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交響曲 ハ長調 「羊飼いの王様」 K.213c〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 hr, 2 tp, 2 vn, va ,bs〔作曲〕 I-II, 1775年春 III, ? ザルツブルク |
モーツァルトは1774年以降、いわゆる「レオポルト合本」以降、1778年の第31番『パリ』(K.297)まで本格的な交響曲を書いていない。 それをアインシュタインは次のように説明している。
まえの数年の豊かな創造力のあとに来たこの事実はどう理解すべきだろうか? 外的理由がある。 イタイアあるいはヴィーンへの旅行はもう見込みがなくなったし、『いつわりの女庭師』(K.196)の初演のためのミュンヘン旅行には手もとの原稿でまにあった。 しかし内的理由もある。 ハ長調、ト短調、イ長調のシンフォニーで到達されたものは一つの頂点であって、たやすく越えられるものではなかった。「そこでモーツァルトは、シンフォニー的なものの原理をもっと手軽に扱いうる、別の分野へ向う」のだった。 すなわち、オペラの序曲を交響曲に改編することであった。 こうして、劇場用セレナータ『羊飼いの王様』(K.208)の序曲に、2つの楽章を加えたシンフォニーが誕生したものと思われる。 第1楽章は K.208 の序曲そのまま、第2楽章はアミンタの最初のアリア「Intendo, amico rio」をオーボエで奏するように編曲されたもの、そして第3楽章がケッヘル初版で K.102 とされている曲である。 終楽章のプレスト(K.102)の自筆譜では[アインシュタイン] pp.310-311
最初の紙の裏から書き始められていて、その表には、明らかにプレストに先行する緩徐楽章の最後の8小節分が記されていた。 これが『羊飼いの王様』の最初のアリア「Intendo, amico rio」の最後の部分を器楽用に編曲したものだったのである。このような状況から、アインシュタインにより第3版から一つにまとめられ、K.213c として位置づけられたものである。 ただし、彼は K.102 について、「これはむしろセレナーデの終結楽章だったに相違ない」と主張し、交響曲「羊飼いの王様」の終結楽章としては物足りないと述べている。[事典] p.282
『羊飼の王様』の序曲のためのロンド、ロンド形式のコントルダンスは、第一級の作品である。 これが、案出の点で同等の新鮮さ、精緻さ、優雅さを持っていた一つの《フィナーレ音楽》の結末として実際に使われたのだとしたら、われわれはその曲の喪失によって一つの傑作を失ったことになる。[アインシュタイン] p.311
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1778年2月14日ここで書かれている序曲が、もしかしたら、フィナーレ楽章を伴ったシンフォニーだったのかもしれない。
きのうはカンナビヒのところで音楽会がありました。 最初のカンナビヒのシンフォニーを別として、全曲ぼくの作品でした。 (途中略)
それから半時間もぼくは即興演奏をしました。 そのあとヴェーバー嬢が、デ・アミーチスのアリア「私はゆく、私は急ぐ」を歌い、みんなの喝采を浴びました。 最後はぼくの『牧人の王』の序曲でした。[書簡全集 III] p.526
書かれた用紙は、モーツァルトが K.243《聖体の祝日のためのリタニア》(1776年3月)、《セレナード》K.250 の交響曲稿(おそらく1776年後半か1777年前半)、それに《エジプトの王ターモス》K.345 の幕間音楽(作曲年不明)で使用したのと同じタイプのものである。 したがってこの交響曲は、1776年か1777年に作曲されたのであろう。と推測している。[全作品事典] p.248
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL 20371] t=8'11 ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団 1979-1984年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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