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ピアノ・ソナタ 第4番 変ホ長調 K.282 (K6.189g)
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1774年9月、ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン3世からオペラ・ブッファ『偽の女庭師』(K.196)の作曲を依頼され、同年12月に初演の予定だったので、モーツァルトは父レオポルトと二人で12月6日にザルツブルクをたち、7日水曜日の午後3時半にミュンヘンに着いた。
しかしオペラ上演には劇場の入りを考慮した制約があるため、『偽の女庭師』の初演はたびたび延期され、翌1775年1月13日に上演されたという。
そのため、モーツァルトは父レオポルトとともにしばらくの間ミュンヘンに滞在することになった。
そのとき、年齢が近いデュルニッツ男爵(Thaddäus Freiherr von Dürnitz, 1756-1807)という音楽愛好家と親しくなったようである。
モーツァルトは注文を受けて、6曲のピアノソナタを書いたが、この曲はその第4番に当る。
その6曲とは、ハ長調 K.279、ヘ長調 K.280、変ロ長調 K.281、変ホ長調 K.282、ト長調 K.283、ニ長調 K.284であるが、最初の5曲はザルツブルクで作曲され、最後のニ長調 K.284 のみがミュンヘンでデュルニッツのために書かれたと思われていたため、5曲は「ザルツブルク・ソナタ」と総称され、第6番の曲が単独で「デュルニッツ・ソナタ」と呼ばれていた。
『偽の女庭師』観劇のため、姉ナンネル(24才)もロビニッヒ夫人(59才)とともにザルツブルクをたち、1775年1月4日にミュンヘンに到着したが、オペラ上演が延期されたことで運良く1月13日の初演を一緒に観ることができた。
それに先立ち、彼女がザルツブルクをたつ前にレオポルトは妻アンナ・マリアに次の手紙を送っていた。
ミュンヘン、1774年12月21日ここで「ヴォルフガングの手書きのソナタ」とあるのが上の5曲のピアノソナタ K.279~K.283 と思われて、これらはザルツブルクで完成されていたことの証左と考えられていたのである。 しかしプラートの筆跡研究により今では6曲すべてミュンヘンで「ひとつづきの五線紙に一気呵成に書いた」ものとされ、また、その自筆譜にはモーツァルト自身が1から6までの番号をつけ、連作であることを意図していたことがわかっている。
バッハとバラディエスのソナタのほかに、ナンネルはヴォルフガングの手書きのソナタと変奏曲、それにほかのソナタも、望みのものをいくつか持ってこられるでしょう。 こうしたソナタはたくさんは場所をとりませんから。[書簡全集 II] p.442
ハ長調(K279=K6189d)にはじまり、5度ずつ下の調を取って、ヘ長調(K280=K6189e)、変ロ長調(K281=K6189f)、そして変ホ長調(K282=K6189g)まで下がり、つづいてハ長調に戻って、そこから5度ずつ上がり、ト長調(K283=K6189h)から最後にニ長調(K284=K6205b)で完結するこのソナタ群が意識的に書かれていない理由はない。[海老沢] p.139
この頃はまだピアノソナタの形式が定まっていなく、現代のピアノという楽器もまだ存在していなかった。 しかし誕生しつつあったフォルテピアノという新しい楽器のもつ豊かな表現力により、ピアノソナタというジャンルが大きく花開こうとしていた時期であり、ちょうどそのときに若いモーツァルトの人生が重なっていたことは偶然とは言え、幸運であった。 シュタインが製作した素晴らしいフォルテピアノにモーツァルトが驚嘆するのは1777年のことである。
ヴィーンで、モーツァルトが愛用していたピアノは、アントーン・ヴァルターなる同地のピアノ製作者が作製したものだった。 モーツァルト愛用のこのピアノは今なお生地ザルツブルクに保管されている。そして「1774年から翌75年にかけて書き上げた6曲の作品は、こうしたピアノの音色を目当てとしてもいるのであろう」(海老沢)という。 こうした時期に書かれたソナタ集は、フォルテピアノという新しい楽器に触発されて生まれ出たものであり、偶然の産物ではない。 その後、モーツァルトはシュタインのフォルテピアノとの出会いについて次のように書いている。
だが、この「ヴァルター・フリューゲル」を手にするまでに、モーツァルトは1770年代の後半にいたるまでは、レーゲンスブルクのシュペート製ピアノを使っていた。
1777年10月17日、アウクスブルクからザルツブルクの父へ彼は初めてフォルテピアノと出会ったのではなく、ほかのピアノと比較してシュタインのものが優れていることに驚嘆しているのである。 ピアニストとして彼の右に出る者はなく、誰よりもヨーロッパ中の(つまり世界中の)音楽事情に詳しいモーツァルトがフォルテピアノという楽器の出現をこのときまで知らなかったはずがない。 シュタインの楽器との出会いは、アインシュタインが言うように「モーツァルトは生来のピアニスト」であり、「個人的ないし音楽的な体験によって、ふいにより高い新しい水準に立たされたにちがいない」という瞬間だったのだろう。 ただし、1775年初めにミュンヘンで一気に書かれたとされている6曲のソナタについて、アインシュタインは
最後のニ長調の曲は、シュタインのピアノ・フォルテで、比較にならないほどよく響きました。 膝で押す装置も、彼のはほかのよりもよく出来ています。 ただ触れさえすればすぐに効きますし、膝を少しのければたちまちどんな残響も聞こえなくなります。[書簡全集 III] p.151
ハイドンは1773年に6曲のソナタを書いた。 これらは作品13番として翌年印刷されたが、モーツァルトはこれをヴィーン滞在中にすでによく知っていたかもしれない。 こうして、ヘ長調ソナタ(K.280)にとっては、同じ調性のハイドンのソナタがモデルとなったし、変ホ長調ソナタ(K.282)ではフィナーレが全く《ハイドン的》であるばかりか、楽章の並び方の不規則さ、主観性という点で、全曲にハイドン的なものがしみこんでいる。 モーツァルトは完全に自分自身になりきってはいない。と評している。 産声をあげたばかりのピアノソナタというジャンルで、モーツァルトは当時のマンハイム楽派のスタイルを取り入れ、またフォルテピアノという新しい演奏楽器のもつ豊かな表現力の可能性などを手探りしつつ開拓し、連作最後のニ長調(K.284)で「より高い新しい水準に」立つことになった。[アインシュタイン] p.332
6曲の連作の中で、この第4番は特異な存在である。 その一つはアダージョで始まることである。 モーツァルトのピアノソナタは全部で約18曲あり、ほとんどすべてがアレグロで始まる。 例外的なのがこのニ長調と「トルコ行進曲つき」で有名なイ長調(K.331)の2曲なのである。 しかもまた、この2曲のみがメヌエット楽章を持つ点でも特異である。 19歳のモーツァルトがこのジャンルで初めて取り組んだ6曲のソナタの連作中もっとも実験的な工夫を凝らした作品ともいえよう。
〔演奏〕
CD [BVCC 38393-94] t=16'47 ランドフスカ Wanda Landowska (p) 1955/56年、コネティカット州レイクヴィル |
CD [UCCD-7023] t=10'23 バックハウス Wilhelm Backhaus (p) 1966年11月 |
CD [DENON CO-3857] t=12'16 ピリス Maria Joao Pires (p) 1974年、東京イイノ・ホール |
CD [PHILIPS 28CD-3178] t=11'58 内田光子 (p) 1987年7月、ロンドン、ヘンリー・ウッド・ホール |
CD [DENON CO-3202] t=13'18 ヘブラー Ingrid Haebler (p) 1988年10月 |
CD [ACCENT ACC 8849/50D] t=15'01 ヴェッセリノーヴァ Temenuschka Vesselinova (fp) 1988年5月、イタリア、Castello Grimani Soelini ※1795年頃に製作されたフォルテピアノで演奏 |
CD [WPCC-4272] t=14'11 リュビモフ Alexei Lubimov (fp) 1990年1月 ※ヨハン・アンドレアス・シュタインが1788年に製作したフォルテピアノのレプリカ(クロード・ケルコム1978年製作)で演奏 |
CD [EMI CDC 7 54102 2] t=14'20 Ransom Wilson (fl), Manuel Barrueco (g) 1990年 Frederic Hand 編曲 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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