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オペラ・ブッファ「コジ・ファン・トゥッテ」 K.588

「女はみなこうしたもの Cosi fan tutte」 (2幕、序曲と31曲)
〔編成〕 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1789年秋〜90年1月 ウィーン
1790年1月




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ダ・ポンテ(当時40才)の詞によるイタリア語劇。 もとのタイトルは「恋人たちの学校 La scuola degli amanti」であったが、モーツァルトは「コジ・ファン・トゥッテ」と変えて、もとのタイトルはサブタイトルとして残した。 こうして不朽の名作すなわち「このようにする(cosi fan)すべての女性は(tutte)」というドタバタ劇が生まれることになったが、タイトルの変更にダ・ポンテは快く思わず、彼は「恋人たちの学校」と呼び続けていたという。 しかしモーツァルトはそのタイトルが示す「道徳哲学風のさめた教訓」とは根本的に異なるメッセージを「コジ・ファン・トゥッテ」というタイトルに込めたのだという。

そこには音楽的な理由も存在した。 彼は、ダ・ポンテの台本中のもっとも意味深い一行「女たちはみなこのようにする」(第2幕第13場、フィナーレの直前)を、このオペラの道徳的本質を集約する音楽上のモットーとして機能させたのである。 ダ・ポンテの台本がこの句を老哲学者ドン・アルフォンソに一度かぎり語らせているのに対し、モーツァルトは二度歌わせる。
[ヴォルフ] pp.50-51
そしてモーツァルトはそのフレーズを序曲にも挿入している。
それは終わり近くに、楽器による、意表を突くメッセージとしてあらわれる。 それは緩徐な序奏の締めくくりに、すでにさりげなく織り込まれていた。 その同じ旋律が、第2幕フィナーレの直前に、今度は言葉付きで、手品のように出現する。 そのときモーツァルトは、聴衆が、序曲にあったこの瞬間を思い起こすことを期待しているのである。 このオペラのタイトルと音楽上のモットーとが、かくして融合する。
ヴォルフは「タイトルの変更は、モーツァルトの音楽劇作法が創造力豊かに構想されていることのしるしである」と言う。

初演はモーツァルト自身の指揮により、1790年1月26日ブルク劇場で行われた。

ブルク劇場のビラ、1790年1月26日
新しいジングシュピール。 帝室王室国民宮廷劇場で本日1790年1月26日、火曜日『コシ・ファン・トゥッテ』「女はみんなこうしたもの、又は恋人学校」が上演される(初演)。 台本は帝室王室国民宮廷劇場のイタリア語ジングシュピール作家ダ・ポンテ神父。 音楽は皇帝陛下に仕える楽長ヴォルフガング・モーツァルト氏。 台本はイタリア語のみ。 場内係の許で24クローネで発売。
[ドイッチュ&アイブル] pp.232-233
劇は2組の恋人たち(グリエルモとフィオルディリージ、フェランドとドラベラ)、老哲学者ドン・アルフォンソ、小間使いデスピーナの6人で演じられる。 若い士官グリエルモとフェランドはそれぞれの恋人フィオルディリージ(姉)とドラベラ(妹)の貞節を信じているが、ドン・アルフォンソは「女の貞操はアラビアの不死鳥と同じで、誰も見た者はいない」と説くので、三人は賭けをすることになる。 二人の士官は戦争に出たふりをして、変装し、互いの恋人を誘惑する。 デスピーナにそそのかされて、姉妹はとうとう誘惑に負けてしまう。 賭けに勝ったドン・アルフォンソは「女はみんなこうしたもの。人は非難するが私は許す」と歌い、二人の士官と姉妹も和解して丸く収まって終る。 ただし最近の演出では大団円に終らず、恋愛関係はご破算となり、それぞれが我が道を歩み出す幕切れとするものもある。 その方が現代人には納得できるのかもしれない。 いずれにしても、苦い味は残るが、このオペラは喜劇(ドタバタ劇)として作られたものだから、最後は笑って許しあって終ればいいだけで、それを深刻に議論すると逆に作曲者から笑われるかもしれない。
1790年1月に初演された歌劇『コジ・ファン・トゥッテ』は、戦時の一産物ということができるだろう。 それは簡素な舞台で、6人のソロ歌手のみのキャストにより、戦争という主題をからめて演じられる。 そしてその焦点は、半ば哲学的・半ば娯楽的に、人間の忠誠心という微妙で感情のからむ事柄に当てられている。
[ヴォルフ] p.27
初演は好評だったようで、その後、28日と30日に、2月も7日と11日に上演された。 しかしこのオペラの完成を望み、モーツァルトのよき理解者でもあった皇帝ヨーゼフ2世は戦場で重い病を得てウィーンに戻ってきたばかりであり、初演を観劇したあと闘病生活の末に2月20日に他界し、ウィーンは喪に服すことになってしまった。 3月に皇帝の後継者レオポルト2世(ヨーゼフ2世の弟)がウィーンに到着したが、彼は劇場や音楽に関心が薄く、モーツァルトを取り巻く状況はやがて悪化し、ダ・ポンテもウィーンを去ることになる。 ただしレオポルト2世は頭から音楽を否定していたわけではなく、「ヨーゼフ2世がオーストリアに対してやり残した農業、宗教、行政上の国内問題の無秩序な混乱の収拾」が先決だったのである。
そんなわけで、新帝が音楽のために、あるいはモーツァルトのために割く時間はほとんど残っていなかった。 第一にヨーゼフ2世の死後、ウィーンの宮廷劇場はいずれも数ヵ月は閉鎖され、公式喪服期間が明ける6月初めまで再開されなかった。 つづいて6月12日、7月6日、16日、あるいは8月7日(これが最後の公演で、その後、モーツァルトの生前には演目から外されてしまった)のブルク劇場での『コシ・ファン・トゥッテ』公演に、レーオポルトはその気になれば臨席できたのだった。 また新帝は、1791年2月まで演目に残っていた『フィガロの結婚』の再演にも行けたはずだったが、行かなかった。
[ランドン] pp.14-15
話が先走ったので、少し戻して、この『コシ・ファン・トゥッテ』が作曲される前後のモーツァルトを取り巻く状況を見回しておこう。

このオペラの作曲報酬としてモーツァルトは450グルデンの収入を得ているが、この時期なぜか経済的に困窮し、プフベルクに借金を重ねていた。 さかのぼって、モーツァルトは自作目録を作り始めたとき、金銭出納帳もつけ始めたという。 残念ながら後者の方は一年間しかもたなかったが、もし継続していればその後の経済的な困窮の理由がはっきりしたであろう。

1786年に《フィガロの結婚》を、そして1787年に《ドン・ジョヴァンニ》を作曲したが、続く2年間を、新たなオペラの依頼なしに、それどころか、いかなる種類の重要な作曲の依頼なしに費やしたのである。 33歳にして彼の作曲家としての経歴は勢いを失ったかに見え、経済的な運勢は破滅の道をたどっていた。
皇帝ヨーゼフ2世は1787年にモーツァルトを皇王室宮廷作曲家に任命したが、支給されたのは乏しい給料であり、モーツァルトはただ、宮廷の舞踏会のためのメヌエット、ドイツ舞曲、コントルダンスといった機会音楽を作曲することのみが課せられたのである。
[全作品事典] p.88
時代背景としては、戦争(1788年から1791年にかけてのトルコ戦役)による国力の疲弊があり、決定的な勝利を収めることができずにいるヨーゼフ2世に対する失望感が広まっていた。 贅沢な出費が制限されてゆくなかで音楽活動の急激な縮小が行われたのである。
極めて金のかかるオペラはもっとも槍玉に上がりやすい。 1788年の2月の初めには、まずドイツ・オペラ団が解散した。 ケルントナートール劇場における歌芝居の公演は継続できなくなり、劇場そのものも1791年11月16日まで閉鎖されてしまった。 イタリア・オペラ団も廃止するという計画も推し進められ、1788年の8月にはほとんどの歌い手や奏者に通告されるほどだった、その通告はのちに撤回された。
[ソロモン] p.662
ただし、ブルク劇場は閉鎖されず、またシカネーダーのフライハウス劇場も活動していたので、全面的な縮小ではなかった。 それでもやはりオペラ興行は下火とならざるをえなく、モーツァルトの活躍の場も著しく狭まったことは確かである。 このような状況で、長引く戦争に対する国民の不満をいくらかでも解消するために、イタリア語オペラで喜劇を上演しようというアイデアが宮廷内に生まれたのかもしれない。 1789年8月29日、『フィガロの結婚』(K.492)がウィーンで再演され、好評を博したことも一つのきっかけになったであろう。 余談であるが、その再演のときモーツァルトはスザンナ役のアドリアーナ・ガブリエリ(Francesca Adriana Gabrieli)のためにロンド「君を愛する人の願いに」(K.577)とアリア「喜びに躍りて」(K.579)を代替曲として書いている。
たびたび語られるところでは、ダ・ポンテはこのオペラ台本を皇帝ヨーゼフ2世の慫慂によって書いたとされる。 皇帝は、ウィーンの将校のあいだで本当にあった出来事をテーマにして音楽喜劇を仕立ててもらい、それを見てみたいと思ったようだ。 お察しのとおり、口伝えのこの話についてはいかなる記録もない。 これはエピソードとしての話であり、どこかの裁判記録に出来事として見つかるわけではない。
[ブレッチャッハー] pp.275-276
ただし似たような話はほかにもあり、「長いヨーロッパ文芸史をひも解いてみれば、そこかしこに、この作品の淵源とみられるプロットをもつ作品がある」[事典]といい、また近いところでは
著しく似通ったストーリーが、4年前にジョヴァンニ・バッティスタ・カスティが台本を書き、ほかならぬサリエーリが作曲した《トロフォーニオの洞窟 La Grotta di Trofonio》でも語られていた。
[全作品事典] p.89
といわれている。 この作品のはっきりとした動機となるものはわからないが、一般庶民が(人間であれば誰でも)喜びそうな題材を当時の社会状況が求めていたのであろう。 劇場は陽気な作品を要求していたのである。 ダ・ポンテはそこを十分に心得て、オペラ・ブッファ(世俗的な喜劇)を書いたが、モーツァルトの音楽がそのドタバタ劇を歴史に残る名作にしてしまったのである。 「(金のためなら)わたしは何でも書く」と豪語していたダ・ポンテと、「音楽でなら何でも表現できる」と絶対的な自信を持っていたモーツァルトによる最後のチャレンジとなった。 かつてモーツァルトは「ドイツ語のオペラでなくイタリア語のオペラを、ブッファでなくセーリアを書きたい」と父に言っていたことがあったが、その思いが『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』に続くこの作品にも込められている。 ただし、その台本は最初は宮廷楽長サリエリのために書かれ、サリエリは作曲にとりかかったらしいが、なぜか作曲者はモーツァルトになったという。
もともと『恋人たちの学校』に音楽を付けることになっていたのは、サリエーリである。 その彼がいくつか草稿を準備しただけで仕事をモーツァルトに引き渡したという事実は、管理の負担が宮廷楽長の創作意欲を根こそぎ奪うほど重かったことを示している。
[ヴォルフ] p.31
サリエリが楽長としての「管理の仕事や時間不足によって、オペラを1789~90年のシーズンに間に合わせることができなかった」ために作曲を放棄したと思われているが、それがどうしてモーツァルトに任されることになったのかはよくわからない。 ダ・ポンテが話を持ち込んだものと考えるのが自然であるが、このこととモーツァルトがタイトルを変更したこととは何か関係があるのだろうか。
台本と総譜は1789年9月より4ヶ月かけて形成された。 モーツァルトは課せられた仕事がほかにはほとんどなかったため、オペラ制作に十分注意を傾けることができた。
[全作品事典] p.89
ただしラポルトは、1789年9月29日にクラリネット五重奏曲(K.581)が完成されていることから、『コシ』作曲に着手したのはその後であり、したがってオペラ完成にはわずか3ヶ月強の期間しか使っていないとしている。 それにしても、短期間で仕上げたとは驚きであるが、ラポルトは「モーツァルトの創作の旺盛さや速やかな筆の運びが従来と変わっていない」と言う。 モーツァルトが自作目録に記載した1790年は極端に作品数が少ない年であること、すなわち、1月の『コジ・ファン・トゥッテ』のあと、5月まで何も書かれず、また、7月にスヴィーテン男爵のための2つの編曲のあと、12月まで空白が続くことは謎である。

こうして、ヨーゼフ2世の最晩年に(もちろんモーツァルトにとっても最晩年になるが)、当時の著名な音楽家からは不道徳だと手厳しい評価が下され、のちには傑作と賞賛されるようになったオペラが誕生したのであった。

モーツァルトは深みのない、刺激的で軽薄な台本を『人生は夢』と同じくらい深遠で、『真夏の夜の夢』と同じくらい詩的なドラマにするにいたった。 台本では欺し合いと仮装であったものが、モーツァルトという音楽家=劇作家にとっては、舞台上の情景を揺るがす機会となるのだ。 モーツァルトのオペラの劇的な力はそこにある。
[オカール] p.163
現在はモーツァルトにしか作り得なかった稀有の名作として評価は確定していて、この作品を詳細に解説した文献がたくさんある。 ここでは、アインシュタインの「きわめてまじりけない幸福ときわめて充実した芸術の至福の作品」、またデントの「高度に抽象的なオペラで、人工的な世界のオペラとしては最上のもの」という賛美の言葉にとどめておくことにしたい。

さて、前述したように、モーツァルトは象徴的な序曲を書いているが、それは次のようなものである。

架空の舞台を覆う翳りのない太陽の光。 導入の8小節のあと観客に向かって、4分の4拍子のアンダンテで、作品の主題が二度、呼びかけられる。 一度はファゴットと弦楽器だけで、ついでのように、なんの強調もなく、もう一度はフルオーケストラで、大きく断定的に。 まるで反論は一切受け付けないかのように。 女はみんなこうしたもの! この女、あの女という話ではない、みんな、すべての女がこうするのだ! 女はこの場で両手で掴める男だけを愛するのだ。 女たちに貞節を望むなら、決して独りにしてはならない。 この格言に疑念が萌さないように序曲はたちまち渦巻くプレストへ突入する。
[ブレッチャッハー] pp.272-273
そして「止めがたく心休まらないプレスト」が終結するとき、「事ここに至ってようやく残酷で晴れやかな劇」が始まり、以下の2幕へと続く。

第1幕

  1. フェランド、グリエルモ、ドン・アルフォンゾの3重唱「そんなことドラベッラはできないぞ」
  2. 〃 「女の貞操はアラビアの不死鳥と同じ」
  3. 〃 「素敵なセレナーデをやりたいな」
  4. フィオルディリージとドラベラの2重唱「ご覧なさい、妹よ」
  5. ドン・アルフォンゾのアリア「言いたいけれど、勇気が出ない」
  6. フィオルディリージ、ドラベラ、フェランド、グリエルモ、ドン・アルフォンゾの5重唱「ああ神よ! この足は」
  7. フェランドとグリエルモの2重唱「運命は屈服する」(当時なかった歌なので省略される)
  8. 合唱「楽しきかな軍隊生活は」
  9. フィオルディリージ、ドラベラ、フェランド、グリエルモ、ドン・アルフォンゾの5重唱「毎日手紙をくださいね」
  10. フィオルディリージ、ドラベラ、ドン・アルフォンゾの3重唱「風は穩やかに、波は靜かなれ」
  11. ドラベラのアリア「心に渦巻くいらだちよ」
  12. デスピーナのアリア「男に、兵隊さんに」
  13. 6重唱「麗しのデスピーナさんに」
  14. フィオルディリージのアリア「岩のように決して動かない」
  15. グリエルモのアリア「恥ずかしがらず、愛らしい眼差しを」
  16. フェランド、グリエルモ、ドン・アルフォンゾの3重唱「笑うのかね?」
  17. フェランドのアリア「恋人の愛の息吹きは」
  18. 終曲「ああ、ほんの一瞬のうちに」
第2幕
  1. デスピーナのアリア「女が15にもなれば」
  2. フィオルディリージとドラベラの2重唱「あの黒髪の方にするわ」
  3. フェランドとグリエルモの2重唱と合唱「甘く優しいそよ風よ」
  4. デスピーナ、フェランド、グリエルモ、ドン・アルフォンゾの4重唱「お手をどうぞさあこちらへ」
  5. ドラベラとグリエルモ2重唱「このハートを贈ります」
  6. フェランドのアリア「これぞ女の美しい魅力」(省略して次へ進むよう指示されている)
  7. フィオルディリージのロンド「いとしい人よ、この弱い私を許して下さい」
  8. グリエルモのアリア「女性の皆さん、あんた方は」
  9. フェランドのカヴァティーナ「激しい葛藤が心に渦巻き。裏切られ、嘲笑され」
  10. ドラベラのアリア「恋は盗人、誘惑の蛇よ」
  11. フィオルディリージとフェランドの2重唱「もうすぐ彼の腕の中に」
  12. ドン・アルフォンゾのアンダンテ「女はみんなこうしたもの。人は非難するが私は許す」
  13. 終曲(全員)「さあ早く、松明に火を灯しましょう」
対訳つき歌詞は次のウエブページに載っている。 登場人物(初演のときの歌手) アドリアーナ・ガブリエーリは前述したように、『フィガロの結婚』ウィーン再演のときスザンナ役を歌った。 ヴィルヌーヴはアドリアーナの妹とも言われるが、その美貌のゆえにヨーゼフ2世のお気に入りだった。 モーツァルトは彼女のために2つのアリア「誰が知るでしょう、いとしい人の苦しみを」(K.582)と「私は行きます、でもどこへ」(K.583)を書いている。 カルヴェージはヴェネツィア出身のテノール歌手で、1785年からウィーン宮廷劇場で活躍していた。 ベヌッチは『フィガロの結婚』(K.492)でフィガロ役を、また『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)でレポレロ役を努めた。 フランチェスコとドロテーアのブッサーニ夫妻については、『劇場支配人』(K.486)のページを参照のこと。 いずれも実力派の歌手ばかりである。

〔演奏〕
LD [ANFコーポレーション ANF-3511] t=187分
デッシー(フィオルディリージ), ツィーグラー(ドラベッラ), スカラベッリ(デスピーナ), クンドラック(フェランド), コルベッリ(グリエルモ), デズデーリ(ドン・アルフォンソ), ハンペ演出, ムーティ指揮ミラノ・スカラ座管弦楽団
1989年4月
CD [Polydor POCL-3810/1] t=146'46
デラ・カーザ (S), ルートヴィヒ (MS), ローゼ (S), 他, ベーム指揮ウィーン・フィル
1955年
CD [ドイツ・シャルプラッテン 22TC-280] t=4'15(序曲)
スウィトナー指揮シュターツカペレ
CD [EMI TOCE-6819] (10) t=3'16, (14) t=4'39, (17) t=5'12, (26) t=3'24
バルツァ (Ms), 他
CD [L'oiseau Lyre 458 557-2] (15) t=5'08
スカルトゥリーティ (Br)
1996年
CD [WPCS-21094] (17) t=4'49
デル・ヴァルト (T)
1991年
CD [BVCF-5003] (17) t=4'10
ニュー・ロンドン・コラール
1984(編曲)
CD [ビクター VDC-1333] t=17'43
モーリス・ブルグ木管アンサンブル
1986年
※Wendt編曲
CD [harmonia mundi 3903008] t=9'04
ブダペスト管楽
1989年
※Wendt編曲
CD [EMI 7243 5 55513 2 0] t=11'59
トリオ・ディ・クラローネ (basset-hr)
1994年
※R.Schottstadt編曲

〔動画〕

〔参考文献〕

 

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2018/06/03
Mozart con grazia