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オペラ・ブッファ 「偽の女庭師」 K.196La finta giardiniera 序曲と3幕28曲〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, bs(hc,vc、レチタティーヴォでの伴奏)〔作曲〕 1774年9月 - 75年1月 ザルツブルク、ミュンヘン |
序曲 Allegro molto - Andante grazioso
第1幕
第2幕
第3幕
登場人物
イタリア語の原典はラニエロ・デ・カルツァビージ(Raniero de Calzabigi)詞、マルコ・コルテリーニ(Marco Coltellini)改訂という説があったが、新全集ではジュゼッペ・ペトロセリーニ(Giuseppe Petrosellini?)としている。 その台本にアンフォッシが曲をつけて、はっきりしないが1773年12月にローマでこのオペラが初演され、大成功を収めていた。 いつ誰からどのような形でこの台本からオペラ作曲がモーツァルトになされたか不明だが、1774年9月頃ミュンヘンの選帝侯マクシミリアン3世から謝肉祭用のオペラを依頼され、モーツァルトはすぐさま作曲に取りかかったようである。
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イタリアからのオペラ作曲依頼は1772年の『ルチオ・シラ』(K.135)以後なく、その後モーツァルトはウィーンの宮廷との接触をはかっていた。 モーツァルトのウィーンへの3度目の旅行からザルツブルクに戻ったのは1773年9月であり、それから(1774年12月まで)ザルツブルクの親元にいたので、手紙という貴重な資料がなく、したがってこのオペラを書くことになる詳しいいきさつがわからない。 1774年12月6日、オペラ『偽の女庭師』の上演のために父とミュンヘンへ出発した。 これは2度目のミュンヘン旅行になる。
1774年12月9日、ミュンヘン、レオポルトからザルツブルクの妻へオペラ『偽の女庭師』初演には姉ナンネル(23歳)も立ち会いたいと願っていたが、レオポルトは娘のための宿探しに苦労していたようである。 ミュンヘンという土地柄のほかに、オペラの上演の時期が定まらないという事情があった。
私たちは晩の9時にヴァッサーブルクに着き、翌日の水曜日の午後3時半に、ミュンヘンに無事到着しました。
オペラについてはまだなんにも書けません。 今日はじめて私たちは関係者と知りあいになりましたが、彼らはみんな私たちには非常に親切でしたし、とりわけゼーアウ伯爵閣下がそうでした。[書簡全集 II] p.434
1774年12月14日、ミュンヘン、レオポルトからザルツブルクの妻へしかし運良くフォン・デュフレーヌ(Franz Ignaz von Dufraisne)という役人のはからいで安全な所を見つけることができた。
有料のオペラは2回以上続けて演じることはできません。 さもないと劇場の入りが少なくなるからです。 そこで2、3週間また別のオペラをいくつか上演し、それからやっとまた前のオペラを出してくるのです。
ヴォルフガングのオペラはしたがってクリスマスの前ではなく、たぶん29日に初演されるでしょう。 だからナンネルがこの初演を見ないこともおこりうることです。
1774年12月16日、ミュンヘン、レオポルトからザルツブルクの妻へレオポルトは夫人と直接会って、宿泊の条件や懸念事項を聞いている。 ナンネルのための寝室は暗いが、ほかの時間は広場に面した夫人の部屋で過ごせることと、その部屋にフリューゲルを置く許可を得たことを伝えるかたわら、娘に自分のことは自分でできるようになっておきなさいと親心を示している。
さてナンネルの宿が見つかりました。 で、どこだと思いますか? フォン・ドゥルスト夫人、というより未亡人のところです。 彼女はライヒェンハルの岩塩管理官の未亡人で、この夫人はようやく26歳か、多くても28歳で、鳶色の髪をもち、黒い眼をして、とても控え目で、まことに博識でしかも分別があり、おまけに追従者との交際など自分に許したことはなく、それにとても礼儀正しく、好ましいひとです。
自分で帽子がかぶれなかったり、自分でお化粧もできず、またほかのこうした些細なこともできないのがどんなにみじめか、このことでナンネルにも分かったことでしょう。 いつだって他人の奉公人を自分のために役立てられるわけじゃありません。 あの親切な夫人だって、自分の頭はたいていは自分できちんと整えるのに慣れているものと私は思っています。 だからナンネルもふだんの帽子を自分できちんとかぶり、お化粧するくせをつけ、それにクラヴィーアをしっかりと練習しなくてはいけません。ただし父レオポルトはこうした注意で娘が暗い気持ちにならないように、すぐ明るい話題をさりげなく付け加えることを忘れない。 よく知られているように、モーツァルト家にはピンペスと名付けられた飼い犬がいたが、留守中どうしているのか?とたずねつつ
フォン・ドゥルスト夫人も小犬を持っていますが、たしかフィネットゥルといいます。と書いた。 この一行で、ナンネルはその可愛い小犬を抱き上げる喜びを想像し、いっぺんに心が軽くなっただろう。 レオポルトのこうした細やかな神経は息子にも引き継がれ、それが彼の音楽の中で思いがけない形で現われ、後世のわれわれを魅了するのである。 ところで、このとき当の息子モーツァルトは歯痛に悩まされていた。
1774年12月28日、ミュンヘン、レオポルトからザルツブルクの妻へそしてレオポルトはナンネルにミュンヘンに着いてからの道順を書いている。
ヴォルフガングは6日間も、顔がすっかり腫れ上がったまま家にこもっていなければなりませんでした。 頬は外側も内側も腫れてしまい、右眼もつぶれ、2日間というもの、スープだけの食事しかできませんでした。
タール街を上ってきて、門のアーチをくぐって大広場に着いたら、アーチを左手にとり、ドゥルヒ小路を過ぎると、リンダーマルクトが見える。 小路から数えて5番目の建物がそれ。 白いその建物の中央には、丸い小さな聖フランチスコ・サヴェリオの絵があり、5階のいちばん高いところにマリアさまの彫像がある。 4階にはフォン・ドゥルスト夫人が住んでいる。 私たちは2時すぎ、2時半ごろにはもうそこにいます。
注意。 リンダーマルクトの聖ペテロ教会を見やって、小路をすぎて5番目の建物で、「広場のシュパッツェンロイター館」と呼ばれています。 もう充分はっきり説明できたと思っています。
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1775年1月14日、ミュンヘン、モーツァルトからザルツブルクの母へこの手紙にあるように、モーツァルト自身は指揮をとらず、おそらく父と一緒に観劇し、拍手喝采を浴びていたのだろう。 劇のあらすじは次のようなものである。
ありがたいことに! ぼくのオペラはきのう13日に上演されました。 そしてとてもいい出来だったので、その評判はママには描写できないほどです。 第一に、劇場は大入り満員で、大勢の人が引き返さなくてはなりませんでした。 ひとつのアリアが終わるごとに、いつも拍手と驚嘆のどよめきとマエストロ万歳の叫び声です。 選帝侯妃殿下も太后も(ぼくの向かい側におられて)ぼくにブラヴォーと言われました。 オペラが終わり、バレエが始まるまで、その間たいていは静かなものですが、ただもう拍手とブラヴォーの叫びだけでした。[書簡全集 II] pp.456-457
侯爵令嬢ヴィオランテが、姿を消した許嫁のベルフィオーレ伯爵に接近するために花作り女になりすますことから始まる。 当のベルフィオーレは市長ドン・アンキーゼの姪アルミンダに言い寄る。 アルミンダのかつての恋人ラミーロは二人の仲に嫉妬して苦しむ。 やがてベルフィオーレはヴィオランテと出会い、元の関係に戻る。 そして裏切られたアルミンダも恋人ラミーロとよりを戻す。 その間、市長の女中セルペッタとヴィオランテの従僕ナルドも結ばれる。 こうして最後に3組の婚約が成立する。この物語の登場人物は「まじめな役」と「おどけた役」に二分され、前者に属するのは、もとはラミーロの恋人で今はベルフィオーレ伯爵の婚約者となっているアルミンダと、その彼女に見捨てられたもと恋人のラミーロの二人だけであり、残りは皆後者に属している。 アインシュタインによれば、各人の役回りを要約すると
市長、これはもちろん相変らずの老いぼれパンタローネであり、相変らず年若い娘に惚れ込む年老いた阿呆・・ 市長夫人になれたらと思っている小間使いセルペッタは、コケットで無情で恥しらずな女・・ ナルドは正直な無骨者・・ 伯爵は、嫉妬の発作で自分の許嫁ヴィオランテにひどい傷を負わせ、死んだものと思いこんでいる・・ サンドリーナ(ヴィオランテ)は、殺人者をなおも愛し、この粗忽者の居所を探し出すために「いつわりの女庭師」となって市長に仕え、年老いた阿呆につけまわされる・・ 市長の姪アルミンダは、虚栄心の強い、気まぐれな、意地の悪い残忍な女・・ ラミーロは、心の堅固な、忠実な、絶望した恋人・・のようなものであり、そのうえで少年オペラ作曲家の未熟さを指摘している。[アインシュタイン] p.564
分類は人物の内的な悲劇性または喜劇性によってなされたのではなく、因習によって、俳優のカテゴリーによってなされているのである。 そしてモーツァルトがこのカテゴリーを文句なしに尊重したことは、悲しむべきことながら事実である。 彼は眼前に俳優や因習を見て、人物の心中をみていない。モーツァルトは確かに初演の大成功を目にすることができたのかもしれないが、その後、歌手の病気などもあって、合計3回上演されるにとどまる。 1月18日の手紙でレオポルトは「女性歌手が重い病気にかかり、いつ2回目の公演ができるかわからない」と郷里に伝え、
私が残念に思うのは、たくさんの人がザルツブルクからやってきて、いわば無駄足を踏んだことです。 せめて彼らは大オペラは観たでしょう。と書いているが、ザルツブルクのコロレド大司教も観ることができなかった。 そのかわり大司教は使用人である音楽家モーツァルトの成功を祝う言葉を浴びることになり、当惑するばかりであった。 レオポルトは妻に次のように書いている。[書簡全集 II] p.461
選帝侯のご一族の方がたや貴族の方がたすべてが大司教猊下になさったこのオペラについての賞賛のお言葉や晴れがましい祝詞をお聞きになって、猊下がどんなに狼狽されておられたかを想像してごらん。 あのお方はまったく困惑のあまり、ただ頭でうなずかれ、肩をすくめられるだけで、なにもお答えになることがおできにならなかったのだ。 それに私たちもあのお方とはお話ししなかった。 貴族の方がたのご挨拶に大いにせめられておいでだったからです。こうして、大司教は「大オペラ」すなわちミュンヘン宮廷楽長トッツィ(Antonio Tozzi, 1736頃-1812以降)の『オルフェーオとエウリディーチェ』を観ることになった。
『偽の女庭師』の方は、女性歌手の回復次第ではモーツァルトの誕生日である1月27日(金)に再演されるはずで、それまでは大司教も帰郷しないでいようと考えていたようであるが、延期されて2月2日に上演された。 再演に際して病気の歌手のために短くされたが、どのようなカットをしたのかは不明。 レオポルトは「この女歌手については書くことがたくさんあります。 彼女はみじめでした。 万事直接話しましょう」と妻に伝えているのみで、再演が成功だったとは書いていない。 そのかわり、詐欺師がいた話や「大オペラ」の作曲家トッツィの不祥事など面白い話題を書き送っている。 特に宮廷楽長トッツィが不倫の末イタリアに逐電したことはレオポルトにとって痛快な笑い話であり、
トッツィとゼーフェルト伯爵夫人の話はだれに喋ってもかまいません。 そうすれば、イタリア人たちはどこででもペテン師だってことがみんなに分かります。と伝えている。 ようやく3回目は3月2日に上演されたが、それについても何も語っていない。 察するところ、モーツァルトの人気は長続きせず、謝肉祭の騒ぎが終る頃には、これといった成果もなくザルツブルクに引き上げて行かなければならなかった。 3月6日にミュンヘンをたち、翌7日、3人は母の待つザルツブルクに帰った。 アインシュタインはもっとはっきり言っている。
ところが実際には、2年前の『ルチオ・シルラ』(K.135)同様に不成功だったのである。 イタリアの劇場は一つとしてこの作品に目をとどめなかった。 1779年冬になってやっと、当時ザルツブルクにいたドイツの旅廻り劇団ベーム座がこれを取り上げ、ドイツ語のジングシュピールの形として、すなわち、レチタティーヴォの代りに対話体を用い、シュティールレという俳優のかなり巧くて忠実なドイツ語訳によって、南独と西独の地方をあまねく持ち廻ったのである。ベーム座は1779年から80年にかけてザルツブルクで公演した際、ドイツ語に書き直されたジングシュピールのためにモーツァルトは、特に第2・第3幕にざまざまなカットを行った。 ベームの一座は1780年3月28日から5月19日までの間、アウクスブルクに滞在し、その間このジングシュピールを上演している。[アインシュタイン] pp.560-561
1780年5月1日、ヨハン・ベームの劇団によりモーツァルトの『偽の女庭師』がフランツ・クサヴァー・シュティールレの翻訳したドイツ語でアウクスブルクにおいて上演された。そのときのタイトルは「偽の女庭師 Die verstellte Gärtnerin」だったという。 新全集ではそのドイツ語の表題を、第3幕フィナーレの合唱直前にヴィオランテが歌う "la finta giardiniera per amore" のドイツ語訳から「愛ゆえの女庭師 Die Gärtnerin aus Liebe」とした。[ドイッチュ&アイブル] p.153
後に序曲を加筆し、シンフォニー K.121 (207a) を作った。 余談であるが、モーツァルトはもう一度オペラ作曲のためにミュンヘンを訪れることになる。 それが『イドメネオ』(K.366)であり、そのときはもはやザルツブルクに帰らない。
〔演奏〕
LD [東映 LSZS00185] t=118分 東ドイツ・オーストラリア共同製作TVオペラ(ドイツ語版) 演出 ... ミールケ Georg F. Mielke 配役 ヴィオランテ Sandrina (Violante) ... アイゼンフェルト Brigitte Eisenfeld ベルフィオーレ Belfiore ... オニール James O'Neal ドン・アンキーゼ Don Anchise ... ツェドニック Heinz Zednik アルミンダ Arminda ... ゼルビック Ute Selbig ラミーロ Ramiro ... ドレスン Elvira Dressen セルペッタ Serpetta ... シュタインスキ Ulrike Steinsky ナルド Nardo (Roberto)... ハルトフィール Jurgen Hartfiel ポマー指揮、東ベルリン放送交響楽団・合唱団(1989年) |
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=6'46(序曲) スウィトナー指揮シュターツカペレ 年 |
CD [POCA-1132] (18) t=6'10 オッター (MS) 1995年 |
CD [UCCG 1091] (26) t=3'06 コジェナー (MS) 2001年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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