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セレナード 第10番 変ロ長調 「グランパルティータ」 K.361 (370a)
〔作曲〕 1781年または1783~1784年? ウィーン |
「13管楽器のためのセレナーデ」とも呼ばれる。 自筆譜はワシントンの国会図書館が所蔵。 楽器編成で低音楽器としてコントラバスが書かれてあり、ときおりピッツィカートの指示が見られ明らかに弦楽器による演奏が想定されている。 その意味では「13管楽器の」という呼び方は正確でないかもしれないが、コントラバスの代わりにコントラファゴットで演奏することも多いので、目くじら立てるほどのことではない。 また、自筆譜の表紙には別人の手で1780年と表題「大組曲(グラン・パルティータ Gran Partita)」が書き込まれているという。 どちらの呼称もモーツァルト自身がつけたものではないが、この曲の大規模な楽器編成をイメージする『グラン・パルティータ』というタイトルでよく呼ばれている。
これだけの大曲でありながら、残念ながら作曲の動機や時期は不明である。 自筆譜には別人の手で1780年と書かれているが、アインシュタインは次のように推測していた。
1781年の初頭、『イドメネオ』(K.366)上演の頃ミュンヘンで書きはじめ、ヴィーンで完成した。 ザルツブルクでの不快な状態から脱れようと懸命だった時期である。 おそらく、作曲の際には、特別の作品によってもう一度カルル・テーオドールに取り入ろうという気持ちから、ミュンヘンのすぐれた管楽器奏者のことを考えていたのであろう。 ヴィーンに13人の管楽器奏者が集まったことがあるかどうかに関しては、なんの報告もない。この説は完全に否定されてはいないが、様式的には早すぎるとして退けられ、新全集では1783年末か1784年初めの成立としている。 ただし、タイソンによれば1782年の可能性があるという。 ザルツブルク時代にモーツァルトが書いたセレナードやディヴェルティメントの多くは[アインシュタイン] pp.282-283
メヌエット楽章を複数含み、目的も多様であれば、またその曲調も多様であった。 しかしいずれも祝典、祝賀、祝宴といった機会に、しかも戸外で、夜の時間に演奏されることが多く、ひたすらかろやかで、ひたすらに明るく、同時代の音楽辞典が指摘しているように、形式構造上、かなり単純明快なものであった。しかしウィーンに移住してから、これらの音楽はモーツァルトの中で一変する。 何かのお祝いのためにセレナードやディヴェルティメントの種類の音楽を演奏する機会がなくなり、そのような音楽の注文を受けることがちょうどこの時期になくなってきたという時代背景がある。 モーツァルトの場合、その種のセレナードは、宮廷画家のヒッケルの義妹テレーゼのために、聖テレジアの日(1781年10月15日)に作曲された「変ホ長調 K.375」が最後になる。 その後には、作曲の動機も目的もまったく知られていない不思議な2曲の「ナハトムジーク」が書かれるだけとなる。[海老沢] p.190
セレナード変ホ長調K.375の多くの楽章が、命名のお祝い日の曲にしては驚くほど真面目に過ぎると考える人がいるとすれば、モーツァルトの最後の管楽バンドのための曲であるハ短調のセレナードK.388の厳しさは、一体どうなるのだろう。 全くのところ、これほど非祝祭的な音楽もないのではあるまいか。この「グランパルティータ」は「変ホ長調 K.375」の前後に位置し、2つのメヌエットをもち、「モーツァルトの偉大な管楽創作の時代を締めくくるのにふさわしい作品」(ロバート・レヴィン)であるが、いつ何のために書かれたのか謎である。 1784年8月23日に姉ナンネルは結婚するが、なぜかそれを境にモーツァルトからザルツブルクの父への手紙が激減するので、その後の手がかりを書簡から得ることがむずかしくなる。 しかし、この曲はその前に作曲されているにもかかわらず、しかも演奏時間が1時間近くにも達するほどの大曲にもかかわらず、作曲の動機をうかがわせることを書いた手紙がないのである。 もしかしたらこのときに演奏されたかもしれないとして推測された最初の機会はモーツァルト自身の結婚(1782年8月4日)であろう。 これだけの大曲を祝賀用に使うとすれば絶好の機会である。 披露宴がヴァルトシュテッテン男爵夫人邸で「夜食は王侯にふさわしく」催されたのである。 しかもコンスタンツェとの結婚は父の意に反するものであったから、この曲について事前に報告するのをひかえていたと考えるのも自然である。 そもそもこの説は、モーツァルトが結婚披露宴の様子を父に伝える手紙(1782年8月7日)に
(中略)
彼の、管楽器のセレナードへの告別にしては驚くべきものである。 しかし、こんな形でモーツァルトのセレナードがすべて終ったわけではない。 この暗い、不安な予兆のようなハ短調のセレナードで、当時の人々にショックを与えたあと、モーツァルトは数年後に、古今のあらゆるセレナードの中で最も偉大な作品『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』(K.525)を生み出すことになる。 これは息を呑むような美しさと、高い完成度を持つ珠玉の作品である。[ランドン] pp.47-48
夜食の間、ぼくは自分が作曲した16声部の管楽合奏曲が演奏されたのにびっくりしましたと書かれていたというニッセンによる伝記が根拠になっていた。 ところがこの説は疑わしいとして退けられることになった。 根拠となった上の一節そのものが手紙にないからであり、モーツァルトの作品に「16声部の管楽合奏曲」はないからである。 おそらくニッセンはコンスタンツェのあいまいな記憶をもとにこの記述を伝記に追加したのだろう。 あいまいな記憶とはいいながら、もし「13声部の」と書いていたなら、これが決め手となって定説となったのだろうか。
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もう一つの説は、1784年3月23日、アントン・シュタドラーの音楽会のために書いたというものである。
1784年3月23日、『ヴィーン地方新聞』このときの演奏を台本作家シンク(Johann Friedrich Schink, 1755-1835)が聴いた次の記録があるという。
本日、皇王室国民劇場において、皇帝陛下に奉職中の兄のシュタードラー氏は氏自身の義損興行のために音楽会を催すが、そこでは良く選び抜かれた作品のなかから、モーツァルト氏の作曲になる、特別なジャンルの大吹奏楽曲が演奏される。[書簡全集 V] p.492
この『変ロ長調セレナード』の4つの楽章が、ヴィーンの宮廷劇場でシュタードラーと他の12人の奏者によって初演された。 この演奏については『ヴィーナー・ブレットヒェン』紙に告知されており、ヨハン・フリードリヒ・シンクは大いに感心してこれを記録に留めた。 演奏会を聴いたシンクは、彼の『回想録』において、シュタードラーの演奏とモーツァルトの作品に対する喜びと賞賛の気持ちを記したのである。『ヴィーン地方新聞(ヴィーナー・ブレットヒェン)』にある「特別なジャンルの大吹奏楽曲」が「13管楽器のためのセレナーデ」を連想させ、さらにシンクの記録の「シュタードラーと他の12人の奏者」が決定的な証拠と思われるが、しかし当の「グラン・パルティータ」の成立について異説があるため、この「1784年3月上演」説も決定的とは言えないようである。 そのとき演奏されたのは、セレナード「変ホ長調 K.375」または「ハ短調 K.388」ではないかともいわれている。 ちょうど1784年2月からモーツァルトは「自作目録」を作り始めているが、この曲の記載はないので、その前に作曲されたものと思われる。[全作品事典] p.313
この曲ではクラリネットが中心的な役割をもっていて、それは名手アントン・シュタドラーによる演奏を想定したものだろう。
作品の直接的な魔力は、単なる音響そのものから発する。 それはトゥッティと独奏とのたえまない交替であり、独奏の役は大体において2つのクラリネットに与えられている。 クラリネットとバセットホルンの四重奏、低音を支えるコントラバスの上をゆくオーボエ、バセットホルン、ファゴットの六重奏などの新しい組合せの饗演がある。しかし、ほかのどの楽器も自分を際立たせることができ、次のように続けている。[アインシュタイン] p.283
すべての響きの『交錯』があるが、ことに第1楽章の展開部においていちじるしい。 どの楽器も本来的なコンチェルタントに奏されることはないが、一つ一つが自分で際立たせることができ、またそうしようと欲している。 モーツァルトのオペラ・ブッファで各人物がその性格を保持するように、楽器一つ一つが自己の性格を保持する。 オーボエはその牧歌的な歌うような性質を、ファゴットはその歌うような性質のほかに(鵞鳥の鳴くような三連音符においては)その滑稽味を保持する。
初版は1803年にウィーンで印刷され、当時(1794~1806年の間)ウィーン宮廷劇場副監督だったペーター・フォン・ブラウン(Peter von Braun, 1758-1819)に献呈された。 彼はピアノ奏者兼作曲家でもあった。 モーツァルトは1781年ミュンヘンで『イドメネオ』(K.366)を初演したのち、女帝マリア・テレジアの葬儀のためウィーンに滞在していた大司教の命令に応じてミュンヘンをたちウィーンへ向った。 そこでモーツァルトはついに独立することになるが、到着するとすぐに演奏会を開始している。 そのパトロンとなった貴族の一人に宮中顧問官フォン・ブラウン(Johann Gottlieb von Braun, 1727-88)がいて、ピアノの熱心な愛好家だった。
1781年3月24日このときブラウンは54歳、そしてペーターは彼の息子(23歳)だった。
今夜は、フォン・クラインマイヤー氏と一緒に、その親友の一人の宮中顧問官ブラウンのところに行きます。 みんなの話では、ブラウンはクラヴィーアの実に熱烈な愛好家だということです。[書簡全集 V] p.18
8重奏(2 ob, 2 cl, 2 hr, 2 fg)編曲版 K.Anh.182 や、第4〜6楽章を除いた編曲版「弦楽五重奏曲 変ロ長調 K.46」もある。 「弦楽五重奏曲」は偽作とされているが、「8重奏編曲版」についてはアインシュタインは「この動機はおそらくモーツァルト自身から発したものと見てまちがいないであろう」と言っている。 また、第6楽章「主題と6つの変奏曲」は「フルート四重奏曲第3番ハ長調」(K.285b / Anh.171)と関連がある。
〔演奏〕
CD [MVCW-19016] t=47'11 ウィーン・フィル木管グループ Vienna Philharmonic Wind Group 1953年、ウィーン、Mozartsaal, Konzerthaus |
CD [KICC-2166] t=37'02 ストコフスキ指揮アメリカ交響楽団木管グループ 1966年 |
CD [PHILIPS PHCP-9159/60] t=49'00 デ・ワールト指揮 Edo de Waart (cond), オランダ管楽アンサンブル Netherlands Wind Ensembre 1968年11月、オランダ |
CD [Deutsche Grammophon 431 273-2] t=50'52 オルフェウス室内管弦楽団 Orpheus Chamber Orchestra 1986年12月、ニューヨーク |
CD [ACCENT ACC 68642 D] t=50'00 クイケン指揮 OCTOPHOROS 1986年 |
CD [NAXOS 15FR-013] t=51'28 アマデウス木管アンサンブル Amadeus Wind Ensembre 演奏年不明 |
〔演奏〕 一部
CD [UCCG-9143] (6) t=10'31 ベルリン・フィル管楽アンサンブル 1980年 |
CD [EMI classics CDC 5 55155 2] (3) t=5'24 マイヤー (cl), マイヤー・ブラス・アンサンブル 1990年 |
CD [PHCP-11026] (3) t=5'03 ; 編曲 ストーリー (keyboards), 他 1995年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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