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オペラ・ブッファ「カイロの鵞鳥」 K.422Opera buffa (dramma giocoso) "L'oca del Cairo"〔編成〕 2 ob, 2 fg, 2 hr, 2 tp, 2 vn, 2 va, vc, bs 〔作曲〕 1783年7〜10月 ザルツブルクとウィーン |
未完に終ったコミック・オペラ。 ただし、残された手紙の中にはモーツァルトがオペラを仕上げるまでの考え方が具体的に書かれていて、非常に興味深い。 その意味で、モーツァルトの作曲活動を記録した貴重な作品である。
モーツァルトがこのオペラの作曲に着手する最初のきっかけは、1782年12月、劇場総監督オルシニ・ローゼンベルク伯爵(Philipp Joseph Graf Orsini-Rosenberg, 1723-96)から「イタリア語オペラを書いたらどうかね」とすすめられたことであった。 前作オペラはドイツ語ジングシュピール『後宮からの誘拐』だったが、ヨーゼフ2世が推し進めていた「ドイツ国民劇場」の方針転換が1783年に決定、イタリア語オペラがブルク劇場に戻ってきた。 オペラ作家として成功することを切望していたモーツァルトはすぐ台本探しに取りかかった。
1783年5月7日、ウィーンからザルツブルクの父へこのときすでにモーツァルトには作品の構想がおおよそできあがっていて、さらに配役についても一流の歌手をそろえるつもりでいた。
いま当地では、イタリア語のオペラ・ブッファがまた始まって、たいへんな人気を呼んでいます。 ブッフォ歌手が特に際立っています。 ベヌッチという人です。 ぼくは軽く100冊は、いやそれ以上の台本を読みましたが、それでも満足できるのはほとんどひとつもありませんでした。 少なくとも、あちこち大幅に変更しなくてはならないでしょう。 たとえ、詩人が引き受けてくれたとしても、完全に新しいものを書いたほうが、おそらく楽でしょう。 それに新しいほうが、常にいいにきまっています。[書簡全集 V] p.368
なにより大事なのは、物語全体がとてもコミックなことです。 そして、できれば対等にすばらしい二人の女役をそろえることです。 ひとりはセーリア役、もうひとりはセーリアとブッファの中間の役ですが、二人の役は重要さにおいて、まったく釣り合っていなければいけません。 でも、第三の女役はまったくの滑稽な役でいいのです。 必要ならば、男役もまったく同様です。しかし彼の構想に見合う台本は見当たらないため、手っ取り早く、新作をザルツブルクのイタリア人神父ヴァレスコ(Gianbattista Varesco)に依頼しようと考えた。 2年半前に、フランス人作家の台本をヴァレスコが編集して『イドメネオ』を仕上げた関係があったからである。 ただしヴァレスコの本職は作家ではなく、そのためモーツァルトの注文に応じきれなかったことから、二人の間の関係は気まずいものとなっていたが、今はそんなことにこだわっている暇はなかった。 ウィーンには劇場詩人ダ・ポンテがいたが、彼は仕事を山ほどかかえていて、ちょうどそのころ、サリエーリのために、まったく新しい台本に取りかかっていた。 モーツァルトはザルツブルクの父を介してヴァレスコをその気にさせようとした。
彼がサリエーリと組んでいるなら、ぼくは金輪際、彼に何も書いてもらえません。 しかし、ぼくが本当にイタリア語オペラの分野でもどんなことができるか、見せてやりたいのです。 そこで、もしヴァレスコが例のミュンヘンのオペラのことで怒っているのでなければ、7人の登場人物で新しい台本を書いてもらえないかと考えています。モーツァルトは新妻コンスタンツェを伴って、7月に郷里ザルツブルクを訪れる予定だったので、それまでにヴァレスコがやる気になってくれることを望んでいたが、6月になってもまだ父から色よい返事がなかった。
ヴァレスコと一緒に仕事ができそうなら、すぐにもその件で彼と話し合ってください。
彼の取り分は、400フローリンか500フローリンになることは確かです。 当地の慣習では、詩人はいつも上演の収益の3分の1をもらえることになっていますから。
1783年6月7日、ウィーンからザルツブルクの父へこの手紙のあと、レオポルトから、ヴァレスコが新作に取りかかる気になったこと、そしてその構想も決まったこと、しかしオペラの成功については悲観的であることがウィーンへ伝えられた。 ただしその手紙は残っていない。 モーツァルトはすぐさま追い討ちをかけている。
ヴァレスコについては、まだ何か情報はありませんか? お願いしたこと、忘れないでくださいね。 構想さえできていれば、ぼくがザルツブルクへ行ったとき、一緒にそれを練り上げることができますから。[書簡全集 V] p.377
ヴァレスコのことですが、彼の構想はとても気に入っています。 いますぐローゼンベルク伯爵と話をしなければなりません。 詩人が報酬をもらえるかどうか確認するためです。 でも、ヴァレスコ氏がオペラの成功を疑っているなんて、ぼくに対するひどい侮辱です。 ぼくが彼に断言できるのは、音楽がよくなければ、彼の台本はけっして受けないだろうということです。 どのオペラでも、もっとも重要なのはやはり音楽です。 そして、もしオペラが成功するとすれば(したがって彼が報酬をもらいたいと思うなら)、彼はぼくのために台本を変更し、ぼくが望むだけ大いになんどでも書き直して、彼自身の好みに従ってはなりません。 彼はちっとも劇場の経験や知識がないのですから。これに対してレオポルトはせっかちな息子を諫める手紙を送ったようであり、モーツァルトは「お父さんの忠告は、自戒していた」(7月5日の手紙)と伝えている。 そして7月末、モーツァルト夫妻はザルツブルクを訪問。 約3カ月滞在し、10月27日、夫妻はウィーンの帰途についた。 この間、モーツァルトとヴァレスコの二人がどのようにオペラの仕事の話をしていたのかわかっていないが、次の登場人物によるコミック劇の構想がまとまったと思われる。
ドン・ピッポ侯爵は妻ドンナ・パンテーアが死んだと思っていて、ラヴィーナに恋している。 彼は自分の娘チェリドーラをカサヴォータ伯爵と結婚させようとするが、彼女には恋人ビオンデルロがいた。 そこでチェリドーラとラヴィーナを塔に閉じ込め、ビオンデルロに1年以内にそこに行けたら認めることを約束する。 ラヴィーナに恋しているカランドリーノは、からくり鵞鳥を作り、その中にビオンデルロを隠し入れて塔へ運び入むことを考える。 数々のドタバタがあったのち、ドン・ピッポは二人の愛を許す。 しかも死んだと思っていた妻と再婚するという滑稽劇。ウィーンに戻って、モーツァルトは精力的に作曲を続け、父に「ぼくはこのごく短期間のうちにたっぷり働きました」と伝えている。
1783年12月6日、ウィーンからザルツブルクの父へ作曲を続けるうちに、モーツァルトの頭にどんどん面白いアイデアが浮かぶのだった。 彼は第2幕で「城砦の一室」の場面を提案する。
あと3つのアリアを書けば、ぼくのオペラの第1幕は出来上がります。 喜劇的アリアと、四重唱と、フィナーレについては、完全に満足していて、上演が楽しみだと言えます。[書簡全集 V] p.432
ドン・ピッポが鵞鳥を城砦の中に追い込むように命令する場面を作るのです。 そのあと舞台は城砦の一室となり、そこにチェリドーラとラヴィーナがいます。 パンテーアが鵞鳥を連れてきます。 ビヨンデッロが鵞鳥の中から躍り出ます。 ドン・ピッポのやってくる足音が聞こえる。 ビヨンデッロはたちまちまた鵞鳥になる。 こうして、ここに鵞鳥も加わって歌うので、ますますコミックとなり、よい五重唱を挿入できます。ヴァレスコにはモーツァルトのさまざまな注文に応じきれず、作詞をやめてしまった。 翌1784年2月になると、モーツァルトは作曲を諦め、「すぐにお金になる仕事」に取りかかっていくのだった。 あるいはローゼンベルク伯爵との交渉のなかで、たとえ完成させても、上演の機会は難しいことがわかったのかもしれないし、あるいはまた、別のオペラの企画が現実味を帯びてきたのかもしれない。 こうしてモーツァルトは「鵞鳥の物語」を次の曲からなる1幕だけ作りかけたところで放棄したのだった。
モーツァルトは2つの二重唱曲、2、3のアリア(そのなかには、完全な形では保存されていないドン・ピッポの一つのアリアのための導入レチタティーヴォさえある)、一つの四重唱曲、第1幕フィナーレなどの歌唱声部と低音部とをきわめて念入りにスケッチしたので、空白のままのオーケストラ・パートの譜表を埋めようとすれば、あと数日で足りたろうと思われるほどである。モーツァルトは『騙された花婿』(K.430)の作曲に打ち込んでゆく。 その台本作家は宮廷詩人ダ・ポンテだと思われている。 彼は(モーツァルトの1783年5月7日の手紙にあるように)サリエリのために3幕の喜歌劇『一日だけの成金 Il ricco d'un giorno』を書いていたが、その仕事を終えたあと、すぐモーツァルトのために『騙された花婿』の台本を書いたのだろうか。 『一日だけの成金』は1784年12月6日にブルク劇場で初演された。 その次のダ・ポンテの作品はイ・ソレールのための3幕のドラマ・ジョコーゾ『心優しい気むずかし屋 Il burbero di buon cuore』であり、初演は1786年1月4日である。 さらにその後、1791年3月までの間に20本もの作品を仕上げる多忙さを考えると、『一日だけの成金』と『心優しい気むずかし屋』の間に、モーツァルトのために『騙された花婿』を書くことは造作ないほど時間の余裕がある。 それはともかく、モーツァルトが『カイロの鵞鳥』のほかに、もし『騙された花婿』も作ろうとしていたことを知っていたら、ヴァレスコはすぐ手を引いたことだろう。[アインシュタイン] pp.571-572
〔演奏〕
CD [TOCP 67726] t=3'01 チルドレン・コア・オブ・ラジオ・ソフィア, 45人のエジプトのミュージシャン, Milen Natchev指揮ブルガリア交響楽団 1997年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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