Mozart con grazia > 母と姉 |
母マリア・アンナ 1720 - 1778 |
姉ナンネル 1751 - 1829 |
Maria Anna Mozart1720年12月25日 - 1778年7月3日 |
上は1770年頃の肖像画。
■誕生 1720年12月25日
ザルツブルクから約30キロ離れた小さな村ザンクト・ギルゲン St Gilgen の管理官ヴォルフガング・ニクラウス・ペルトゥル(Wolfgang Nikolaus Pertl, 1667-1724)とエヴァ・ロジナ・バルバラ・アルトマン(Eva Rosina Babara Altmann, 1681-1756)の子として生まれた。 4才のとき父を失い、母とザルツブルクに移り住んでいた。
ザンクト・ギルゲンにある生家には、その後1784-1801年に娘ナンネルが地方管理官の夫とともに暮した。 そして1983年からモーツァルト記念館になった。 壁には母アンナ・マリアと娘ナンネルのレリーフが掛けられているという。
■結婚 1747年11月21日
レオポルトと結婚。几帳面で努力家のレオポルトに対して、アンナ・マリアは快活で楽天的。 素朴な庶民性と冗談好きなところがヴォルフガングに引き継がれたようだ。 後にレオポルトが感慨を込めて振り返っているが、二人の結婚は幸せだった。 7人の子供(3男4女)が生まれたが、生き延びたのは、4子マリア・アンナ(通称ナンネル)と末っ子ヴォルフガングの2人だけ。
父 レオポルト 1719*------------------------*1787 Johann Georg Leopold Mozart 母 アンナ・マリア 1720*---------------------*1778 Maria Anna [Pertl] (1)男 ヨハン・ヨアヒム 1748*1749 Johann Leopold Joachim (2)女 マリア・アンナ 1749* Maria Anna Cordula (3)女 マリア・アンナ 1750* Maria Anna Nepomucena Walpurgis (4)女 ナンネル 1751*------------------------------*1829 Maria Anna Walburga Ignatia (5)男 ヨハン・カール 1752*1753 Johann Karl Amadeus (6)女 マリア・フランチスカ 1754* Maria Crescentia Francisca de Paula (7)男 ヴォルフガング 1756*-------------*1791 Johann Chrysostom Wolfgang Amadeus |
H.C.Robbins Landon ed. "The Mozart Compendium", pp.36-37, Thames and Hudson 1996 |
■死 1778年7月3日
詳しい経緯は編者には不明だが、取り壊されることなく、現在(2000年現在)は夜間にライトアップされるなどして保存されている。 ルネサンス後期の様式による貴重な建築物だけに喜ばしい。
■死後
1780年暮れから翌年にかけて、モーツァルト一家をザルツブルクの画家ヨハン・ネポムク・デラ・クローチェ(Johann Nepomuk della Croce)が描いた有名な絵がある。
このとき、レオポルト61才、ヴォルフガング24才、ナンネル29才ということになる。 もちろん2年前にパリで客死したアンナ・マリアは壁に肖像画として収まっている。 さらにこのとき、ウォルフガングもザルツブルクにいなかったので、クローチェは別の絵から写したと思われる。 なお、この絵のモデルになるために、ナンネルはザルツブルク宮廷侍従長フォン・メルクの小間使いに髪の毛を縮らせてもらったという。
この絵はザルツブルクのマカルト広場(当時は「ハンニバル広場」)に面した住居(通称「タンツマイスターハウス」、右の写真)の2階にある部屋「タンツマイスターザール」の壁にかかっている。
Maria Anna Walburga Ignatia Mozart1751年7月31日 - 1829年10月29日 |
姉ナンネルも早熟した才能を見せた。弟ヴォルフガングとともに父レオポルトに連れられて、ヨーロッパ各地で見事な演奏を披露した。 しかし神童を弟にもった姉ナンネルは、やがてモーツァルト一家がその神童のためにすべてを犠牲にしていく中で、幸福にはいかなかった。 周囲の目は否応なく弟の方へ向いていき、姉は忘れ去られていく。
右は11歳のとき、マリア・テレージア女帝に招かれ、宮中の礼装を贈られた。
■結婚 1784年8月23日
フランツ・ディッポルト(1730-90、ザルツブルクの宮廷陸軍参事官。21歳も年上)からの求婚を断り、彼女はザンクト・ギルゲン(母アンナ・マリアの生まれ故郷、ザルツブルクから30キロ離れた小さな町。 そばにザンクト・ヴォルフガングという名の湖がある)の地方貴族ベルヒトルト・フォン・ゾンネンブルク Johann Baptist Franz Berchtold zu Sonnenburg(1736-1801)と結婚。 この男はすでに2人の先妻と死別し、5人の子供を持ち、ナンネルよりも15歳も年上だった。 そしてこの結婚は幸福とは言えなかった。
弟ヴォルフガングは姉の結婚式に行かなかった。 父レオポルトは結婚式に参列した後、ひとり8月28日ザルツブルクの誰もいない家に戻った。 そこはかつて一家4人で楽しい団らんの時を過ごした広い借家だった。
1784年9月3日 ザルツブルク (父からナンネルへ)父レオポルトは妻アンナ・マリアを失ってから、それまでの2人の子供(ナンネルとヴォルフガング)に対する愛情のかけ方を徐々に変えてきた。 それに応えるように娘ナンネルも、老いていく父を親身になって世話している。
私は今たった一人、本当の死の静寂の中で、8つの部屋に囲まれている。 昼間はなんでもないが、この手紙を書いている夜はかなり寂しいものだ。
ナンネルは1784年にフォン・ゾンネンブルクと結婚したのち、3人の子供(Leopold Alois Pantaleon 1785-1840, Johanna 1789-1805, Marie Babette 1790-91)を産み、1801年までザンクト・ギルゲンにある母アンナ・マリアの生家で暮した。
1801年、ナンネルは50歳で未亡人となり、その後20年間ザルツブルクでピアノ教師として暮し、失明して9年後の1829年10月29日に78歳で死んだ。 墓はザルツブルクの聖ペテロ教会の墓地にある。
1823年(72歳)のとき、父親思いのナンネルは遺言状に「聖セバスティアン教会の墓地にある父親の墓に埋葬されること」を望んだが、コンスタンツェが1826年に没した夫ニッセンをそこに埋葬し、さらに自分の血縁のウェーバー家にまでその墓を提供したことから、この侮辱的な仕打ちを憎み、遺言にその願いを破棄することを追加した。
聖ペテロ教会は1783年10月26日に弟ヴォルフガングが新妻コンスタンツェを伴って帰郷したときミサ曲「ハ短調」K.427を指揮した所である。 ナンネルは生前ここに自分の墓を確保した。
弟ヴォルフガングの死後、日に日に高まるモーツァルトの名声と共に、その伝記の貴重な資料としてナンネルの証言が求められることが多くなった。 1792年、ナンネルはシャハトナーに弟ヴォルフガングの子供時代の回想を求めた。
ナンネルの死の3ヶ月前、イギリスの音楽出版者ノヴェロが妻を伴って、やせ細った彼女を訪ねている。 彼らは「モーツァルト巡礼」を計画し、ザルツブルクを訪ねたのだった。 そのとき案内したのはフランツ・クサヴァーだという。 ノヴェロ夫妻はその後ウィーンへ行き、アロイジアにも会っている。
ザンクト・ギルゲンの家は1983年から「モーツァルト記念館」となった。壁には、母と娘ふたりだけのレリーフがある。