Silbermann |
ジルバーマン兄弟はドイツ中部のザクセン出身で、オルガンとチェンバロの優れた製作者であった。
兄アンドレアス(Andreas, 1678-1734)はストラスブールに工房を構えていた。
弟ゴットフリート(Gottfried, 1683-1753)は兄の元で修業した後、ザクセンのフライベルクに工房を開いた。
アンドレアスの息子ヨハン・ハインリヒ(Johann Heinrich, 1722-99)はゴットフリートの工法を引き継いだ。
現代のピアノは、その昔、クリストーフォリに始まり、ジルバーマンを経て、一方はイギリスのシューディやブロードウッドに受け継がれ、「イギリス式アクション」という機能(イギリス式メカニック)を生み出した。
それはさらに19世紀前半、エラールによって改良され、現代のピアノのアクションにつながる。
他方、ジルバーマンからドイツでは、モーツァルトの手紙にあるような「エスケープメント・アクション」といわれる機能(ドイツ式メカニック)が生み出され、その代表的な製作者がシュタインだった。
Johann Andreas Stein1728 - 1792 |
南ドイツ、シュヴァーベン地方の町アウクスブルクのクラヴィア製作者。
まず、1748〜49年、ヨハン・アンドレアス・ジルバーマンの工房でオルガン製作を、またレーゲンスブルクのフランツ・ヤーコフ・シュベートの工房ではチェンバロ製作を学んだ。 モーツァルトの父レオポルトの故郷アウクスブルクでクラヴィア製作をし始めたのは1751年といわれる。レオポルトは旅行用のクラヴィコードを彼から買い求めている。 やがて彼はモーツァルトが1777年10月17日、父に宛てた手紙で述べているように、優れたフォルテピアノを作り出す。
モーツァルトは1777年、母と二人で就職旅行に出かけたとき、アウクスブルクに寄ってシュタインのフォルテピアノを知る。 その優れた性能に驚き、新たな霊感を得て、ピアノ曲を作るようになった。
1778〜83年頃「ウィーン式アクション」と呼ばれる仕組みのフォルテピアノを完成した。
シュタインの娘ナネッテは、ウィーンのクラヴィア製作者シュトライヒャーと結婚し、彼女自身もクラヴィア製作をし、のちにグラーフなどとともに、ウィーンのフォルテピアノ製作において重要な役割を果たす。
シュタインの忠実なコピー(レプリカ)は、1978年ブリュッセルのクロード・ケレコムによって作られている。
Gabriel Anton Walter1752 - 1826 |
南ドイツ・シュワーベン地方の出身。ウィーンに出て、優れたピアノ製作家になった。
1790年頃、宮廷付き製作家として、14人の職人を抱える大家となった。
右はヴァルター作(モーツァルトが1782年頃に買った中古品)のフォルテピアノ。
ヴァルターはモーツァルトの注文により、そのピアノの下に置く足鍵盤ピアノを作った。
> 1785年3月10日の演奏会
モーツァルトの死後、1809〜10年頃、ヴァルターが大幅に手直した後、ミラノに住むカール・トーマスに送られた。 1856年に息子カール・トーマスはモーツァルテウムに寄贈し、それから「モーツァルトの生家」(ザルツブルク、ゲトライデ通り9番地。現在は「モーツァルト美術博物館」になっている)の「モーツァルトが生まれた部屋」に置かれてある。
写真の壁には有名な絵がかかっている。左がヨーゼフ・ランゲによる未完の肖像画(1789年、ウィーン)であり、右はピエトロ・アントニオ・ロレンツォーニ作の「レオポルト」(1765年頃)。
そのほかにもこの美術博物館には、家族の肖像画が展示されてあるという。
Ferdinand Hofmann1756 - 1829 |
シュタイン式アクションを備えたフォルテピアノをウィーンで作っていた。 その音色は群を抜いて美しく、「シュタインのよりは力強くしかも柔らかくて広がりがあり、ヴァルターよりは軽やか」であるという。 当時のウィーンで著名なピアノ製作者。
1808年、ウィーンのオルガン・ピアノ製作者協会の会長になる。