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バッハ一族
 
 

Johann Sebastian Bach

1685 - 1750

ドイツ人が「音楽の父」(*) と賞賛する偉大な作曲家であるヨハン・セバスチャン・バッハをここで簡単に片付けることはできない。

1774年7月、プロイセンのフリードリヒ大王によりバッハの偉大さがウィーン宮廷のスヴィーテン男爵に伝えられた。 そのときスヴィーテンはエマヌエル・バッハのことを考え、王はフリーデマンのことを考えていたらしい。 アインシュタインは言う、「音楽史上の重大な事件はしばしば偶然に依存している」と。 その年、スヴィーテンはハンブルクに行き、エマヌエルと会った。 二人の間に交流が生れ、スヴィーテンはセバスチアン・バッハの作品を購入することになる。 その中には「フーガの技法」や「平均律クラヴィア曲集」やオルガンのための曲がたくさんあり、どれも当時のウィーンでは知られてないものばかりだった。

そしてスヴィーテンが1782年頃ウィーンで毎週日曜日に催していた音楽会でモーツァルトはこれらと出会うことになる。 それは彼に深い啓示を与え、以後の作曲スタイルに変化をもたらした。 彼は衝撃を受けつつ、まず演奏し、写譜し、真似てみた。

この出会いは「モーツァルトの危機」とも言われているが、たとえば、オカールが「モーツァルトにとってバッハの発見は一種の輸血だった。 それによって引き起こされた動転を総合的に把握するまで、6年という時間が必要だった。 彼はバッハに学ぶべきことが多々あると感じていたが、だからといって懐古主義にのめり込む気はさらさらなかった」と言ったように、それを模倣するのではなく、時間をかけて「多様な音楽言語の一つ」として消化していった。

1789年5月、ライプツィヒを訪れたモーツァルトは、大バッハゆかりの聖トーマス教会オルガニストのエンゲルの求めに応じて教会のオルガンをモーツァルトが弾き、「バッハの再来」と讃えられたという。 既にバッハのスタイルを自分のものとし、フーガの技法をとり入れたソナタ形式で締めくくった交響曲第41番ハ長調「ジュピター」K.551を前年に完成していたモーツァルトは、「ここにはまだ学ぶべきことがある」との謙虚な言葉を発しながらも、もう動揺することはなかった。 そして、このとき

を作曲した。

作品と演奏
CD [EMI TOCE-11451]
*ヴァイオリン協奏曲 第1番 イ短調 BWV.1041
 ユーディ・メニューイン (vn), パリ交響楽団, 1936年
*2つのヴァイオリンのための協奏曲 ニ短調 BWV.1043
 ユーディ・メニューイン (vn), ジョルジュ・エネスコ (vn), パリ交響楽団, 1932年
CD [PHILIPS PHCP-1806]
*「トッカータとフーガ」 ニ短調 BWV565
チェロ・アンサンブル・サイトウ
1996年
CD [KICC-2166]
*「主よ、人の望みの喜びよ」
*「羊は安らかに草を喰み」
ストコフスキー指揮アメリカSO木管グループ
1966年
CD [ERATO WPCS-4970]
*「主よ、人の望みの喜びよ」
オックスフォード・ニュー・カレッジ合唱団
1996年

 
 

Wilhelm Friedemann Bach

1710 - 1784

1710年11月22日 - 1784年7月1日

ウィルヘルム・フリーデマンは長子で、大バッハの最初の妻マリア・バルバラの子。 父に音楽的才能を認められ、英才教育を受けた。ドイツ各地で活躍し、作品も多く残した。 ただし気ままな性格だったらしく、定職もないまま、貧しくベルリンで没した。

〔作品と演奏〕
CD [NAXOS 8.570530] Keyboard Works 2
Julia Brown (hc)
CD [PHCP-1821]
*ヴィオラとチェンバロのためのソナタ ハ短調
今井信子 (va), ローランド・ポンティネン (hc)

 
 

Carl Philipp Emanuel Bach

1714 - 1788

カール・エマヌエルは第4子。 ベルリンで活躍。 古典派音楽の発展に重要な役割を果たした。 モーツァルトに大きな影響を与えた。

〔作品と演奏〕
CD [PHILIPS UCCP-8011]
*チェンバロ協奏曲 イ長調 Wq.29 (コープマン hc)
*四重奏曲 イ短調 Wq.93 (ハーゼルゼット fl)
*四重奏曲 ニ長調 Wq.94 (ペーターズ va)
*四重奏曲 ト長調 Wq.95 (デル・メール vc)
CD [PHILIPS UCCP-9311]
*フルート協奏曲 イ短調 Wq.166 (ニコレ fl)
*オーボエ協奏曲 変ホ長調 Wq.165 (ホリガー ob)
*フルート協奏曲 イ短調 Wq.168
*オーボエと通奏低音のためのソナタ ト短調 Wq.135
CD [BVCD-38216]
*ソナタ イ短調 Wq49-1
*「スペインのラ・フォリア」による12の変奏曲ニ短調 Wq.118-9
*チェンバロ・ソロのためのソナタ Wq.65-17
*自由な幻想曲嬰ヘ短調 Wq.67
*ロンド ハ短調 Wq.59-4
*ソナタ ホ短調 Wq.59-1
*幻想曲ハ長調 Wq.61-6
CD [PHCP-1821]
*ヴィオラとチェンバロのためのソナタ ト短調
今井信子 (va), ローランド・ポンティネン (hc)
CD [NAXOS 8.551210]
*ロンド ハ短調 Wq.59-4
*ソナタ ホ短調 Wq.59-1
*ロンド 変ロ長調 Wq.58-5
*ファンタジア ハ長調 Wq.61-6
*ロンド ト長調 Wq.57-3
*ソナタ ト長調 Wq.56-2
*ロンド ヘ長調 Wq.57-5
*ソナタ イ長調 Wq.55-4
*ロンド 変ホ長調 Wq.61-1
鶴田美奈子 (p)
CD [WPCS-11113]
*シンフォニア 変ホ長調 Wq.183-2
*シンフォニア ヘ長調 Wq.183-3
*シンフォニア ト長調 Wq.183-4
*シンフォニア ニ長調 Wq.183-1
トン・コープマン指揮アムステルダム・バロック管弦楽団
CD [DENON COCO-70789]
*トリオ・ソナタ ニ長調 Wq.151
*トリオ・ソナタ イ短調 Wq.148
オーレル・ニコレ (fl), ハインツ・ホリガー (ob)
CD [COCO-75025]
*フルート・ソナタ イ短調 Wq.128, H555
*フルート・ソナタ ト長調 Wq.133, H564 (ハンブルク・ソナタ)
有田正広(フラウト・トラヴェルソ)
CD [NAXOS 8.570740]
*ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ ハ長調 Wq.136, H558
*ヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ ニ長調 Wq.137, H559
*トリオ・ソナタ ト短調 Wq.88, H510
D. Kouzov (vc)
CD [WPCS-22033]
*シンフォニア ニ長調
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団

 
 

Johann Christian Bach

1735 - 1782

ヨハン・クリスティアンは第11子の末っ子。 父ヨハン・ゼバスティアンが今では超有名であるが、実は生前にはまったく無名の存在であった。

代ってバッハ一族の中で最も活躍した音楽家はだれだろうかといえば、ヨハン・クリスティアン・バッハである。 現在掘り起こされているバッハ一族の音楽家85人のうち、国際的に活躍し名声を得たのは、大バッハの息子ヨハン・クリスティアンただひとりなのである。
[石井] p.144
にもかかわらず逆に現在ではヨハン・クリスティアンはまったく無名の存在となっている。 それどころか
彼はドイツ音楽史観によればバッハ一族の中の最低の俗物で、大バッハやその息子たちの名を汚すものとして、できれば忘れられてほしいような気分で見られているのである。
同書(以下も同じ)
音楽はドイツ人が発明したものであり、その祖は「音楽の父」と呼ばれるヨハン・ゼバスティアン・バッハであり、「母」はヘンデルであり、そのあとにハイドン、ベートーヴェン、ブラームスなどと続くことになっている。 ドイツ人が勝手に作り上げた音楽史の中でドイツ人であることを忘れたヨハン・クリスティアンは許されざる存在であり、しかも彼が聖人ヨハン・ゼバスティアン・バッハの息子であったということは絶対に知られてはならないものであるらしい。
『アンナ・マグダレーナ・バッハのための音楽帳』
(1725年)
CD [WPCS-21072]

ゼバスティアンはマリア・バルバラとの間に7人の子をもうけたが、1720年に妻をなくしていた。 大勢の子供の面倒をみるためにも再婚する必要があったであろう。 1721年にケーテン宮廷の「領主付歌手」として雇われたばかりのアンナ・マグダレーナ・ヴィルケとその年の12月に結婚。 ゼバスティアンは36才、アンナ・マグダレーナは20才だった。 そして彼女との間に13人の子をもうける。 クリスティアンはゼバスティアンとアンナ・マグダレーナの子として1735年9月5日ライプツィヒで生まれた。 また、ゼバスティアンはアンナ・マグダレーナのために『音楽帳』を残している。

一方、クリスティアンのためには『前奏曲とフーガ』(平均律クラヴィーア曲集第2巻)を書き、練習用テキストとして与えたといわれている。

ゼバスティアンは1750年に65才でこの世を去ったが、クリスティアンはまだ14才の子供。 貧乏給料取りだったバッハ家にはアンナ・マグダレーナと幼い女の子ふたりが残され、ライプツィヒで細々と生きてゆくことになった。

先妻の子たちの中には、W・フリーデマンやC・P・エマヌエルのようにすでに独立した音楽家として生計を立てている者がいたが、彼らはこの後妻や腹ちがいの妹二人の面倒を見ようとしなかった。
そのため大バッハ夫人アンナ・マグダレーナは夫の死後を極貧のうちに暮らして十年後に亡くなったという。 クリスティアンは兄エマヌエル(ベルリンのフリードリヒ大王の宮廷劇場でチェンバロ奏者を勤めていた)の世話になりながら、父の残してくれたクラヴィーア曲集で研鑽を積んでいたが、宮廷のオペラ劇場が閉鎖されたとき解雇された多くのイタリア人とともにドイツを去り、音楽の本場イタリアに行ったのである。 そして有名なマルティーニ神父のもとで音楽を学び、2つのオペラ『アルタセルセ』と『ウティカのカトーネ』のヒットにより一気に名声を得た。 ジョヴァンニ・クリスティアーノ・バーコの誕生である。 21才から26才までのイタリアで修行した6年間は大成功となり、彼の名前は世界に知れ渡った。 この間に故郷では母アンナ・マグダレーナが他界したが、その訃報が彼に届いたかどうかはわからないという。

1762年の夏、27才のクリスティアンはロンドンに移住し、イギリスの王室に迎え入れらた。 のちに(1766年)少年モーツァルトが「作品3」(K.10からK.15までの6曲)を献呈することになるシャーロット王妃の寵愛を受け「王妃の楽長」に就任し、王室の子供たちにピアノを教えることになる。

それは半世紀前に同じドイツ出身のハンデルが手にした肩書きであり、3年前までこの巨匠のものであった光栄の地位である。 イギリス王室の楽長・・・バッハ一族ではだれひとりとしてこんな地位をきわめた者はいない。
彼はロンドンに定住することになる。 今度はジョン・クリスティアン・バークの誕生である。 少年モーツァルトが「イギリスのバッハ」と出会ったのはこのようなときであり、クリスティアン29才、モーツァルト8才だった。 二人は互いに相手の類まれな力量を認め合い、ザルツブルクに帰った神童は彼のソナタ作品5を編曲してピアノ協奏曲(K.107)を作った。 その後もモーツァルトはクリスティアンに対する敬愛の念を決して失うことがなかった。

クリスティアンは王室の楽長職のかたわらアーベルと組んで一般に開かれた音楽市場を開くことを企て、世界で初めての会費制コンサートをソーホー・スクエアで開いた。 それは幼いモーツァルトがロンドンに滞在していたちょうど1765年の1月のことだった。

以来バークが死ぬ前年まで17年間欠かさず行われて人気を集めた。 シリーズは毎年1月に始まって5月に終る。 原則として毎週水曜日に行なわれ、一年に15回のコンサートを数える。 演目は二人の書くオラトリオやらオペラ・アリアのような声楽曲から器楽曲までバラエティに富んでおり、そこでの二人は作曲家として演奏家として、プロデューサーとして八面六臂の活躍をした。
1775年にはオックスフォード・サーカス裏のハノーヴァー・スクエアに専用コンサート会場を建てるまでに発展したが、時代の変化とともにその先駆的事業は下り坂となった。 ハイドンとモーツァルトをヨーロッパ大陸からロンドンに招いて一攫千金を狙ったヨハン・ペーター・ザロモンがコヴェント・ガーデンで新たな演奏会を企画し、音楽業界は一般大衆向けの市場開拓競争に突き進んでゆく。 このときハイドンはロンドンに行くことに意を決し、1790年12月16日ウィーンを離れたのである。

飽きやすく移り気な大衆から見放され、クリスティアンとアーベルの事業は失敗し、多額の負債を抱えてしまった。 クリスティアンは負債の返却に疲れ、健康を害してパディントンに移り住んだが、乞食のような境遇で1782年1月1日没した。 まだ46才の若さだった。 その報を聞いたモーツァルトは、4月10日の手紙で父レオポルトに

イギリスのバッハが亡くなったことはもう御存知ですね?  音楽界にとってなんという損失でしょう!
と書いている。 そして彼のオペラ「誠意の災い」序曲をそっくり借用し、ピアノ協奏曲第12番イ長調(K.414 / 385p)を作曲し、その死に捧げた。

モーツァルト一家の西方への大旅行で、向かうところ敵なしという破竹の勢いでイギリスに上陸した8才の神童が初めて出会った巨大な音楽家ジョン・クリスティアン・バーク、彼は暖かく少年モーツァルトを受け入れ、作曲法を教えてくれた人物である。 モーツァルトはその影響を大きく受けただけでなく、生涯それを守ろうとしたようである。 しかし、厳格な音楽こそ芸術であるという後世の(特にドイツの)冷たい批評を浴びてクリスティアンの名前は歴史から忘れ去られてしまった。

クリスティアンの書く音楽は流麗で天賦の美質ともいうべき典雅な気品に恵まれており、その点ではすでに見たとおりモーツァルトも一目置くほどであった。 そのあまりにも美しい外観が災いして、イージー・リスニングだという批評を受ける。
大陸に残ったバッハ一族があまりパッとしないのに対して、イギリス人となったクリスティアンの大成功への嫉妬も重なり、「ドイツ人たちによって軽薄で芸術的向上心のない人物の部に入れられた」ばかりか、「ドイツ人たちは生きながらにこのクリスティアンをバッハ家の系譜から葬り去ろうとしていた」という。 しかしモーツァルトの作品を理解する上でも、ジョン・クリスティアン・バーク(ヨハン・クリスティアン・バッハ)の業績はもっと知られなければならない。 このような観点に立って最近(2011年)すばらしい演奏がCD化された、久元祐子「学習するモーツァルト」(ALM ALCD-9109)である。

関連する曲

作品と演奏
CD [CBS SONY CSCR-8216]
*フルート、ヴァイオリンとチェロのためのトリオ ハ長調
ランパル (fl), スターン (vn), ロストロポービッチ (vc)
1989年
CD [ALM ALCD-9075]
*ピアノ・ソナタ イ長調 op.17-5
久元祐子 (p)
2007年4月、茅野市民館
CD [ALM ALCD-9109]
*ピアノ・ソナタ ト長調 Op.5-3 ; t=8'47
*ピアノ・ソナタ ニ長調 Op.5-2 ; t=11'17
久元祐子 (p)
2011年6月、見附市文化ホール
CD [KKCC-9069]
*ヴァイオリンとハープシコードのためのソナタ ニ長調 Op.20-2 より第1楽章
CD [WPCS-22033]
*シンフォニア 変ロ長調
カール・リヒター指揮ミュンヘン・バッハ管弦楽団
CD [NAXOS 8.557361]
*オーボエ四重奏曲 変ロ長調 B.60
アートヴェズ (ob), ボトネス (vn), ラウトロプ (vn/va), ゴロヴァノフ (va), ヨハンセン (vc)

作品に関するサイト

 

〔参考文献〕  

2011/12/25
Mozart con grazia