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ピアノ・ソナタ 第6番 ニ長調 K.284 (K6.205b)
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1774年12月、モーツァルト父子はオペラ『偽の女庭師』(K.196)の上演のためにミュンヘンへ出発した。
それは2度目のミュンヘン旅行であった。
姉ナンネル(24才)もロビニッヒ夫人(59才)とともに1月4日にミュンヘンに到着し、1775年1月13日の初演を一緒に観ている。
余談であるが、1773年秋、モーツァルト一家はヴォルフガングが生まれたゲトライデガッセ(家主ハーゲナウアー)からハンニバル(現在のマカルト)広場に面した「舞踏教師の家(タンツマイスターハウス)」と呼ばれるもっと大きな住居(左図)に引越していた。
夫と二人の子供が旅立ったとき、ザルツブルクには母ひとり残り、3月7日に3人が帰ってくるまで留守を守っていた。
この間、筆まめな夫レオポルトがせっせと愛妻に手紙を書き送っていたことは言うまでもない。
なお、現在この建物はモーツァルト博物館となっている。
このミュンヘン滞在中に音楽愛好家のデュルニッツ男爵(Thaddäus Freiherr von Dürnitz, 1756-1807)のために書いた6曲のピアノソナタから成る「デュルニッツ・ソナタ集」の第6番にあたる。 以前は5曲(ハ長調 K.279, ヘ長調 K.280, 変ロ長調 K.281, 変ホ長調 K.282, ト長調 K.283)はザルツブルクで作曲され、このニ長調 K.284 のみがミュンヘンでデュルニッツのために書かれたと思われていたため、5曲は「ザルツブルク・ソナタ」と総称され、第6番のこの曲が単独で「デュルニッツ・ソナタ」と呼ばれていた。 しかし今では6曲すべてミュンヘンで「ひとつづきの五線紙に一気呵成に書いた」ものとされている。 なお、モーツァルト自身はこの曲を「デュルニッツのために書いた最後のソナタ」と言っている。 余談であるが、デュルニッツは代金をなかなか支払わなかったという。 その後も、モーツァルトはミュンヘンを訪問する機会があった(たとえば1777年12月)が、いつも彼と会うことができなかった。 デュルニッツは踏み倒すつもりで逃げ回っていたのだろうか。 それとも、そもそもデュルニッツとそのような約束はなく、モーツァルトがザルツブルクの父に作り話をしていたのだろうか。
シリーズの最後を飾るだけに、6曲中で最もスケールが大きい。 前の5曲と比べて倍近くの長さがあり、最終楽章だけで一曲分にもなっている。 また、なぜか最初に書き始めた第1楽章は71小節で打ち切られ、もっと華麗な様式で新たに書き直しているという。 そして6番目のピアノソナタにして初めて主題と変奏楽章が入っている。
改作の第一楽章をも含めて、いっさいが感覚的な充実とコンチェルト風の活気を持ち、それが繰り返し思いがけないすばらしい効果をもたらす。 とりわけ音響の充実と変奏曲の連関が新しくてすばらしい。中間楽章アンダンテは「ポロネーズ風ロンドー」であり、それがさらに最終楽章の変奏曲へと発展してゆく。[アインシュタイン] p.334
まるでオーケストラの響きを思わせるゆたかな音量の第1楽章には、フランス風な「ポロネーズ風ロンドー」がつづき、そしてがっしりとした作りの主題と12の変奏曲という長大な変奏楽章が全体をしめくくる。チャールズ・スットーニは「一種の混成的な変奏曲ロンドというアイデアを思いついたモーツァルトは、それを長大なフィナーレに用いた」([全作品事典] p.385)と言っている。 なぜモーツァルトはこのようなアイデアを思いついたのだろうか。 アインシュタインはこの曲だけがミュンヘンで作られた(前の5曲はザルツブルクでの作)と考えていたが、「この連作の中でまったく独立している」と前置きしたうえで、次のように言っていた。[海老沢] p.140
第一楽章の開始部はもっと前に書かれた草稿のなかに見いだされるが、これは連作のこれまでの様式に大体相応する。 この草稿の場合には注文者がなにか別の、いっそう輝かしいもの、《フランス的性格》に作曲されたものを希望すると言ったか、さもなければ、モーツァルト自身が個人的ないし音楽的な体験によって、ふいにより高い水準に立たされたにちがいない。 この音楽的体験とはなんであったのか?デュルニッツが具体的にどのような注文をしたのかわかっていないので、証拠探しは作曲者の側に向けられることになり、そこに登場するのがフォルテピアノという新しい楽器である。
ピアノの発明者として知られるようになったのは、バルトロメオ・クリストフォーリ(1655-1731)である。 彼はフィレンツェのトスカナ大公に仕える楽器職人であり、管理人であった。久元によればこの6曲の連作のお手本は1768年に出版されたヨハン・クリスティアン・バッハの《作品5》の曲集であり、バッハのその作品集はフォルテピアノで演奏されることが明記されているという。 そしてこのデュルニッツ・ソナタ第6番(K.284)はバッハの《作品5の2》と全体の構成や書法が似ているという。 ただし実際に演奏して比較すると違いが見えてくる。
(中略)
この楽器は、正確に指のタッチに反応して、はっきり弱音(ピアノ)と強音(フォルテ)を作ることができたために、フォルテピアノと呼ばれるようになり、その名前のフォルテとピアノが19世紀の初め頃に少しずつ逆立ちを始め、いつの間にかピアノフォルテになり、今に至るまでその名で呼ばれている。
(中略)
新しい技術的な発明に敏感なドイツ人は、ただちにクリストフォーリの発明の重要性を認め、自分たちの手でピアノを作り始めた。
(中略)
1770年代の中頃には、いくつかのメーカーが、膝で操作する精巧なペダルをつけた立派な楽器を作っており、その中ではレーゲンスブルクのフランツ・ヤーコプ・シュペート(1714-86)やアウグスブルクのヨハン・アンドレーアス・シュタイン(1720-92)らの製品が目を惹く。 このシュタインの楽器は、間違いなくヨーロッパ中で最もすぐれた楽器である。
(中略)
モーツァルトの少年時代に、ザルツブルクでピアノが使われていたかどうかは不明だが、おそらく、使われていなかったと思われる。 だが、何度かの旅により、ヨーロッパを歩いている間に、少年は間違いなくピアノと触れ合ったはずである。 特に1765年のロンドン、およびその前後のフランスでの滞在の間に、彼は確実にピアノと出会ったと思われる。 とはいえ、この楽器の重要さにモーツァルトが目を覚まされるのは、1770年代の中頃になってのことである。[ランドン] pp.54-57
弾いていても聴いていても何かが違っている。 明らかにモーツァルトの曲のほうが力強く、ダイナミックである。 モーツァルトの冒頭は、アルペッジョの和音が力強く鳴らされ、四分休符の後に、ピアノとフォルテの対比によるテーマが現れるが、バッハでは同じ和音で開始しながら、それは3回鳴らされ、なめらかにテーマの中に組み込まれている。 モーツァルトは頻繁に休符を使い、音楽を切断し、そこにエネルギーを生まれさせ、そのエネルギーによって音楽を前に進めようとするのに対し、バッハは、刺繍のような音型で音楽を丹念に紡いでいく。その違いは「才能や感性の違い」にあることのほかに「演奏楽器の違い」も関係していると久元は指摘している。 すなわちモーツァルトが出会ったピアノは、同じフォルテピアノでも、ロンドンでバッハが弾いていたスクエア型よりも豊富な音量と幅広いデュナーミクを持ったグランド型であったと推測している。 連作のうち、なぜ最後の第6番だけが特別に大規模になったのか謎であるが、そのような豊かな表現を可能にする演奏楽器があったからこそ、この作品が誕生したことは間違いないであろう。[久元] p.67
このソナタは、ヨハン・クリスティアン・バッハの作品に比べても、モーツァルト自身のほかの5曲のソナタに比べても、分厚い書法で書かれ、力強い推進力があるダイナミックな音楽だ。 このような特徴のある作品を、現代のフル・コンサート・グランドピアノの楽器特性を活かし、ダイナミックに弾くことも可能であり、それはそれでこの作品の一面を表現しているように思う。オカールは、モーツァルトがギャラントリーな作風に傾倒したこの時期において、表現意欲が高まりすぎると誇張しまいかねないものを明澄化する技を身につけていたことに注意を向け、次のように言っている。同書 p.69
モーツァルトはときに、ごく単純で、あまりに変哲がないので、ほとんどそれと気付かれないままに見過ごされる、ひっそりとしたポエジーをすくい上げることがある。 このフィナーレは実に輝かしい変奏曲の形であらわれる。 しかし、短調の変奏(第7番)が高まるときによく注意しよう。 だが、それが高まるとさえいいうるのだろうか。 それは自らのうちにすっかり吸収され、沈黙に立ち帰ってしまうのだから。モーツァルトは2年後のマンハイム・パリ旅行の際もこの曲をよく演奏したという。 1777年10月アウクスブルクでは実際にシュタインのフォルテピアノで演奏し、「比較にならないほどよく響いた」と書き残している。[オカール] p.49
1777年10月17日、アウクスブルクからザルツブルクの父へ
シュタインの仕事をまだ若干でも見ていないうちは、シュペートのクラヴィーアがぼくの一番のお気に入りでした。 でも今ではシュタインのが優れているのを認めなくてはなりません。 レーゲンスブルクのよりも、ダンパーがずっとよくきくからです。 強く叩けば、たとえ指を残しておこうと上げようと、ぼくが鳴らした瞬間にその音は消えます。 思いのままに鍵に触れても、音は常に一様です。 カタカタ鳴ったり、強くなったり弱くなったりすることなく、まったく音が出ないなどということもありません。 要するに、すべてが均一の音でできています。
(中略)
ぼくは当地およびミュンヘンで、自作の6曲のソナタをほんとにたびたび暗譜で演奏しました。 そのト長調の第5曲は、例の田舎貴族たちの演奏会で弾きました。 最後のニ長調の曲は、シュタインのピアノ・フォルテで、比較にならないほどよく響きました。 膝で押す装置も、彼のはほかのよりもよく出来ています。 ただ触れさえすればすぐに効きますし、膝を少しのければたちまちどんな残響も聞こえなくなります。[書簡全集 III] pp.149-151
作曲者自身がその後もこの第6番だけをよく演奏に取り上げていたことと、1784年7月にウィーンのトリチェッラから「ピアノ・ソナタ第13番変ロ長調(K.333)」と「ピアノとヴァイオリンのためのソナタ第40番変ロ長調(K.454)」とともに「作品VII」として刊行したことから考えると、やはり特別な思いがあったものと想像できる。
その出版譜はたぶんモーツァルトがザルツブルクの父に送ったと思われるが、さらにレオポルトからザンクト・ギルゲンの娘ナンネルの手に渡り、これらのソナタは彼女の夫のお気に入りになったという。
余談であるが、1780年暮れから1781年初めにかけて、ヨハン・クローチェ(Johann Nepomuk della Croce)によって描かれた「ザルツブルクでのモーツァルト一家」という有名な絵がある。 ここで姉弟がグランド型のフォルテピアノに並んで座り、連弾のポーズをとっている。 ただし、母アンナ・マリアは2年前の1778年7月3日にパリで客死したので、壁に肖像画として収まっているが、それは1775年頃に女流画家マリア・ローザ・ハーゲナウアー(Maria Rosa Hagenauer-Barducci, 1744-1809)が描いた絵(左)を写したものと思われる。 さらに、ウォルフガングもザルツブルクにいなかったので、クローチェは別の絵から写した。 父レオポルトはヴァイオリンの大家であるから当然のことながらその楽器を手にしている。 なお、この絵のモデルになるために、ナンネルはザルツブルク宮廷侍従長フォン・メルクの小間使いに髪の毛を縮らせてもらったという。 レオポルトは「ナンネルはもう二度、画家のところに行った」と手紙に書いているから、この絵がかかれた場所はレオポルトの住家(タンツマイスターハウス)の一室ではない。 のちにナンネルが結婚してこの家を出てから、レオポルトは一人寂しくここで生活していたが、どういう思いでこの絵を見ていたのだろう。 また、どういう気持ちからこの絵の製作をクローチェに依頼したのかわからないが、貴重なものを後世に残してくれたことに感謝したい。 レオポルトの死後、この絵はナンネルに遺産相続されたが、現在は「モーツァルト美術博物館」となっているモーツァルトの生家(Mozarts Geburtshaus)にある。
ウィーンにいたモーツァルトは1782年頃にヴァルター作のフォルテピアノ(中古品)を買って愛用していた。 ヴァルターはモーツァルトの注文により、そのピアノの下に置く足鍵盤ピアノを作ったという。 このフォルテピアノはモーツァルトの死後、1809〜10年頃、ヴァルターが大幅に手直した後、ミラノに住むカール・トーマスに送られた。 1856年に息子カール・トーマスはモーツァルテウムに寄贈し、現在は「モーツァルトの生家」すなわち「モーツァルト美術博物館」内の「モーツァルトが生まれた部屋」に置かれてある。
〔演奏〕
CD [DENON CO-3858] t=25'14 ピリス Maria Joao Pires (p) 1974年1・2月、東京イイノホール(ピリス30歳) |
CD [RVC R32E-1002] t=29'53 ピリス Maria Joao Pires (p) 1984年(ピリス40歳) |
CD [ACCENT ACC 8849/50D] t=27'36 ヴェッセリノーヴァ (fp) 1988 ※1795年頃のウィーンのフォルテピアノで演奏 |
CD [キング K32Y 297] t=3'53 クロムランク (p) 1988年7月、ベルギー、ゲント ※第1楽章断章 |
CD [WPCC-4272] t=27'57 リュビモフ Alexei Lubimov (fp) 1990年1月、 ※シュタイン1788年のレプリカ(ケルコム1978年)使用 |
CD [Glossa GCD 920504] t=28'43 Patrick Cohen (fp, Anton Walter, Vienna ca.1790) 1996年8月 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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