Mozart con grazia > ピアノ変奏曲 >
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グルックの主題によるピアノのための10の変奏曲 ト長調 K.455

〔作曲〕 1784年8月25日 ウィーン
1783年3月





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自作目録の第7番に「1784年8月25日」付けで記載されているが、この曲の成立はもっと早いことが知られている。 すなわち、前年の1783年3月23日、モーツァルトの演奏会が皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとに行われ、かつて例を見ないほどの大成功であったことが父レオポルトに送った手紙や当時の出版物によって知られているが、そのとき客席にいたグルック(当時69歳)を前に、彼の曲を主題にした変奏曲を即興演奏して敬意を表したものである。

1783年3月29日、ウィーンからザルツブルクの父へ
ぼくの独奏で小さなフーガ(皇帝がいたので)と、『哲学者たち』というオペラのアリアによる変奏曲、これはもう一度アンコールしなくてはなりませんでした。 それに『メッカの巡礼たち』から「愚民の思うは」の主題による変奏曲。
[書簡全集 V] p.352
ウィーンで次第に人気が出てきたモーツァルトに対して、嫉妬から反対派が増え始めたが、長老グルックだけは常に好意的で、モーツァルトの演奏会に度々姿を見せていたという。 そこで1783年3月23日の演奏会ではそのグルックに敬意を表して、1764年に初演され、1780年にドイツ語翻訳のジングシュピールとして上演されたグルックのオペラ「思いがけない巡り会い La rancontre imprévue」(原題「メッカの巡礼者 Les Pèlerins de Mecque」)の中のアリエッタ「愚民の思いは Unser dummer Pöbel meint」を主題に即興的に変奏したのであった。 グルックは、18才も年下の妻が持っていた宮廷との縁故と、自身の控えめな性格のお陰でウィーン宮廷楽団でオペラ監督という定職を得て、1758年から64年まで9本のオペラ・コミックを書いていた。 そのうちの「思いがけない巡り会い」がドイツ語のジングシュピールに改作されて彼の生涯のヒット作になったという。

この曲は以上のような状況で成立し、また動機もそこに見ることができる。 この時期に作られたピアノのための幻想曲や変奏曲は同じような理由によるものであり、アインシュタインは

この時期は、彼の偉大なアカデミー(予約演奏会)の時代、彼のピアノ・コンチェルト、管楽器を加えた五重奏曲、偉大なヴァイオリン・ソナタの時代であった。 アンコールが必要になったときは、例えばグルックの『わが愚かなる賤民は言う』による変奏曲などのような変奏曲を即興演奏した。 右の場合は、原曲の作曲者が1783年3月11日のモーツァルトのアカデミーに来場の栄を得たおりのことである。 ときにはまたもっと自由な形式で幻想曲を即興演奏したのである。
[アインシュタイン] p.338
と説明している。
1784年8月






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1783年3月23日のブルク劇場での演奏会のあと、1784年8月25日に自作目録に記載するまでの間には、1783年7月末〜10月末、新妻コンスタンツェを伴ってザルツブルクに里帰りをしていた間を除き、モーツァルトはウィーンで何度も演奏会を開き、次々と新作を発表している。 そのようなときに、この曲を演奏する機会が何度かあったと考えるのが自然である。 完成されたものと未完のとの2種類の自筆譜が残っているということも、そのような事実を物語っていると思われる。 そして完成した曲として自筆譜を書き上げたときに、自作目録に記載したのであろう。

モーツァルトは1781年7月に「後宮からの誘拐」の作曲に着手するが、そこで東洋風の異国趣味を帯びた作品の一つとして、グルックの「メッカの巡礼たち」を十分に研究していたようである。 そして自分の作品が完成しても、グルックの他のオペラの完成が優先されることもよくわかっていた。 さまざまな事情(その中には妨害もあったが)から「後宮」の完成には1年近くかかり、1782年7月16日にブルク劇場で初演されたが、圧倒的な好評を得て上演を繰り返すことになった。 それにはグルックの支持もあったという。 その一方でモーツァルトは、老齢のグルックが死去したあと、自分が宮廷作曲家のポストを手に入れるための努力をすることを忘れていなかった。 モーツァルトは決して世間知らずの音楽オタクではなかった。

オペラ界は、陰謀、かけひき、策略、罠といった、相手をおとしめ、引きずり落とす術策を弄してやまぬ、おどろおどろしい世界であることは、今も昔も変わりない。 モーツァルトもそうした世界の只中で生きていくことになるのである。
[書簡全集 V] p.112
確かに父レオポルトが心配して目が離せないという時期もあったが、モーツァルトにはそのような世界で生き抜いていける才能を十分に持っていたようである。 むしろ逆に謹厳実直なレオポルトの方が順応できずにいた。 グルックに対しての評価は悪く、かなり否定的に見ていたことが残された手紙からわかる。 したがって、息子がグルックに(だけでなく、当時のほかの革新的な作曲家にも)近づかないことを望んでいた。 しかしモーツァルトは時代を越えた天才であり、父が望む古くさい型枠に収めきれるものではなかったことは歴史が示す通りである。 イタリア人に牛耳られている宮廷音楽界にあって、それを悔しく思う気持ちを共有していたかもしれず、グルックはモーツァルトの演奏会にはよく出かけ、作品を誉め、食事に招待してくれていたのである。 1783年3月23日の演奏会の直前には次のようなできごとがあったことをモーツァルトは父に伝えている。
義姉のランゲ夫人が劇場で演奏会を開き、ぼくも協奏曲を一曲弾きました。 劇場は大入り満員でした。 <中略> ぼくが舞台から去ったあとも、聴衆の拍手が鳴りやまないので、ぼくはもう一度ロンドーを弾かなくてはなりませんでした。 すると、まさに嵐のような拍手です。 これは3月23日の日曜日に予定しているぼくの演奏会のよい宣伝になります。 ほかに、コンセール・スピリチュエルのために書いたぼくのシンフォニーも演奏しました。 義姉は、例のアリア『私は知らぬ、このやさしい愛情がどこからやってくるのか』を歌いました。 ぼくの妻がいたランゲ夫妻の桟敷席の隣に、グルックが来ていました。 彼はぼくのシンフォニーとアリアをしきりに誉めて、次の日曜日にぼくら4人全員を昼食に招待してくれました。
[書簡全集 V] p.346
そのような親密な関係があったからこそ、皇帝ヨーゼフ2世臨席のもとに行われた3月23日の演奏会で、彼の曲を主題にした変奏曲を即興演奏して敬意を表した話につながるのである。

1785年1月28日、父レオポルトはザルツブルクをたち、ミュンヘンで友人マルチャンと合流したのちウィーンへ向かい、2月11日に到着。 それから4月25日まで息子のもとで過ごしているが、その間、彼は娘ナンネルのためにこの曲を含む3つの変奏曲を(レオポルトの私費で)写譜している。 また9月にはトレーク社からこの曲の新刊楽譜が売りに出されていて、一般市民にも広く知られていたようである。

余談であるが、1787年の5月28日に父レオポルトが、そして11月15日にグルックが他界した。 そして12月7日、グルックの死で空席となった宮廷作曲家のポストにようやくモーツァルトはたどり着いたのであった。

〔演奏〕
CD [EMI TOCE-11558] t=13'32
ギーゼキング Walter Gieseking (p)
1953年8月
CD [PHILIPS PHCP-3674] t=13'35
ヘブラー Ingrid Haebler (p)
1975年11-12月、アムステルダム・コンセルトヘボウ
CD [TKCC-15151] t=13'44
レーゼル Peter Roesel (p)
1975年、ドレスデン・ルカ教会
CD [ポリドール F32L-20266] t=14'21
シフ Andras Schiff (p)
1986年2月、ウィーン、コンツェルトハウス
CD [SYMPHONIA SY-91703] t=18'15
アルヴィーニ Laura Alvini (fp)
1990年8月
CD [TOCE-7514-16] t=15'01
バレンボイム Daniel Barenboim (p)
1991年3月
CD [MDG 301-0495-2] t=6'01
コンソルティウム・クラシクム
1994年
※6重奏曲(変奏曲)ヘ長調

〔参考文献〕

〔動画〕一例

 

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2012/07/01
Mozart con grazia