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ピアノ協奏曲 第14番 変ホ長調 K.449

  1. Allegro vivace 変ホ長調 3/4 協奏風ソナタ形式
  2. Andantino 変ロ長調 2/4 三部形式
  3. Allegro ma non troppo 変ホ長調 2/2 ロンド形式
〔編成〕 p, 2 vn, va, bs, (2 ob, 2 hr 任意に)
〔作曲〕 1784年2月9日 ウィーン
1784年2月






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ウィーンで独立し、ピアノ教師として生活費を稼ぎながら、自分を売り込むために自作の演奏発表会を始めていた頃の作品。 これは、その予約演奏会のためであると同時に、弟子のピアニスト、バルバラ・プロイヤー嬢(19歳)のために作曲。 また、この曲から作品を完成すると自分で記録を書き残すようになった。 その自作目録第1番の作品として知られている。
モーツァルトは自分の作品からいかに利益をあげるか真剣に考え始めていたが、みずからが興行師となって予約演奏会を開くことが一番であること、そのためには自分の作品をしっかり管理することが大切であるとの認識に達したものとみられる。 楽譜の売れ行きは悪く、また最大の収入を得ることができるオペラを作曲する機会にも恵まれず、安定した収入源はピアノ教師としての稼ぎだけだったので、自作の予約演奏会に活路を見出そうとしたのである。

しかし宮廷劇場を使って個人の収益のための演奏会を開くのには、競争相手も多く、日程の空きも限られており、1年1回程度の使用しか望めなかった。  (中略)  彼は自分のソロと小型オーケストラのための演奏会シリーズを毛色の変った場所でやることを思いついた。 たとえばトラットナーホフであり、メールグルーベであった。  (中略)  1784年にはモーツァルトはトラットナーホフで3回のコンサートを開き、翌1785年にはメールグルーベで6回のコンサートのシリーズを開催している。  (中略)  自分で作曲し演奏するコンサートを、公開の場でこれほど多く行ったというのは、ウィーンではまず前例がなかった。
[ソロモン] pp.455-456
こうして彼は時代に先駆けて新しい音楽ビジネスのシステムをウィーンで精力的に切り開いていったのである。 1784年2月20日、彼はザルツブルクの父へ「さしあたって、すぐお金になる仕事をしています」と書いている。 彼は演奏活動で多忙を極めていた。 すなわち自分自身を「目一杯酷使していた」のであるが
その一方で、例によって、いくら酷使されても尽きることのない創造能力を発揮するのだった。  (中略)  1782~83年のシーズンに始まって85~86年のシーズンまで、計4年にわたる期間に、毎年3曲から4曲のピアノ協奏曲を書きおろすと同時に旧作に手を入れたりもした。
同書
このような状況の中で、この曲は「1784年2月9日」という日付で自作目録に記録されたが、タイソンの五線紙研究によれば、1782年の3曲の「ウィーン協奏曲」(第12番イ長調K.414、第11番ヘ長調K.413、第13番ハ長調K.415)と同じ時期に書き始められたが、第1楽章の170小節で作曲が中断され、その後1783年11月以降、新しい五線紙を使って続きが書かれ、そして自作目録に上記日付で記入されたものと推定されている。 管楽器なしでも演奏できるようになっていることも、これらの曲に共通するものである。
2月20日、モーツァルトは出来立てのこの曲(総譜)をザルツブルクの父に送っているが、「写譜してもいいけれど、できるだけ早く送り返してください」と頼み、
でも、注意、ひとには決して渡さないでくださいね。 だって、ぼくはそれをプロイヤー嬢のために書いたので、彼女はぼくにたっぷりと支払ってくれたのですから。
[書簡全集 V] p.452
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と念を押している。 そして初演は3月17日にトラットナー邸で行われ、そのときの発表が好評だったことを父に書いている。
3月20日
今月17日の最初の発表会は、うまく行きました。 広間はぎっしり一杯でした。 そして私が弾いた新しい協奏曲は非常に喜ばれ、どこへ行ってもこの発表会を誉めているのが聞かれます。
[手紙(下)] p.100
さらに3月23日には、プロイヤー邸での音楽会で当のバルバラ・プロイヤー嬢がこの曲を演奏した。

こうして始まったモーツァルトの予約演奏会は4月までの間に予定では5回も頻繁に催されることになり、しかも多くの貴族たちが予約(3回の個人演奏会で6グルデン)に応じてくれたことで彼の創作意欲がますます高まり、同時に自作の管理について真剣に考えるようになった。 この間予約演奏会のほかにもガリツィン公爵、エステルハージー伯爵などの貴族の邸宅でのサロン・コンサートが少なくとも18回も開かれたようである。 彼の予約演奏会の日程と、自作目録に記録された作品を並べて見ると、ピアノ曲の新作が矢継ぎ早に書き上げてゆかれたことがよくわかる。

どの演奏会も聴衆に大満足を与えることができたので、モーツァルトは父に次のように誇らしく伝えることができた。
4月10日
こんなに長い間御無沙汰したことを、どうぞ怒らないでください。 でも、ぼくが最近どんなに忙しいか、御存知ですね! 3つの予約演奏会で、ぼくはたいへんな名声を得ました。 劇場でのコンサートも非常に好評でした。 2つの大きな協奏曲を作曲しました。 それから五重奏曲を1曲書いたのですが、これは異常に受けました。
[書簡全集 V] p.495
この頃、何があったのかわからないが、モーツァルトと父レオポルトの間に(さらに姉ナンネルとコンスタンツェも含めた間に?)ぎくしゃくした不穏な雰囲気が生じたようである。 あるいは以前からあった不協和音が増大したということだったのか。 モーツァルトは父に書いている。
5月15日
ぼくはあなたがどんなことを考えていたのか、そしてなにを手紙に書こうとしなかったのか知りません。 そこで、あらゆる不愉快なことを避けるために、最近ぼくの書いた新曲を全部、ここに同封して送ります。
[書簡全集 V] p.505
新曲とは「交響曲第36番ハ長調」(通称『リンツ』K.425)と4曲のピアノ協奏曲(第14番変ホ長調K.449、第15番変ロ長調K.450、第16番ニ長調K.451、第17番ト長調K.453)である。 ピアノ協奏曲は自分の演奏会用の重要な財産なので、ここでもモーツァルトはしっかりと念を押している。
シンフォニーについては気むずかしく考えていませんが、4曲の協奏曲については(家で、あなたのそばで写譜をしてもらうよう)お願いします。 ザルツブルクの写譜屋は、ヴィーンよりも信用できませんからね。
また、この手紙では、「第14番変ホ長調K.449はオーボエとホルンの管楽器なしのピアノ五重奏曲としても演奏できる」ことと「第14番変ホ長調K.449と第17番ト長調K.453の2曲はプロイヤー嬢のために書いた」ことを明らかにしている。 さらに5月26日の手紙では、「変ホ長調K.449は他の3曲(変ロ長調K.450、ニ長調K.451、ト長調K.453)とは別種」であり、「大編成よりは小編成のオーケストラのために書かれている」と伝えている。

自筆譜はベルリン国立図書館(Deutsche Staatsbibl.)にあったが、その後一時不明となり、現在はポーランドのクラクフに残されている。 またチュービンゲン大学図書館に第1楽章のためのカデンツァがある。

余談であるが、この曲には謎のような落書き「4つの記号C□○△の上下をカッコで囲んだもの」があり、これについて次のような解説がある。

最近フランスの研究家フィリップ・A・オートグジェがフリーメイスンとモーツァルトについて詳細な研究をしている。 その中で彼はモーツァルトがピアノ協奏曲変ホ長調 K.449 の中に記入している落書きについて興味深いことを述べている。
 C=ハ長調あるいはハ短調。 各種の調を渡り歩いてそこに立帰る。
 □=ヘ長調。 長方形には4つの角がある。 音楽上のアルファベットの第4音はF、すなわちヘ長調。 (フリーメイスンでは支部の記号)
 ○=変ロ長調。 2番目の調B。 ドイツ語のB、Band(絆)の頭文字。
  • [シャイエ]
    ジャック・シャイエ 「魔笛、秘教オペラ」 高橋英郎&藤井康生訳、白水社 (フリーメイスンの団結の絆)
  •  △=変ホ長調。 デルタのそれぞれの頂点にフラットを配した調号。 (フリーメイスンでは「てこ」のシンボル)
    これらを上下で囲むカッコは、上記の調性の結合のシンボル。 即ちフリーメイスンの音楽は変ホ長調〜ハ調を軸とした五度音程の循環の中に描かれる。
    野口秀夫(1991年1月)CD[カメラータ・トウキョウ 32CM-174]
    モーツァルトがウィーンで今までにない音楽家としての境地を切り開いて行こうと決意したとき、その最初の作品を変ホ長調で書いたことには何かこのようなフリーメーソンとの関係を深いところで意識していたのだろうか。 彼がウィーンのロッジ「善行に Zur Wohlthätigkeit」に入会が認められるのは、この年の12月14日である。 最初の階級は第1位階の「従弟位階」。 このロッジは前年2月2日にゲミンゲン男爵(29歳)によって結成されたもので、彼にはモーツァルトは1777〜78年にマンハイムで世話になっていた。 ゲミンゲン男爵は1778年からウィーンに移住していて、ウィーンにやって来たモーツァルトに結社への加入を勧めていたと思われる。 ただしスヴィーテン男爵(50歳)もフリーメーソン結社員であり、さかぼるとモーツァルトとフリーメーソンとの接点はそれまでに何度もあったことで、シャイエが言うように「モーツァルトのフリーメイスン結社への加入は、突発事件ではなく、長きにわたって辿られた道程の帰着点」だった。

    〔演奏〕
    CD [SONY SMK 58984] t=23'43
    イストミン (p), カザルス指揮 Perpignan Festival O
    1951年7月
    CD [POCL-4395] t=20'45
    グルダ (p), コリンズ指揮ロンドンSO
    1955年頃
    CD [EMI CE28-5303] t=23'24
    バレンボイム (p) 指揮、イギリスCO
    1968年3月
    CD [TELDEC WPCS-10101] t=20'56
    エンゲル (p), ハーガー指揮ザルツブルク・モーツァルテウム
    1974年
    CD [ARCHIV 413 463-2] t=20'39
    ビルソン (fp), イギリス・バロック・ソロイスツ
    1983年、ロンドン
    CD [ポリドール F32L-20275] t=23'35
    アシュケナージ (p) 指揮、フィルハーモニアO
    1986年4月、ロンドン Walthamstow Assembly Hall
    ※1780年頃のウィーンのヴァルター製フォルテピアノのコピー、1977年ベルト製
    CD [PHILIPS 422 359-2] t=22'10
    内田光子 (p), テイト指揮イギリスCO
    1988年5月、ロンドン

    〔動画〕

    〔参考文献〕


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    2014/05/18
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