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ヘンデルのオラトリオ「アチスとガラティア」の編曲 K.566
〔作曲〕 1788年11月 ウィーン |
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イギリスで大活躍していたヘンデルが作曲した『アシスとガラテア Acis and Galatea』を、1788年にスヴィーテン男爵の依頼により、彼が主催する音楽愛好家団体「Associerte Kavaliere(騎士連合協会)」のために、モーツァルトが編曲したものである。 蛇足ながら、Acis は「アチス」以外に「アキス」や「アシス(英語読みエイシス)」または「アツィス」と表記されることもあり、以下このページでも混在するが、これについては御容赦願いたい。
古代ローマの詩人オウィディウス(Publius Ovidius Naso、英語名オーヴィッド)の作品『変身物語 Metamorphoses』第13巻をもとに、二人の恋する若者アチスとガラテアを題材にした音楽作品は、1686年にリュリ(Jean-Baptiste Lully, 1632-87)が英雄的パストラル『アシとガラテー』を作曲するなど、バロック時代から多くの作家によって書かれていて、ヘンデルもイタリア滞在中の1708年ナポリで『アチとガラテアとポリフェーモ』を作曲していたという。 その後イギリスに帰化したヘンデルは1718年に英語台本に曲(22曲)をつけ、1幕ものの仮面劇(『マスク』と称されている)をロンドン郊外カノンズのシャンドス公の邸宅で初演していた。 その台本は主としてゲイ(John Gay, 1685-1732)によるが、アレクサンダー・ポープやジョン・ヒューズの詩句も挿入されているという。 劇の内容は
海のニンフ(ネレウスおよびドリスの娘)ガラテアは、シチリアの羊飼いアチス(パンとシマエティスの子)を愛する。 彼の恋的はチクロプのポリフェーム(ポセイドンのたくさんの子のうちのひとり)である。 彼は海の洞窟でふたりを脅し、嫉妬に駆られてエイシスをエトナの岩塊で打ち殺す。 ガラテアは死んだエイシスを川に変身させ、彼女自身はその姉妹である海のネレイデスのところへ逃げ去る。というものであるが、ゲイはここに第4の人物として羊飼いデイモンを登場させた。 さらにヘンデルは1732年にロンドンの王室劇場で改訂版(30曲)を発表したが、そこでは第5の登場人物コリドンという羊飼いが追加されているという。[バッソ] p.14
よく知られているようにモーツァルトは父の説得を振り切って、1781年からウィーンに定住するようになるが、その1780年代、ウィーン宮廷図書館長スヴィーテン男爵(当時58歳)の私設の音楽サークルと深い関係をもつことになる。
男爵は女帝マリア・テレジアの内科医という父をもつ名門貴族であり、多くの貴族がそうであったように音楽に熟達していたが、外交官として特にイギリスそしてベルリンに滞在するなかでバッハやヘンデルの音楽に傾倒するようになり、1777年ウィーンに落ち着いてからはそれを自分の音楽サークルなどでさかんに取り上げていた。
彼自身も作曲し習作を残しているが、何よりもその音楽サークルにモーツァルトを招いたことと、私蔵する豊富な楽譜文献(特にバッハやヘンデルのもの)をモーツァルトに触れさせる機会を与えたことは特筆すべきことである。
(1782年4月10日、父へ)男爵は日曜ごとに12時から14時まで私設の音楽会を開催し、その集会には音楽愛好家だけでなく職業音楽家も参加していた。 そしてモーツァルトもおのずからそのサークルに引き寄せられてゆき、バロックの巨匠たちから大きな影響を受けることになったのである。
ぼくは毎日曜日の12時に、スヴィーテン男爵のところへ行きますが、そこではヘンデルとバッハ以外のものは何も演奏されません。 ぼくは今、バッハのフーガの蒐集をしています。 ゼバスティアンのだけではなくエマーヌエルやフリーデマン・バッハのも。 それからヘンデルのも。[手紙(下)] p.54
(1782年4月20日、姉へ)後の「ウィーン楽友協会」の前身に当るスヴィーテン男爵の音楽サークルの会員はほとんどがフリーメーソンだったという。 そこでは彼がイギリス滞在中に知ってから傾倒するようになったヘンデルの作品(オラトリオ)がよく採り上げられ、男爵の求めに応じて、1779年3月に『マカベアのユダ』がシュタルツァーの編曲で上演されている。 バロック音楽の編曲と演奏を任されていたシュタルツァーが1787年2月に世を去ってからは当然のように若いモーツァルトが編曲と指揮を担当することになった。
このフーガ(K.394)が生まれた原因は、実はぼくの愛するコンスタンツェなのです。 ぼくが毎日曜日に行っているファン・スヴィーテン男爵が、ヘンデルとゼバスティアン・バッハの全作品を(ぼくがそれをひと通り男爵に弾いて聴かせた後で)ぼくにうちへ持って帰らせました。 コンスタンツェがそのフーガを聴くと、すっかりそれの虜になってしまい・・ (以下略)同書 p.55
オラトリオの演奏が行なわれた多くの邸宅ではオルガンが調達できなかった。 また、バロック期の高音域のトランペット・パートを奏するための高度の演奏技術はすでに忘れ去られていたために、それは1780年代のウィーンの音楽家の能力を越えたものであった。 他方、バロック期のオーケストレイションは、しばしば最上声部とバス旋律の2声部のみに記譜されていたために、貧弱なものとみなされた(種々の管・弦楽器が二つのパートに分けられ、チェンバロまたはオルガンの奏者には和声を充たすことが要求された)。 従ってバッハ、ヘンデル、グラウン、エマヌエル・バッハらの作品は「再校」されることとなり、モーツァルトをも含む編曲者によって当世風のものとされた。モーツァルトにとってその最初の機会は1788年の冬のシーズンに訪れた。[ランドン2] p.7
ヴィーン、1788年2月26日。 この日と3月4日に比類なきハンブルクのバッハの優れた作曲によるラムラーのカンタータ『キリストの復活の昇天』がヨハン・エステルハージー伯爵家で管弦楽団86人、非常な音楽通であるスヴィーテン男爵の同席、監督の下に演奏され、あらゆる高貴な出席者達の大喝采を博した。 帝室王室楽長モーツァルト氏が指揮し、総譜を担当、帝室王室楽長ウムラウフ氏がフリューゲルを弾いた。このときモーツァルトは2月24日に完成したばかりの「ピアノ協奏曲第26番」(ニ長調、通称「戴冠式」K.537)を初演したとランドンは言っている。 多くの音楽愛好家が集まった機会を、自分の力量を披露する(新作を発表する、あるいは即興演奏をする)場として利用することなく、みすみす逃すはずがない。 ウィーンにおいてモーツァルトの最も良き理解者であったスヴィーテン男爵はこのような形で彼に機会を与えたのだろう。
(中略)
歌手はランゲ夫人、テノールのアーダムベルガー、バスのザーレ、それに30人の合唱団であった。 7日には同作品が帝室王室宮廷国民劇場で上演された。[ドイッチュ&アイブル] pp.213-214
こうして、スヴィーテン男爵の依頼によってモーツァルトがヘンデルの編曲
モーツァルトにとって、1788年はとりわけみじめな年だった。 彼の予約演奏会シリーズは金銭的には役立っていない、というより、会が開けたかどうかも疑わしい。という有様だった。 4年前の1784年、モーツァルトの予約演奏会に174人もの著名人が集まったが、しかし今やモーツァルトを取り巻く状況は一変し、1789年7月の演奏会はスヴィーテン男爵たった一人の予約しか取れず開くことができなくなった。 そんななかでの編曲という仕事はありがたかった。
(中略)
彼はヘンデルのオラトリオ『アーキスとガラテイア』をファン・スヴィーテン男爵のために編曲することにより、なけなしの収入にありついた。[ランドン1] pp.174-175
これらの演奏や編曲に対する協会の報酬がいくらだったのかは正確にはわからないが、いまや協会は彼にとってはかなり大きな、定期的な収入源であったことはまちがいなく、高位の貴族たちから、高いレベルでの支援を受けていたことがわかっている。最初の(あるいは2番目の)編曲となった『アチスとガラティア Acis und Galatea』は2幕18曲からなるもので、オラトリオというより田園劇(パストラール)である。 英語からドイツ語への翻訳者はスヴィーテン男爵と言われていた(たとえば[事典]p.611)が、[書簡全集 VI]ではアルクシンガー(Johann Baptist von Alxinger, 1755-97)と明記されている。 彼は詩人であり、フリーメーソンの一員でもあった。 このとき用いられたヘンデルの曲は1718年の版(1743年ウォルシュ出版)であった。[ソロモン] p.647
彼らは1743年にウォルシュが出版した初版楽譜を用いた。 そしてヴァン・スヴィーテンは、モーツァルトが楽器を加えたり、変更を施したりするための余白を残した形に筆写させた。 モーツァルトはオルガンのパートを削除して(エステルハージ邸にはオルガンがなかった)オーケストラ編成を整えたが、レチタティーヴォとアリアのための鍵盤楽器を残した。 モーツァルトは多分この鍵盤楽器を弾きながら指揮したであろう。 また、この鍵盤楽器はチェンバロではなくフォルテピアノであったであろう。このような形で編曲されたので、楽曲の構成や旋律がほとんどヘンデルの原作と変わりなく、また、原作では序曲が第1曲として数えられていたが、モーツァルト編曲では番号付けされていないという違いはあるものの、全体の曲数もほとんど変わりない。 モーツァルトが行ったおもな変更は「管楽器を加えることと、和声を充たすように弦のパートを部分的に書き改めること」であり、[ランドン2] p.8
各2本のオーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン(変ロ管アルト)の参加によって、オーケストラにモーツァルト的色彩が与えられた。モーツァルトは第2幕への導入曲を2つ加えたが、それらもやはりヘンデルの作品で、コンチェルト・グロッソ「作品6の6」からミュゼットと、「作品6の7」からラルゴである。 このような幕間に器楽曲を演奏するのはヘンデル自身が行っていた習慣であるという。 また、このときモーツァルト自身の作品も即興されただろうとランドンは推測している。
(中略)
モーツァルトの目的は、彼が知る限りで最も美しく仕立てることであった。[ランドン2] p.10
登場人物は次の4人
第1幕でガラテア(ニンフ)とアチス(羊飼い)がそれぞれに相手への愛を歌い合う。 アチスは仲間のダモンの忠告を聞かず、第2幕では、愛の神の矢を受けてガラテアに恋した怪物ポリフェームに闘いを挑むが、投げつけられた岩で殺されてしまう。 ガラテアは自分の神通力を思い出し、アチスを泉の姿に変える。 コーラスは「ガラテアよ、もう泣かないで」と歌う。 泉から流れる小川のせせらぎは永遠に愛を語る。
1788年11月末(あるいは12月始め)に宮廷料理長イグナーツ・ヤーン(44歳)が所有するレストラン(100人以上収容できるホール)で初演された。 そのときはモーツァルトの指揮で、ソプラノがカタリーナ・カヴァリエリ(『後宮』で最初のコンスタンツェ役、28歳)、テノールがアダムベルガー(ベルモンテ役、45歳)、バスがトビアス・グズールという当時有名な歌手で演じられた。 さらに12月30日にはエステルハージー邸で再演され、スヴィーテン男爵が指揮をしたことがツィンツェンドルフの日記により知られている。 このときは、アロイジア・ランゲ、アダムベルガー、イグナーツ・ザールが歌ったという。
第1幕
渡部惠一郎訳 CD[POCA-1059-60]
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〔演奏〕
CD [POCL-1227-8] t=95'50 ドーソン Lynne Dawson (Galatea, S), エインスリー John Mark Ainsley (Acis, T), デア・メール Nico van der Meel (Damon, T), ジョージ Michael George (Polyphem, Bs), ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), ヘンデル&ハイドン・ソサエティ Handel & Haydn Society 1990年 ※ヤーンの記した当時のウィーンの劇場オーケストラの楽器編成。ランドン解説。 |
CD [POCA-1059-60] t=103'36 ボニー Barbara Bonney (Galatea, S), マクダゴール Jamie McDougall (Acis, T), シェーファー Markus Schäfer (Damon, T), トムリンソン John Tomlinson (Polyphem, Bs), ピノック指揮 Trevor Pinnock (cond), イングリッシュ・コンサート The English Concert & Choir 1991年 ※オリジナル楽器使用。バッソ解説。 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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