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K.527 罰せられた放蕩者、またはドン・ジョヴァンニIl dissoluto punito, o ssia Il Don Giovanni
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, 3 tb, timp, mand, 2 vn, 2 va, vc, bs |
序曲 Andante - Molto allegro ニ短調・ニ長調
第1幕
ダ・ポンテ(当時38才)の詞による2幕24曲から成る滑稽劇。 プラハで『フィガロの結婚』が大当たりで束の間の幸せな時を過ごしていた頃、同地のイタリア協会から「トスカナからのお客様の御列席用オペラ」の作曲依頼があった。 すなわちハプスブルク家の婚儀(のちの皇帝ヨーゼフ2世の娘マリーア・テレージア大公女とザクセン侯アントン・クレーメンス皇子)が予定されていて、フィレンツェからドレスデンに至る途中の宿泊地のウィーンとプラハでオペラを上演する祝賀行事が計画されたのであった。 ウィーンでは10月1日にイ・ソレールの『ディアーナの樹』が、そして10月14日にはプラハでモーツァルトの作品が上演されることになったのである。 どちらも台本は宮廷詩人のダ・ポンテが担当であった。 モーツァルトはウィーンに戻った(2月12日)あと、『フィガロ』の台本作家ダ・ポンテと再び手を組んで作曲にとりかかったが、選んだ内容はスペインの蕩児の行状の末路を描く滑稽劇(ドラマ・ジョコーゾ)だった。 ただしモーツァルト自身の作品目録では「オペラ・ブッファ」と(10月28日の日付で)記載されている。 伝説的なドンファン物語を取り上げようと発案したのはモーツァルトなのか、ダ・ポンテなのか、それともプラハ側の希望だったのか。 そのあたりの事情はよくわからないが、次のような状況が二人に働いたのかもしれない。
日数の余裕はなかった。 そこでモーツァルトとダ・ポンテは最も古い素材に手を出したが、それは同時に最も新しい改作の形で彼らの手にはいったのである。 つまりジョヴァンニ・ベルターティの『石像の客』である。 これはジュゼッペ・ガッザニーガの音楽によって、第二のカーニヴァル・オペラとしてヴェネツィアにおいて上演されたばかりであった。 これこそ適当なものだ、という考えがまたもや天啓のようにモーツァルトにおそいかかったにちがいない。 それは『ドン・ジョヴァンニ』と同時にもう二つのリブレット制作に従事しなければならなかったダ・ポンテにとっても適当なものであった。 なぜなら、モーツァルトのための仕事では大いにベルターティに依存できることになるからである。ベルターティ(Giovanni Bertati, 1735-1815)はヴェネツィアで活躍していた台本作家であったが、ウィーンでも彼の作品は多数上演されていた。[アインシュタイン] p.592
1787年の作品として、ガッツァニーガが曲を付けた《ドン・ジョヴァンニあるいは石の客人》がある。 このスペインの題材はしばしば脚色されてきたが、ダ・ポンテはこのベルターティの台本を直接の手本とした。 両者を比べると、ダ・ポンテのほうがはるかに詩作や脚色の能力が高いことが分かる。 が、同時に他人の作品をわが物にしてしまう厚かましさも相手を越えている。[ブレッチャッハー] p.332
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モーツァルトは夏から秋にかけて作曲にとりかかったが、完成しないまま上演にむけて10月に再びプラハに旅立った。 ちょうどその間の5月28日、父レオポルトがザルツブルクで息を引き取ったことは見過ごせない事件である。 モーツァルトは葬儀にかけつけることなくウィーンで作曲を続けていた。 プラハでの初演は10月14日に予定されていたが、その日は『フィガロ』がモーツァルトの指揮で再演された。 モーツァルトはウィーンの友人ゴットフリート・フォン・ジャカンに伝えている。
10月15日この手紙で『ドン・ジョヴァンニ』の初演は24日に決まったが、さらにひとりの女性歌手が病気になったのでその次の月曜日(29日)に延期されたことを伝えている。 その結果、「トスカナからのお客様の御列席用オペラ」であったはずの『ドン・ジョヴァンニ』は、肝心のお客様が15日にプラハをたってしまったので、本来の目的がはたせなくなったことになる。
きみはたぶんもうぼくのオペラが終ったと思っているだろうけれど、ところが、それはちょいと早とちり。 第一に、ここの劇場の人たちは、ヴィーンの連中のように器用じゃないから、こんなオペラをそう短期間に練習して覚え込むなんてできないんだよ。
第二に、ぼくが着いたとき、手筈も準備もほとんど整っていないのを知って、14日、つまり、きのう上演するのは単純に言ってとても考えられないことだった。 そこできのうは、煌々と飾られた劇場でぼくの『フィガロ』が上演され、ぼく自身がその指揮をした。[書簡全集 VI] pp.421-422
1787年10月29日、モーツァルト自身の指揮によりプラハ国立劇場で初演された。 当時の新聞は次のように大成功だったことを報じていた。
29日、月曜日、期待されていたモーツァルトのオペラ『ドン・ジョヴァンニ、又は石の客』がイタリア・オペラ協会によって上演された。 識者、音楽家達はプラハでこれ程までのものはまだ上演されたことがないと言っている。 モーツァルト氏自身が指揮したが、彼が管弦楽団の前に立った時三回歓呼の声が挙がった。 そこから出る時にも起った。 所でこのオペラは非常に演奏のむずかしい作品である。 それで稽古期間が短かったのに良い公演であったと皆驚いている。 モーツァルト氏に良い公演で感謝の念を表するために劇団も管弦楽団も皆全力を出したのである。 合唱団、それにグァルダゾーニ氏が輝かしくしつらえた装飾にも多額の費用がかかっていよう。 観客の数が極めて多いことも大方の評判を保証している。モーツァルト自身も大満足だった。 そして11月上旬にウィーンに帰っている。 ところで『ドン・ジョヴァンニ』の上演が延期になった原因は何か?[ドイッチュ&アイブル] p.208
オペラの完成にまつわる有名な逸話がある。
モーツァルトは初演の2日前になっても序曲を書こうとしないので、業を煮やした劇場支配人グァルダゾーニと興業師ボンディーニは、ドゥーシェク夫人の別荘に歌手たちをつれて行き、一騒ぎした後、一計を案じてモーツァルトを音楽室に閉じ込めてしまったという。
こうして、序曲は初演の前の晩に書き上げられた。
その序曲の最初のアンダンテは、騎士長の石像が来訪する場面から取られ、ドン・ジョヴァンニの宿命を暗示する。
続くモルト・アレグロは、ドン・ジョヴァンニ亡き後の人々の晴々とした雰囲気を表している。
この作品を完成させたヴィラ・ベルトラムカというプラハ郊外にある屋敷(右の写真)は、1784年からドゥーシェク夫人の所有となり、現在はモーツァルト記念館として公開されている。
ただし、2009年11月から閉館となっている。
この逸話が真実かどうかは分からないが、もし事実だとすれば、『ドン・ジョヴァンニ』の上演が延期になった原因はモーツァルト自身にあることになる。
アインシュタインは意図的にオペラの完成を遅らせ、上演の延期を目論んだと推測している。
ダ・ポンテとモーツァルトはこの計画を極力妨げたらしい。 それは1787年にヴィーンで印刷されたリブレットの存在によって推察される。 宮廷調度局がテクストの事前提出を要求して、二人を少なからず仰天させたことは明らかである。 そこで二人はあぶない個所を全部削った不完全なリブレットを印刷させたのであった。 削ったのは第一幕の後半全部で、第一幕は四重唱(第9曲)で終ってしまう。 それにもかかわらず、モーツァルトはこのテクストになお不安を感じたのである。[アインシュタイン] pp.607-608
プラハへの出立の前に、ダ・ポンテは《ドン・ジョヴァンニ》のイタリア語台本オリジナルを印刷させたが、そこでの第一幕をドンナ・アンナ、ドンナ・エルヴィーラ、ドン・オッターヴィオ、ドン・ジョヴァンニの四重唱で終わらせている。 その理由はいまとなってはもう想像するしかない。 台本の短縮は印刷屋の見落としや製本屋の手違いから生じたわけではなく、作家が意識的に黒々と線を引いてその部分の削除を図ったからにほかならない。こういう事情によって、モーツァルトは上演の前夜に序曲を書き、上演を延期させたというのである。[ブレッチャッハー] pp.135-136
モーツァルトは『フィガロの結婚』を聴くだけで満足しなければならなかった大公女が再びプラーハの市門をあとにするまで、わざとこの序曲の執筆をおくらせていたのである。[アインシュタイン] p.608
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ウィーンにおける初演は1788年5月7日、やはりモーツァルト自身の指揮により上演された。 その日のポスターは次のように伝えていた。
新しいジングシュピール。 帝室王室国民宮廷劇場で本日、1788年5月7日上演(初演)。 『ドン・ジョヴァンニ、又は罰を受けた道楽者』二幕のジングシュピール。 台本は帝室王室劇場のイタリア語ジングシュピール作家、ダ・ポンテ神父。 音楽は現在帝室に仕える楽長ヴォルフガング・モッツァルト氏。 台本はイタリア語のみ、場内係の許で20クローネで発売。 開演は7時。このとき、下にある3曲(K.540a, K.540b, K.540c)が追加された。 モーツァルトの存命中にウィーンで上演されたのはこの1788年だけであり、しかも15回のみだった。 その背景には(まだ観ていない)皇帝ヨーゼフ2世が「モーツァルトの音楽は極めて歌い難い」と劇場総監督オルシニ・ローゼンベルク伯爵に伝えたことが大きく影響していたと思われる。 皇帝が『ドン・ジョヴァンニ』を観たのは12月15日になってからで、それはモーツァルトの生前にウィーンで上演された最後の機会であった。 翌1789年にはドレスデンやフランクフルトでも上演されたが、どこでも評価は良くなかった。 また、好評だったプラハでの公演の報酬も1789年3月末になってもまだ作曲者に支払われていなかったので、モーツァルトは「毎日、待ちわびていますが、非常な金欠状態に陥ってしまいました」とホーフデーメルに借金を申し出ている。[ドイッチュ&アイブル] p.215
劇のあらすじは次のようなものである。 スペインの若い貴族ドン・ジョヴァンニは女性遍歴を続け、ある夜、ドンナ・アンナの部屋に忍び込んだが、騒がれて逃げられてしまう。 追いかけているところで彼女の父である騎士長と決闘することになり、騎士長を殺してしまう。 ドンナ・アンナは婚約者のドン・オッターヴィオとともに犯人を捕まえる決意をする。 ドン・ジョヴァンニの方は罪の意識もなく次の女性を探していると、自分が捨てたエルヴィーラと鉢合わせたので、とっさに従者のレポレロに応対をまかせて立ち去る。 そこでレポレロは主人の豊富な女性遍歴のカタログを歌いあげる。 ドン・ジョヴァンニといえば、村娘のツェルリーナに言い寄りものにしようと次の行動に出ている。 さらに仮面舞踏会を催して、そこで1ダースほどの女性をカタログに追加することを目論むが失敗し逃走。 従者レポレロと衣服を交換し、次々と難関を突破し逃げ回ることに成功するが、その途中、墓場で騎士長の石像にふざけて夕食に招く。 そして本当に騎士長は現れ、ドン・ジョヴァンニは地獄に落ちる。
このようにドラマはドン・ジョヴァンニによる騎士長の殺害から始まり、その騎士長の亡霊の力によりドン・ジョヴァンニの地獄落ちをもって終る。 死で始まり死で終るこのオペラを単なる悲劇と呼ぶことはできない。 悲劇と喜劇、真面目と滑稽、戦慄と笑いが混じり合い、明と暗の中で進行し、一応ハッピー・エンドで終るが、地獄に落ちたドン・ジョヴァンニの方がなぜか輝き、生き残り新たな生活に入る人たちの方が光を失ってさえ見える。 父親殺しとその懲罰を内容とするこのオペラの作曲は、春から夏にかけて、ちょうど父レオポルトの死を挟んだ時期に進められた。 モーツァルトは実生活をそのまま作品に反映させるような作家ではなかったが、彼にとって絶対的な存在であった父の死はやはり大きな影響を作曲に与えている。 また、モーツァルトには政治的な意図がなかったのかもしれないが、ウィーン宮廷から疑いの目で見られないよう用心しなければならなかった。 このオペラは多くの問題を含み、多様な解釈と想像をかきたて、登場人物のそれぞれが生き生きと個性を発揮し、観客を飽きさせることがない傑作である。
このオペラの自筆譜はパリの国立図書館に所有されている。 ただしプラハ音楽院図書館に残る楽譜(モーツァルト自身が目を通したものと言われる)には、後にウィーンで公演されたときには削除された問題の一節が書かれてある。 それは仮面をつけて訪れたアンナ、エルヴィラ、オッタヴィオを歓待するドン・ジョヴァンニが「自由万歳 Viva la liberta.」と歌うところであり、プラハでの初演の際、舞台の上の歌手たちが12回も合唱で繰り返したという。 おりしもフランスから届く革命の報告がウィーンの貴族たちの神経を尖らせていた。
余談であるが、騎士長が決闘に倒れるところをベートーヴェンは嬰ハ短調に書き換えてピアノ・ソナタ「月光の曲」を作った。 ただし、この『フィデリオ』の作者には『ドン・ジョヴァンニ』を理解することはできず、そして次のオペラ『コシ』は許せなかった。
また、のちにリヒャルト・シュトラウスはカール・ベームに次のように語ったという。
第1幕のフィナーレで、レポレロが仮面をかぶった3人を招き入れて、あの悲劇的な仮面の三重唱が始まる直前のアダージョの2小節を君は覚えているだろう。 もし僕がこの2小節を作曲していたとしたら、代りに僕は自分のオペラのうちの3篇を差し出してよいと思っているよ。
〔演奏〕
- 全曲
LD [CBS SONY OOLC 101〜2] t=168分(2枚組) ロージー監督、マゼール指揮パリ・オペラ座 ライモンディ(ドン・ジョヴァンニ)、ファン・ダム(レポレロ)、モーザー(ドンナ・アンナ)、テ・カナワ(ドンナ・エルヴィラ)、 ベルガンサ(ツェルリーナ)、キング(マゼット)、マカーディ(騎士長)、リーゲル(ドン・オッターヴィオ) 1979年 |
- ハイライト
CD [PILZ 449275-2] t=64'44 ハーン(ドン・ジョヴァンニ), ホリコヴァ(ドンナ・アンナ), 他 1993年 |
- 序曲
CD [BMGジャパン BVCC-9701] t=5'29 トスカニーニ指揮 NBC 1946年 |
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=5'55 スウィトナー指揮シュターツカペレ |
CD [KKCC-9046] t=5'54 フルチェク指揮ヴィルトゥオージ・プラハ 1992年 |
CD [Victor VICC-104] t=3'49 モーツァルト・ジャズ・トリオ 1991年<編曲> |
- 第2曲 ドンナ・アンナのアリア「もうお分かりでしょう、誰が」
CD [WPCS-21094] t=3'40 グルベローヴァ (S) 1988年 |
- 第7曲 ツェルリーナとドン・ジョヴァンニの二重唱「あちらで手を握り合おう」 "La ci darem la mano"
CD [EMI TOCE-6819] t=3'40 ソーヤー (B), ドナート (S) 1973-74年 |
CD [POCL-2665] t=4'07 ポップ (S), ショルティ指揮ロンドンPO |
- 第8曲 エルヴィーラのアリア「さあ、この裏切り者を避けて」 "Ah! fuggi il traditor!"
CD [EMI TOCE-7588] t=1'19 シュワルツコップ (S) 1959年 |
- 第10曲 ドンナ・アンナのアリア「私の誇りを奪い、父をも奪った悪者よ」 "Or sai chi l'onore, rapire a me volse"
CD [PHILIPS 28CD-3235] t=6'33 キリ・テ・カナワ (S) 1987年 |
- 第11曲 ドン・ジョヴァンニのシャンパンの歌「酒がまわったら」 "Finch'han dal vino"
CD [EMI TOCE-6819] t=1'19 アレン (Br) 1984年 |
- 第12曲 ツェルリーナのアリア「ぶって、叩いて、マゼット」 "Batti, batti, o bel Masetto"
CD [EMI TOCE-7588] t=3'26 シュワルツコップ (S) 1952年 |
CD [POCA-1132] t=3'46 オッター (MS) 1995年 |
- 第15曲 エルヴィーラのアリア「ああ、神様、あの不道徳者は」 "In quali eccessi, o Numi, in quoi misfotti"
CD [EMI TOCE-7588] t=5'35 シュワルツコップ (S) 1959年 |
- 第16曲 ドン・ジョヴァンニのセレナード「ああ、窓辺においで」
CD [WPCS-21094] t=2'25 ハンプソン (Br) 1988年 |
- 第18曲 ツェルリーナのアリア「私の素敵な薬をあげるわ」
CD [EMI TOCE-7588] t=3'29 シュワルツコップ (S) 1952年 |
CD [WPCS-21094] t=3'33 ボニー (S) 1988年 |
CD [POCA-1132] t=3'13 オッター (MS) 1995年 |
- 第21曲 ドン・オッターヴィオのアリア「わたしの恋人を慰めて」 "Il mio tesoro intanto"
CD [EMI TOCE-6819] t=5'05 ゲッダ (T) 1966年 |
- 第23曲 ドンナ・アンナのロンド「どれほどあなたを愛しているか」
CD [EMI TOCE-7588] t=7'17 シュワルツコップ (S) 1952年 |
CD [PHILIPS 28CD-3235] t=7'22 キリ・テ・カナワ (S) 1987年 |
- 編曲
CD [PHILIPS PHCP-9159〜60] t=38'30 オランダ管楽アンサンブル 1973年 ※Tribensee編曲(13曲) |
CD [Chandos CHAN 6597] t=56'00 アテナ・アンサンブル 1973年 ※Tribensee編曲(20曲) |
CD [ビクター VDC-1333] t=26'35 モーリス・ブルグ木管アンサンブル 1986年 ※Triebensee編曲(10曲) |
CD [harmonia mundi 3903008] t=12'16 ブダペスト管楽アンサンブル 1989年 ※Tribensee編曲(6曲) |
CD [クラウン CRCC-10] (4) t=3'38 (5) t=1'25 (7) t=3'24 (10b) t=4'03 (16) t=1'45 山下和仁、尚子 (g) 1991年 |
CD [SONY SRCR-9101] ※タールベルク編曲「セレナーデとメヌエットによる幻想曲」 t=15'45 ※ビゼー編曲 (7) t=3'06 カツァリス (p) 1992年 |
CD [POCG-4131] t=17'38 シュルツ (fl), シェレンベルガー (ob) 1987年 ※編者不詳(8曲) |
CD [EMI CMS 7 63810 2] t=12'39 トリオ・ディ・クラローネ(3 basset-hr, (4)cl) ※R.Schottstadt編曲「3つのバセット・ホルンのためのディヴェルティメント ヘ長調」 |
CD [EMI 7243 5 55513 2 0] t=17'06 トリオ・ディ・クラローネ(3 basset-hr, (4)cl) ※R.Schottstadt編曲「3つのバセット・ホルンのためのディヴェルティメント ヘ長調」 |
CD [BVCC-6021] t=60'14 ヨーロッパ・シンフォニー管楽ソロイスツ 1996年 ※Tribensee編曲(20曲) |
CD [CAMPANELIA Musica C 130076] (7) t=1'29, (16) t=1'23 ズュス (hp), シュトル (cb) 1998年 |
アリア「私の安らぎは彼女にかかって」 K.540a"Dalla sua pace la mia dipende"〔編成〕 T, fl, 2 ob, 2 hr, 2 fg, 2 vn, va, vc, bs 〔作曲〕 1788年4月24日 ウィーン |
『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン公演に際して、追加されたアリア11番(ドン・オッターヴィオ)。 オペラのウィーン公演(5月7日)の際、オッターヴィオ役のモレラ Francesco Morella のために1788年4月24日に作曲。 彼は、第21曲が難しいので代替えを作るようモーツァルトに求め、その結果、第21曲をやめて、この曲が第11曲として第14場のあとに挿入された。 しかし両方のアリアを歌うことも可能であり、その結果「プラハ稿」と「ウィーン稿」の混合体が上演されるようになった。
あとから作曲したアリアをこのオペラの別の箇所に置くというモーツァルトの変った決断のおかげで、1回の上演でふたつのアリアを歌うことが可能になった。 この方法はまもなくあらゆる劇場で行なわれ、今日では例外なく両方のアリアが歌われるようになった。 そしてこの方法が適切であることも実際に証明されている。それに対して新全集の校訂者プラートとレームはこの勝手な混合体の上演を厳しく批判している。[チャンパイ&ホラント] p.38
〔演奏〕
CD [クラウン CRCC-10] t=4'03 山下和仁, 尚子 (g) 1991年 ※ギター編曲 |
〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=pvCdLmxApXc] t=4'08 Plácido Domingo (T) 1993年、コペンハーゲン |
二重唱「この小さな手に免じて」 K.540b"Per queste tue manine"〔編成〕 S, Bs, 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 vn, 2 va, vc, bs 〔作曲〕 1788年4月28日 ウィーン |
『ドン・ジョヴァンニ』の5月7日のウィーン公演に際して、ツェルリーナ役のモムベッリ夫人(Luisa Laschi-Mombelli, 1760-90頃)とレポレロ役のベヌッチのために追加された二重唱。 上の理由で第21曲がなくなったので、かわりにこの曲が挿入された。 ただし筋書きの流れには合わなくなったらしい。 なお、モムベッリ夫人の妊娠により、6月16日からはかわってタイバー(Terese Teyber, 1760-1830)が歌った。 今日の『ドン・ジョヴァンニ』上演では、この追加二重唱はほとんど演奏されない。
〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=OMMCrPVM-F8] t=3'25 Barbara Bonney (S, Zerlina), Gilles Cachemaille (Br, Leporello) |
レチタティーヴォ「何というひどいことを」とアリア「あの恩知らずが私を裏切った」 K.540c"In quali eccessi. Mi tradi quell'alma ingrata"〔編成〕 S, fl, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 vn, vc, bs 〔作曲〕 1788年4月30日 ウィーン |
『ドン・ジョヴァンニ』のウィーン公演に際して、ドンナ・エルヴィラ役のカテリーナ・カヴァリエリのために追加された。 カヴァリエリはすぐれたプリマ・ドンナであったため、彼女の技量に合わせて追加された。 ただし、上の曲の次に歌われることから、ドラマの流れにはそぐわないようである。 そのせいか、今日の『ドン・ジョヴァンニ』上演では、この追加アリアはまったく演奏されない。
〔演奏〕
CD [EMI TOCE-6819] t=3'46 ユーイング (S) 1984年 |
CD [POCA-1132] t=5'50 オッター (MS) 1995年 |
〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=NYJzQh7vLoY] t=6'24 Kiri Te Kanawa (S) 1988年7月、ロンドン |
〔参考文献〕
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