29日に全曲完成。 6月3日にブルク劇場で初めてのリハーサルが行われ、さらにまた宮廷内の妨害でかなり延期されたが、ようやく皇帝の命令がでて、7月16日に同劇場で初演された。 この初演のあと、真偽のほどは定かではないが、ヨーゼフ2世が作曲者に「われわれの耳には美しすぎるし、音がたいへん多いね」と言ったのに対し、モーツァルトは平然と「ちょうど必要なだけでございます、陛下」と答えたといわれている。 大成功でグルックも高く評価したというが、モーツァルトが父に初演の様子を伝えた肝心の手紙は失われてしまった。 再演は7月19日に行われ、この2回の上演でモーツァルトは100ドゥカーテン(約426フロリン)の収入を得たという。 ちなみに5年後の1787年12月にモーツァルトは念願の宮廷作曲家の職に就くが、そのときの年俸が800フロリンである。 オペラの作曲がどれほど大きな収入に結びつくかがわかり、その作曲に意欲と自信を持ちながら機会が得られないモーツァルトの悔しさも十分すぎるほどわかる。 ただし、モーツァルトの収入に比してオペラ公演で劇場側が得た金額は4倍以上もあり、さらに上演の回数が増えればそれだけ劇場は(そして人気歌手たちも)儲かるのだった。
『後宮からの逃走』は途方もない成功を収めたが、モーツァルトは、当時の著作権上の習慣に従って、作曲のための報酬しか受け取らなかった。 ピアノ用抜粋版からの収入さえ、彼自身の抜粋版の先手を打ったアウクスブルクの一出版者によって奪われてしまった。
[アインシュタイン] p.88
余談であるが、同じ1787年2月にはウィーンを離れロンドンに帰るナンシー・ストレース嬢の告別演奏会があり、そのとき彼女は4000フロリンにもなる収入を得たといわれている。 それに憤慨してフランツ・クラッターは次のような警告文を書いたことが伝えられている。
下手な演奏会でなげやりにアリアを2〜3曲歌う外国人を争って求め、モーツァルトのような優れた自国の芸術家の演奏会にはまったく収入がない。 こんな祖国に何が期待できるのか。
現実主義者のモーツァルトは、自分みずから興行し、自作を上演するのが一番いいと考える。 それがやがて予約演奏会という形で実現されることになる。 それはさておき、7月19日の再演の様子を父に伝える手紙が残されているが、大成功とはいかなかったことが書かれている。 そしてまた、初演も似たようなものだったろうと想像できる。
(1782年7月20日)
きのう、二度目の公演がありました。 きのうは初日よりもさらにひどい陰謀があったなんて、信じられますか? 第一幕は絶えず野次られ通しでしたが、それでもアリアの間のブラヴォー! の歓声を止めるわけにはいきませんでした。 そこでぼくはフィナーレの三重唱に望みをかけていたのですが、不運にもフィッシャーが間違えてしまい、そのためにダウアー(ペドリロ役)までしくじりました。 そうなると、アーダムベルガーだけでは三重唱を持ちこたえられず、その結果、まったく効果が失われ、今回はアンコールされませんでした。
[書簡全集 V] p.248
また、当時の出来事を記したツィンツェンドルフ伯爵(Johann Karl Graf Zinzendorf, 1739-1813)の日記では次のように酷評されている。
1782年7月30日
今晩壮大なオペラ『後宮からの誘拐』、音楽は他の雑多なものからの剽窃の寄せ集め。 フィッシャーの演技は良かった。 アーダムベルガーは彫像のようだった。
[ドイッチュ&アイブル] p.162
余談であるが、8月4日、父の同意のないまま、モーツァルトは聖シュテファン教会でコンスタンツェと結婚。 ここまでモーツァルトのほぼ思惑通りに事が運んだものと思われる。

ところで、モーツァルトの1782年7月20日の手紙には次の興味深いことも書かれている。

来週の日曜日までに、ぼくのオペラを管楽器用に編曲しなくてはなりません。 さもないと、ほかのだれかに先手を打たれて、ぼくの代わりに儲けを横取りされてしまいます。
このころウィーンでは主にオペラの管楽用編曲を演奏する吹奏楽団(ハルモニームジーク)がはやっていて、大貴族が専属の楽団を持っていただけでなく、皇帝ヨーゼフ2世自身も宮廷劇場の優れた管楽奏者を集めて皇王室吹奏楽団を編成していた。 そのような楽団に編曲を提供する作家としてはトリベンザーやヴェントが有名である。 8月7日の「ウィーン新聞」には
18日には、カペルマイスターのモーツァルト氏によってあらたに作曲され、『後宮からの脱出』と題されたオペラから、最近、ハルモニー用に編曲された作品が演奏され(る予定)・・・
という記事が掲載されている。 モーツァルトの新作は徐々に人気が高まり、それに当て込んで室内でも手軽に楽しめる管楽器用の編曲で一儲けしようとする人たちがいたのである。 さらに12月28日の父宛ての手紙には「オペラのクラヴィーア用編曲も、もうじき仕上がり、出版されるところです」と書いているが、第2幕第11曲と第12曲の断片が残されているだけで完成されなかった。

その後繰り返し上演され、翌年(1783年)1月7日には13回目の、2月4日には17回目の公演があった。 プラハでの『フィガロ』についで、彼のオペラの中で生前最もヒットした作品となったのである。 ただし「ドイツ語オペラ」であるがために、彼は依然として本当のオペラ作家の第一人者としての評価には至らないままだった。 そのうえウィーンでは1778年からヨーゼフ2世が推し進めていた「ドイツ国民劇場」の方針転換が決定。

ところがヨーゼフ2世は、この「ドイツ国民劇場」を支えるドイツ語オペラの創作と、それを支える演奏家たちの質の低さに悩むことになる。 そこで皇帝は、ドイツ語オペラを第二の国民劇場たるケルントナートーア劇場へと移し、ブルク劇場がイタリア人たちに開放されるよう政策を変更した。 その結果、1783年の四旬節には、イタリア人歌手の優秀な面々がイタリアからヴィーンへやって来るのである。
[書簡全集 V] pp.317-318
そして1788年2月になって、とうとうケルントナートーア劇場のドイツ語オペラの上演が打ちきられ、閉鎖されることになる。 そのとき最後に上演されるのがモーツァルトのこのジングシュピールとなるのである。 将来そのような事態が待っているとは、まだ誰も知らない。 特にモーツァルトのドイツ語オペラに寄せる思いは人一倍強いものがあった。
ぼくはドイツ語オペラのほうを支持します。 たとえ、ぼくにとって苦労が多くても、ドイツ語オペラのほうがぼくは好きです。 どの国にも独自のオペラがあります。 でも、どうしてわれわれドイツ人にはそれがないのでしょう? ドイツ語は、フランス語や英語と同じくらい歌いやすくないでしょうか? ロシア語より歌いやすいのではありませんか?
同書 p.336
モーツァルトの『後宮からの誘拐』はドイツ各地やプラハなどで繰り返し上演され、またコンスタンツェ役をアロイジアが歌うなどの歌手の交代があったり、さらにワルシャワではポーランド語での上演もあったり、好評をもって広く支持されつつあったが、ウィーンにおいてはオペラ界の流れはイタリア語でなければ食っていけない時代になりつつあった。 モーツァルトはドイツ語オペラに未練を残しながらもイタリア語オペラを作曲するチャンスの方を本気で求めざるを得なくなるのである。 それが宮廷劇場付詩人ダポンテとの出会いとなり、不朽の名作『フィガロの結婚』の誕生となるのである。

モーツァルトにとってもっとも怖い批評家である父レオポルトは『後宮からの誘拐』に対してどう思っていただろうか。 彼はウィーンでの初演の前に息子から送られた楽譜を目にしてはいたが、オペラを実際に観たのは、1784年11月17日のザルツブルク公演のときだった。 レオポルトは娘ナンネルに伝えている。
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それによると、直接的な表現で自分の感想は述べていないが、すばらしい感動に包まれた演奏会の様子を率直に伝えるているので、レオポルト自身もその臨場感に酔っていたことがわかる。

かなり見事に舞台にかけられ、絶賛を博し、3曲がアンコールされました。 5時には誰ももう劇場の平土間席には入れず、5時15分には、桟敷席も同様に超満員でした。 家政婦のカテテルは、プラーツ家の子供たちと、平土間席の前の方の席に行かなければなりませんでした。 21日の日曜日にまた上演されますが、そのあとは5週間も休演になるでしょう。 町中がこの曲に大満足しています。 大司教でさえ、たいそう御親切にも、「これはけっして悪くないぞ」とのお言葉でした。 噂では、彼らは191フロリーンの収入があったとのことです。
同書 p.575
上演したのはシュミット(Ludwig Schmidt, 1740?-1814)の一座で、彼自身はウィーンでペドリロ役を演じたあと、プラハで12回以上も上演したという実績をもっていた。 ザルツブルクでは初演から大成功で、空前の『後宮からの誘拐』ブームに包まれ、5週間も休演してられない状況となり、第3回目が12月9日に上演され、またしても満員、大成功だった。 シュミットは「4週間では、新作をきちんとしたかたちで、稽古をつけて仕上げることはできません」と言っていたが、ザルツブルクじゅうの貴族も市民もそこまで待っていることはできなかった。 このオペラをウィーン、ベルリン、マインツ、マンハイムなどで観たことのあった人たちはシュミット一座の公演の方が「ずっと上手で、熱がこもっていて、しかも自然に演技が行われていた」と絶賛するほどだったという。 「バッカス万歳」の歌は三度もアンコールされたというように、ザルツブルクはモーツァルトの美しい音楽の力に完全に打ちのめされ酔いしれたのである。 さらに当地の代表的な作曲家ミハエル・ハイドンも一座のために何かドイツ語オペラを書くようにと大司教から言われ、当惑する始末となるほどの大騒ぎだった。

姉ナンネルはどうしたかと言えば、ザルツブルクで『後宮からの誘拐』が年内の26日にまた上演されることが発表されたとき、父レオポルトがザンクト・ギルゲンに住む娘ナンネルに「だから、クリスマス・イヴにはやって来なければなりません」と伝えているので、彼女は夫ゾンネンブルクとともにザルツブルクに出て来て、その第4回目の公演のときに弟のオペラを堪能したのだろう。 夫妻は新年をレオポルトのもとで迎えてからザンクト・ギルゲンに帰ったが、レオポルトはその後の手紙で『誘拐』が1月10日にまた上演される予告が出たと知らせている。 そして新年早々の上演でも満員となり、100フロリン以上の収入があり、さらに1週間後の17日にも上演され、また満員で132フロリンの収入があったとザンクト・ギルゲンの娘に伝えるレオポルトは「芝居の一座が発ってしまったら、晩になにをしたらよいか分かりません。 物思いと退屈でくたばってしまうでしょう。」と書いている。 レオポルトならずとも、退屈な冬のシーズンを埋め合わせてなお余りある最高の娯楽を『誘拐』はザルツブルクに提供してくれたのだった。

余談であるが、このオペラのタイトルの日本語訳について野口秀夫の論文「歌劇《Die Entführung aus dem Serail》K.384 のタイトルについて」(2001年2月/2010年5月改訂)は詳細で貴重な情報を提供してくれるので、是非一読をお勧めしたい。 [事典]と[全作品事典]では『後宮からの誘拐』としているが、[書簡全集]では「より原タイトルの意に近づけるため」とことわったうえで『後宮からの脱出』としている。 当サイト「Mozart con grazia」では「誘拐」に違和感を感じていないので、従来どおり上記のように『後宮からの誘拐』としている。

〔演奏〕(全曲)
CD [POCL-4068/9] (2枚組)
Konstanze リップ (S), Blondchen ローゼ (S), Belmonte ルードヴィヒ (T), クリップス指揮ウィーン・フィル&ウィーン国立歌劇場合唱団
1950年
LD [東映 LSZS00177] t=120分
Konstanze スミス・マイヤー, Belmonte ウーデ, Blondchen ステルンベルガー, Osmin トーマンシェウスキー, Pedrillo ペーペル, Selim ハーゼロイ, ブロムシュテット指揮ドレスデン国立歌劇場合唱団・管弦楽団
演出 クップファー
LD [ポリドール POLG 9044/5] t=147分
Selim ホルツマン, Konstanze グルベローヴァ, Blondchen グリスト, Belmonte アライサ, Pedrillo オルト, Osmin タルヴェラ, ベーム指揮バイエルン国立歌劇場合唱団・管弦楽団
演出 エファーディング / 1980年4月
※バイエルン国立歌劇場において、ベームが86歳で亡くなる前年に指揮したライブ。
LD [クラレ KYLC-10001,2] t=152分
Konstanze スエンソン, Blondchen ハルテリウス, Belmonte ブロホヴィツ, Pedrillo フィンク, Osmin リドゥル, Selim ハービヒ, ジェルメッティ指揮シュトゥットガルト放送交響楽団・南ドイツ放送合唱団
演出 ハンペ
※1991年シュヴェチンゲン音楽祭より

〔演奏〕(一部)
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=4'26(序曲)
スウィトナー指揮シュターツカペレ
1976年
CD [SONY SRCR-8948] t=4'33(序曲)
ヴァイル指揮ターフェルムジーク・バロック
1990-91年
CD [EMI TOCE-6819] (11) t=8'47 (19) t=3'26
ローテンベルガー (S), 他
1966年
CD [ポリドール POCL-1076] (17) t=3'23
ユングヴィルト (Bs)
1971年
CD [PHILIPS 28CD-3235] (10)「なんという変化が—悲しみが私の運命になってしまった」 t=8'49, (18)「ありとあらゆる拷問が」 t=7'49
キリ・テ・カナワ Kiri Te Nakawa (S), テイト指揮 J. Tate (cond), イギリス室内管弦楽団 English Chamber Orchestra
1987年
CD [Teldec WPCS-21094] (11)「どんな責苦があろうとも」t=10'26
ケニー Yvonne Kennt (S), アーノンクール指揮 N. Harnoncourt (cond), チューリヒ歌劇場モーツァルト管弦楽団
1985年
CD [東芝 EMI TOCE-55200] (10)「悲しみが私の運命になっている」t=6'36, (11)「ありとあらゆる呵責が」t=9'01
ナタリー・デセイ Natalie Dessay (S), ラングレ指揮 Louis Langree (cond), ジ・エイジ・オブ・エンライトゥンメント管弦楽団 Orchestra of the Age of Enlightenment
2000年8月〜9月、ロンドン、 Air Studios
CD [TOCP 67726] 序曲 t=6'39
チルドレン・コア・オブ・ラジオ・ソフィア, 45人のエジプトのミュージシャン, Milen Natchev指揮ブルガリア交響楽団
1997年

〔動画〕


 

編曲

● モーツァルト自身による「木管合奏版」
だんだん人気が出てきた自分のオペラをバンド用に編曲しようとして7月20日に手紙で父へ知らせているが、その楽譜は行方不明だった。 1983年オランダの学者ブロムヘルトがドナウエッシンゲンにあったこのオペラの管楽用の編曲譜を子細に検証しているうちに、その無名の編曲者はモーツァルト自身であると結論したが、真作かどうかは確定していないようである。

〔演奏〕
CD [ポリドール POCL-1019] t=61'33
ブロムヘルト指揮アマデウス管楽Ens
1988年

ほかにモーツァルトはピアノ用にも編曲して、トリチェラから出版しようとしたが、残念ながら完成されなかった。 これらの編曲の出版から副収入を期待していたが、当然のように世間の競争は激しく、1784年1月にマインツでオペラが初演された直後、

モーツァルト氏の『後宮からの脱出』と題された、まことにすぐれ、しかも大喝采を博して上演されたオペラは、ようやくにして、大きな要望に応えて、シュタルク師のクラヴィーア版により当地の選帝侯宮廷版刻師ショットのもとで製作された。 14全紙、3ターラー
[書簡全集 VI] p.124
という広告が出て、8月にそのピアノ編曲が出版され、モーツァルトは編曲を完成させる意欲を失ったのだろう。 トリチェラからは1785年に序曲のピアノ編曲版が出されたという。
 

● その他の作曲家による編曲

[ ヴェント編 ]

CD [harmonia mundi 3903008] t=10'05
ブダペスト管楽Ens
1989年, 4曲演奏

[ 編曲者不詳 ]

1799年ボンのジムロック社から「2つのフルートまたは2つのヴァイオリンのための二重奏」として9曲が編曲され出版された。

CD [POCG-4131] t=17'25
シュルツ (fl), シェレンベルガー (ob)
1987年, 6曲演奏

 

二重唱「なんたる恐ろしき戦慄」 K.389 (384A)

Duet for 2 tenors "Welch ängstliches Beben" (fragment)
 
〔編成〕 fl, ob, fg, 2 hr, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1782年4月か5月 ウィーン

作詞者は不明。 シュテファニーか?
ベルモンテとペドリロの二重唱(第3幕第4場)として書こうとしたが、未完成のまま放棄。 アンダンテ(変ホ長調)とアレグロ(ハ短調)の2つの部分から成る。
 


 

Catharina Cavalieri

1755 - 1801

ウィーン宮廷の皇王室大舞踏会場音楽監督カヴァリアー(Joseph Carl Cavalier, 1722-87)の娘。 サリエリがソプラノ歌手として育成し、彼女は1778年から年俸1200フローリンの売れっ子歌手となったという。 名前をイタリア風にしてカヴァリエーリ(Cavalieri)と名乗っていた。 モーツァルトのオペラでは、『劇場支配人』(K.486)初演でジルバークラング嬢役を、また『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)初演でドンナ・エルヴィーラ役を歌っている。
 
 

Johann Valentin Adamberger

1740 - 1804

生年ははっきりしない、1740年または1743年といわれている。 のちにウィーンで特に人気のあるテノール歌手として大活躍するようになる。 1781年にブルク劇場の女優兼歌手マリア・アンナ(愛称Nanni、1752~1804)と結婚。 モーツァルトは彼を「ドイツが誇ってよい」ドイツ語オペラ歌手と高く評価していた。 モーツァルトとはフリーメーソンの盟友でもあった。 1793年に現役引退、1804年8月24日に没。

モーツァルトのオペラでは、『後宮からの誘拐』(K.384)でベルモンテ役、『劇場支配人』(K.486)でフォーゲルザング役を歌っている。 ほかに、モーツァルトは彼のために以下の曲を書いている。

また、1783年3月23日のブルク劇場での音楽会では「バウムガルテンのアリア」(K.369)を歌ったことが知られている。 その後の記録では、1784年4月1日の音楽会にも出演しているが、何を歌ったのか不明。 1785年4月24日と12月15日、フリーメーソンのロッジ「授冠希望」で小カンタータ(K.471)のテノール独唱。 さらに1789年にはヘンデルのオラトリオの編曲「アチスとガラティア」(K.566)と「メサイア」(K.572)の演奏にも参加し、そして最後に、モーツァルトの死の直前、1791年11月18日、ロッジ「授冠希望」でカンタータ(K.623)を歌ったものと思われている。
 
 

Johann Ignaz Ludwig Fischer

1745 - 1825

テノール歌手ラーフの弟子で、当時ウィーンで活躍していたバス歌手。 モーツァルトは彼を高く評価していた。 そして彼のためにレチタティーヴォとアリア「アルカンドロよ、私はそれを打ち明ける、どこから来るのか私は知らない」(K.512)を書いている。 さらに確証はないが、レチタティーヴォとアリア「かくて汝は裏切りぬ。激しく堪えがたき苛責」(K.432)も書いたといわれている。 のちにウィーンを離れ、ヨーロッパ各地でその卓越した能力を発揮し活躍した。
 


〔参考文献〕

 

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2016/04/10
Mozart con grazia