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フリーメーソンの喜び K.471Cantata "Die Maurerfreude"
〔作曲〕 1785年4月20日 ウィーン |
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ウィーンにおけるフリーメーソン分団「授冠の希望 Zur gekrönten Hoffnung ツア・ゲクレーンテン・ホフヌング」の会員ペートラン(Franz Petran, c.1750-1810)の詞で、科学を探求するメーソンを讃える内容のものである。 この曲は4月24日にフォン・ボルン(43歳)の栄誉(帝国直属騎士号の授与)をたたえるために分団「桂冠希望」での儀式で演奏するために書かれた。 モーツァルトは前年(1784年12月4日)ウィーンの分団「善行 Zur Wohltätigkeit ツア・ヴォールテーティヒカイト」に入会したが、ほかの分団にもよく参加していた。 その4月24日の「授冠希望」における儀式は特殊なものであったという。
ある厳格な典礼の一環を成す『テーブルの祭式』という儀式である。 この典礼は、地上の糧の恩恵の超越的な喚起と、パンとブドウ酒にまつわる象徴的な考えの概略的な展開を含んでいる。 食卓での席次と、ロッジの色々な役員が次々と命じる指名によって、兄弟達が順番に立ち上がり、乾杯の音頭を取るが、この数度に亙る義務的「乾杯」によって食事はそのたびごとに中断される。 この乾杯のうち、最初のものは必ず元首の栄誉を讃えるために献げられた。 この「乾杯」の典礼文を一曲のカンタータに発展させることには何の支障もなく、それは偶々重要な音楽となった。 これが『フリーメイスンの喜び』作曲の目的である。したがって、フォン・ボルンの栄誉授与のために書かれた曲であるが、儀式に出席していた元首ヨーゼフ2世を讃える歌詞になっていて、「取れよ、この冠を、われらの長子ヨーゼフの手から」と歌われる「ヨーゼフ」とはもちろん皇帝ヨーゼフ2世であり、曲の最後で「賢者ヨーゼフは月桂樹を冠に結び、メーソンの賢者の頭(こうべ)に」と合唱が力強く歌うことで皇帝の栄誉を讃えている。[コット] p.141
その儀式で、独唱テノールを歌ったのはアダムベルガー(45歳)だった。 また、この儀式にはモーツァルト本人だけでなく、父レオポルトも出席していたことが知られている。 彼はこの年の2月に息子が住むウィーンを訪れ、4月初めにフリーメーソンに入会し、16日に第2位階(職人)へ、さらに22日には第3位階(親方)へ異例な早さで昇格したばかりだった。 そして儀式の翌日(25日)彼は友人マルシャンの息子ハインリヒとともにウィーンをたった。
8月には総譜がアルタリアから出版(価格2フローリン、付録としてピアノ版付きで)された。 また、12月15日には分団「授冠の希望」の集会があり、やはりアダムベルガーが歌っている。
余談であるが、最晩年の1791年9月9日、プラハ訪問中のモーツァルトは当地のメーソン分団「授冠の三本柱」を訪問し、その際この曲で歓迎を受けたという。
最後に参加した時、盟友は二列に並んで立ち、モーツァルトが入ってくると、カンタータ『フリーメイスンの喜び』を奏して歓迎を受けた。 モーツァルトはこの心尽くしに深く感動し、礼を述べて、じきにもっとフリーメイスンに忠誠を示す作品を提供したいと言った。 それは『魔笛』のことを指していたが、このオペラはもうすでにモーツァルトの胸の内で熟していた。[ランドン] p.175
〔歌詞〕
Sehen, wie dem starren Forscherauge die Natur ihr Antlitz nach und nach enthüllet wie sie ihm mit hoher Weisheit voll den Sinn und voll das Herz mit Tugend füllet das ist Maurer Augenweide wahre, heisse Maurerfreude. |
見よ、自然は探求心を以て見つめれば いかにその姿を少しずつ現すことか、 いかに頭をより高き知恵で満たし 心を徳で満たすことか、 それこそメーソンの見る楽しみ、 真の、熱きメーソンの喜び。 見よ、自然は探求心・・・ 石井宏訳 CD[KING 250E 1217]
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〔演奏〕
CD[KING 250E 1217] t=6'54 クレン (T), エディンバラ音楽祭合唱団, ケルテス指揮ロンドン交響楽団 1968年、ロンドン |
CD[UCCP-4061/70] t=6'53 シュライアー (T), ライプツィヒ放送男声合唱団, シュライアー指揮ドレスデン国立管弦楽団 1988ー89年、ドレスデン |
〔動画〕
Ignaz Edler von Born1742-91 |
フォン・ボルンは1742年にトランシルヴァニアに生れ、プラハで哲学や自然科学を修め、鉱物学者となった。 1776年に女帝マリア・テレジアに招かれ、ウィーンで活躍するようになった。 彼が率いるメーソンの支部「真の融和 Zur wahren Eintracht(ツア・ヴァーレン・アイントラハト)」(1781年設立)は会員数200人を越え、ウィーンで最大かつ最高の支部となった。 よく知られているように、モーツァルトは1784年12月14日、ゲミンゲン男爵によって結成された分団「善行に向かって進む Zur Wohltatigkeit」に入団したが、1785年頃からフォン・ボルンの支部に頻繁に参加するようになった。
ボルンは自然科学者としても業績をあげ、アマルガム法(「混汞(こんこう)法」ともいう)の発明と導入により功績があったため、1785年4月24日、帝国直属騎士号を授与された。 その栄誉をたたえるために、分団「授冠の希望」は祝賀式典を催し、そのとき演奏されたのがカンタータ「フリーメーソンの喜び」であった。 儀礼に関する研究でも知られ、1784年に発表した「エジプトの秘儀について」はモーツァルトの『魔笛』(K.620)作曲に影響を与えたといわれ、また、ザラストロはボルンがモデルであるといわれている。
〔参考文献〕
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