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ピアノ・ソナタ 第1番 ハ長調 K.279 (189d)

  1. Allegro ハ長調 4/4 ソナタ形式
  2. Andante ヘ長調 3/4 ソナタ形式
  3. Allegro ハ長調 2/4 ソナタ形式
〔作曲〕 1775年初 ミュンヘン

これは生涯に作った18曲のピアノ・ソナタ(その中で短調はやはり2曲、第8番と第14番)の第1番。 最初の6曲は「デュルニッツ・ソナタ集」または「ミュンヘン・ソナタ集」と呼ばれることがあるが、その第1番でもある。 これら6曲のうち最後の第6番だけがミュンヘンで、ほかの5曲は1774年ザルツブルクでの作とされていた。 モーツァルト自身は連作として出版しようと考えていたところ、1784年に3曲のソナタ(K.284K.333K.454)が「作品 VII」としてウィーンのトリチェラから出版したことや、作曲者自身が第6番を「デュルニッツのために書いた最後のソナタ」と言っていることなどから、後世の研究者は第6番だけが別物と推測することになったのかもしれない。 しかし1974年にプラートによって1775年初頭ミュンヘンで6曲すべてが「ひとつづきの五線紙に一気呵成に書かれた」ことが明らかにされた。 ちょうどチェンバロに代わってフォルテピアノという楽器が登場し始める頃であり、その楽器の可能性に対する大きな興味から生まれたものと思われる。 2年後のアウクスブルクからパリへの旅行でも、モーツァルトはこれら6曲をよく演奏していたという。

この頃「ピアノソナタ」というジャンルはまだ新しく、天才的なピアニストであり作曲家のモーツァルトにしても、このジャンルの第1番を生み出すにはそれなりの動機が必要であったと思われる。 その一つがフォルテピアノとの出会いであり、もう一つはヨーゼフ・ハイドンエマヌエル・バッハの作品との出会いであった。 ハイドンは1773年に6曲のピアノソナタを作曲し、翌年「作品13番」として出版していた。 モーツァルトはそれを知っていたかもしれない。 そして、タデウス・フォン・デュルニッツ男爵(Thaddäus Wolfgang Freiherr von Dürnitz, 1756? - 1803)との出会いをきっかけに一気に噴出したのだろうか。

モーツァルトが1773年にウィーンを訪れたときはまだハイドンの曲集は出版されていなかったし、モーツァルトもレオポルトもハイドンの曲集については一言も触れていないから、モーツァルトがハイドンの曲集を知っていたと断定することはできない。 しかしこのふたつの曲集を弾き比べてみると、モーツァルトがハイドンの曲集を研究し、参考にしたことは明らかだと思う。
[久元] p.158
実例として、ハイドンの作品「ハ長調 Hob.XVI-21」との類似点の一つを
終楽章を見てみよう、展開部は短い音型の反復を行いながら転調を繰り返し、ともにイ短調のドミナントの和音で突然音楽を止める。 フェルマータの後、短調で第一テーマを奏でてから、真の再現部がやってくる。 この楽章はテーマの音型がかなり違っていて、聴いた感じでは雰囲気は違っているようだが、用いられている手法は似ている。
と解説している。 その指摘された「展開部の開始から本当の再現部まで」は久元の『モーツァルトのピアノ音楽研究』のページ内「sound 17」で耳にすることができる。

アインシュタインはこれら6曲の連作について

なんら統一ある純粋な像を提供しないということは奇妙なことであり、或る意味で教育上の不幸である。 これらは情感と形式の微妙さとの小宇宙ではあるが、非常に複雑である。
[アインシュタイン] p.331
といい、「天文学の表現を使えば、自分の運行の軌道からの逸脱である」としている。 そして、その第1番にあたるこのソナタについて
これは即興曲のような感じがする。 この曲は精神によって楽器に音響を出させている。 若いモーツァルトは、いい気持のときにソナタを即興演奏した場合には、こんな風に弾いたにちがいない。 他の作曲家たちは自分の楽想を並べたてておいて、それらを再現部で繰り返すが、モーツァルトのこの作品には機械的なものはなにもない。 モーツァルトの想像力はあらゆる細部をたえず変化させてゆく。
という印象から、「その逸脱以前に書かれたものと思われる」と述べている。 しかしモーツァルトが一気に6曲を書き上げたからには、個々の曲に込められた固有の性格とともに全体を支配する作者の意図が働いているはずである。
モーツァルトの使用する鍵盤楽器がチェンバロからピアノへ移行しつつあったことを反映して、この第1番のソナタが両方の楽器を考慮に入れた曲となっていることは明らかである。 強から弱へといったデュナーミクの変化がピアノの特性に数えられる一方、かき鳴らされる和音や巧みな指先で弾かれる鋭いスタッカートは、紛れもなくチェンバロの様式のなごりである。
[全作品事典] p.383
モーツァルトは懐かしいチェンバロに別れを告げつつ、新たな翼をもって未知の世界の遥かな高みに力強く飛び立つための羽ばたきをしているのであろう。

デュルニッツはミュンヘンのバイエルン選帝侯の侍従で音楽愛好家だった。 モーツァルトはオペラ・ブッファ『偽りの女庭師』上演(1775年1月15日に初演)のため、1774年暮れからミュンヘンに滞在したが、そのとき同年輩の彼と親しくなった。 そのとき、「ファゴット協奏曲 変ロ長調 K.191 (186e)」などとともに6曲のピアノ・ソナタを書いた。 余談であるが、デュルニッツはそのソナタ集の代金をなかなか支払わなかった。 2年後の1777年12月の段階でも、ザルツブルクから父はマンハイム滞在中の息子に「ミュンヘンで金を払ってくれたのか? それとも彼にそれをプレゼントするとでもいうのか?」と手紙に書き残している。 デュルニッツは歴史に汚点を残し、モーツァルトは傑作を残す結果となった。

〔演奏〕
CD [DENON CO-3857] t=11'59
ピリス Maria Joao Pires (p)
1974年、東京、イイノ・ホール
CD [ACCENT ACC 8849/50D] t=19'54
ヴェッセリノーヴァ Temenuschka Vesselinova (fp)
1988年5月、イタリア、Castello Grimani Sorlini, Montegalda
CD [KKCC-9049] t=19'80
チッコリーニ Aldo Ciccolini (p)
1990年、ブリュッセル
CD [RCA BVCC-131] t=14'36
デ・ラローチャ (p)
1990年
CD [BVCD-38168〜69] t=18'31
レヴィン (fp)
2005年11月
CD [ALCD-9089] t=14'13
久元祐子 (fp)
2009年6月

〔動画〕

〔参考文献〕


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2016/02/21
Mozart con grazia