プファルツ・ソナタ(またはマンハイム・ソナタ)集 |
パラチーヌ(プファルツ)選帝侯妃マリア・エリーザベトに「作品1」として献呈された6曲のピアノとヴァイオリンのためのソナタK.301〜306。 1778年11月パリのシーベルから出版された。タイトルは Six Sonates pour Clavecin ou Forte Piano avec accompagnement d'un Violon dédiées à son Altesse Sérénissime Électorale Madame l'Électrice Palatine.
6曲の連作中マンハイムで作られた4曲(K.301-303, 305)はドレスデンの宮廷楽長シュースター(Joseph Schuster, 1748-1812)の影響を受けたといわれる。 それは、母と二人で就職活動のためザルツブルクを離れ、1777年10月6日ミュンヘンから故郷に残る父への手紙の中で「姉さんのために、シュースターの6曲の『クラヴィチェンバロとヴァイオリンのための二重奏曲』を送ります。ぼくもこの様式で6曲書いてみたい」と書いているからである。
シュースターはドレスデンの作曲家で、1772年以降、選帝侯宮廷楽長をつとめていた。 1774年から1777年のイタリア旅行でマルティーニ神父に学んだことがあるという。 彼の弦楽四重奏曲でモーツァルトの作とされていた曲がある。
その後、モーツァルト母子はアウクスブルク(そこで有名なシュタインのクラヴィコードを知る)を経て、10月30日にマンハイムに到着し、4ヶ月半滞在することになる。
そこでマンハイム楽派の音楽に接したり、またアロイジア・ウェーバーに恋したりして、その地がすっかり気に入り、なんとか仕事を得ようと試みるが失敗に終わる。
12月頃はまだその希望を抱いて、父に「この2ヶ月たっぷり作曲するものがありそうです。それらを選帝侯に献呈しようと考えています」と伝えているが、その作曲予定の中にピアノとヴァイオリンのためのソナタ集が含まれていた。
そして、1778年1月10日付けの手紙で母が「ヴォルフガングは今6曲の新しいトリオを作っている」と知らせ、さらに2月14日には本人が父に「がまんできない楽器(フルート)のために作曲するのは気が乗らないので、気晴らしのためにクラヴィーアとヴァイオリンのための二重奏曲を書きました」と伝えていることから、これらのソナタの成立時期が「1778年2月頃」と判断されている。
ただし、K.301, K.302, K.303 の3曲はマインハイムで完成され、K.304 はマンハイムで書き始めパリで完成、さらに K.305 もパリで完成されたという。
6曲まとめて版刻する約束は9月末だったが、うまく事が運ばず、出版されたのは11月になってからで、上記のタイトルで献呈された。
ただし、出版後も作者自身の手には届くことなく(それらをグリムのせいにしているが)パリを離れることになる。
しかも出版にあたって、モーツァルトが望む金額より低い額で譲歩せざるを得なかった。
駆け引きのヘタな息子からの便りにレオポルトは相当イライラしていたことが手紙の随所にあり、12月31日には「私はこの手紙を書きながら、ほとんど気が狂いそうだ」と息子に書き送っている。
これらはまとめて「マンハイム・パリ・ソナタ」あるいは「選帝侯妃ソナタ(プファルツ・ソナタ)」と呼ばれる。 6曲の自筆譜はスイスの個人が所有。
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