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交響曲 第28番 ハ長調 K.200 (189k)

  1. Allegro spiritoso ハ長調 3/4 ソナタ形式
  2. Andante ハ長調 2/4 ソナタ形式
  3. Menuetto : Allegretto ハ長調 3/4 複合三部形式
  4. Presto ハ長調 2/2 ソナタ形式
〔編成〕 2 ob, 2 hr, 2 tp, timp, 2 vn, va, vc
〔作曲〕 1774年11月17日か12日 ザルツブルク
1774年11月

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3回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰って間もなく作られた第22番から第30番までの9つの交響曲の自筆譜は父の手でまとめられ合本とされ、作曲時期が消された。 旧全集はその合本通りの順で取り上げたが、その後、消された日付は解読され、次の順になった。

  1. 第26番 変ホ長調 K.184 (161a) ・・・ 1773年3月30日
  2. 第27番 ト長調 K.199 (161b) ・・・ 1773年4月10か16日
  3. 第22番 ハ長調 K.162 ・・・ 1773年4月19か29日
  4. 第23番 ニ長調 K.181 (162b) ・・・ 1773年5月19日
  5. 第24番 変ロ長調 K.182 (173dA) ・・・ 1773年10月3日
  6. 第25番 ト短調 K.183 (173dB) ・・・ 1773年10月5日
  7. 第29番 イ長調 K.201 (186a) ・・・ 1774年4月6日
  8. 第30番 ニ長調 K.202 (186b) ・・・ 1774年5月5日
  9. 第28番 ハ長調 K.200 (189k) ・・・ 1774年11月17日か12日
このように、この時期の最後に置かれたが、第3版では K.173e に位置づけられていた。 ただし、日付の解読には疑念が残されていて、1773年成立の可能性も完全に否定されてはいない(新全集編者ベック)。 もし、やはり1773年11月だとすれば、合本第7番になり、第25番ト短調の直後(したがって K.173e)ということになる。

この一連の作品のあと、ザルツブルクでモーツァルトが交響曲を書く機会はなく、セレナードからの改編やオペラの序曲用を除いて、本格的な(または「正規の」)交響曲は1778年の「第31番ニ長調 パリ」(K.297)まで作曲されない。 つまり演奏の機会がなければ作曲する必要がなかったわけで、この交響曲をザルツブルク宮廷での御用に応じて書いたのち、そのような機会がなかったのである。

大司教の宮廷におけるモーツァルトの音楽生活は、いくつもの点で現代とはほど遠いものがある。 彼の天才のもたらした果実、たとえばヴァイオリン協奏曲群やセレナータ・ノットゥルナK239、シンフォニーK200、K201などは、大司教(最初はシュラッテンバハ、のちにコロレド)やひとつかみの廷臣たち、招待客や土地の貴族たちなどによって鑑賞されただけであった。 それらは、夏の庭で演奏した折などに塀越しにでも聞こえない限り、ザルツブルクの一般の人には聞くチャンスはなかった。 ましてザルツブルク以外の土地では、それらは闇の中に眠ったままで19世紀の大半を過ごすことになる。 それらが印刷されるのは、ブライトコップによる偉大な全集(1870年代と80年代)を待たねばならなかった。
[ランドン] p.92

曲順はともかくとして、上の連作中で、作曲者が意識的に個性的な3つの作品を書いたのではないかという強い印象を受けるものがある。 すなわち「ト短調 K.183、ハ長調 K.200、イ長調 K.201」の3曲は、1788年の最後の三大交響曲(変ホ長調 K.543、ト短調 K.550、ハ長調 K.551)の予兆と言われる。

初期の段階において、狭い枠のなかのものであるが、1788年の最後の三大シンフォニーと同等の完成度を示すのである。 すなわち、ハ長調シンフォニー(K.200、1773年11月)、ト短調シンフォニー(K.183、1773年末)、イ長調シンフォニー(K.201、1774年はじめ)である。 ハ長調シンフォニー(K.200)の第1楽章では、古い祝祭的気分の代りに新しい興奮が感ぜられ、主題素材のいっそう巧緻な形成、いわばこれまでは未発達だった身体の新しい関節のようなものが認められる──各楽章がそれぞれコーダを持っていることは特徴的である。 緩徐楽章は持続的であって、すでにアダージョへの途上にあり、ホルンを際立たせるメヌエットはもはや間奏曲や挿入物ではない。 さらにフィナーレはモーツァルトの発展の里程標である。 もし案出があまりにもイタリア風にブッフォ的でなかったら、独奏(2つのヴァイオリン)とトゥッティとの対話や、終結部のオーケストラのすざまじいクレッシェンドを持つこのプレストを、『後宮からの逃走』(K.384)の序曲として使うこともできたであろう。
[アインシュタイン] p.308
アインシュタインはこの3作を特別視するあまり、9曲の連作の(第3版では)最後にあたる第30番ニ長調(K.202)を「落伍兵」とまで言い、次のように自問自答している。
その後、1778年の6月まで4年以上のあいだ、モーツァルトはシンフォニーを1曲も書いていない。 まえの数年の豊かな創造力のあとに来たこの事実はどう理解すべきだろうか? 外的理由がある。 イタリアあるいはヴィーンへの旅行はもう見込みがなくなったし、『いつわりの女庭師』(K.196)の初演のためのミュンヘン旅行には手もとの原稿でまにあった。 しかし内的理由もある。 ハ長調、ト短調、イ長調のシンフォニーで到達されたものは一つの頂点であって、たやすく越えられるものではなかった。 そこでモーツァルトは、シンフォニー的なものの原理をもっと手軽に扱いうる、別の分野へ向うのである。
同書 pp.310-311
外的理由には根拠があるかもしれないが、しかし内的理由は疑問である。 理由はもっと簡単であり、シンフォニーを作曲する機会(注文)がなかった、それだけであろう。 ザスローは非常に重要な視点をわかりやすく説明している。
当時の作曲家たちは、後の時代の作曲家たちほど、独創性そのものには関心を抱いていなかった。 彼らは、インスピレーションよりも職人芸のほうに注意を払っていたので、偉大な作品も、ありふれた素材に基づくことが可能だったのである。 これは、よいテーブルを作るよう注文を受けた、熟練した家具職人の姿勢にたとえることができるだろう。 すなわち、職人は、木の選択の仕方やそれを使っての作業の仕方を心得ていればよいのであり、見栄えが美しく、よく機能するテーブルであるためには、素材や形の選択が新奇である必要はないのである。
[全作品事典] p.246
モーツァルトはどのような曲でも作ることができると自負していた。 作曲依頼があれば、いつでも書き上げることができたであろうし、複数の作曲が求められれば、それぞれに個性的な作品を揃えて納品するのも朝飯前だった。 上記の9曲は作曲者が連作を意識して書き上げたのではないだろうが、同じもの、あるいは似たようなものを並べることはモーツァルトの流儀に反することだったので、個性的な作品集(合本)が出来上がったのである。 その中から3作を選んで特別視するのは後世の勝手であるが、オカールもやはりどうしてもその3作に惹かれるようであり、次のように絶賛している。
私としては、モーツァルの全交響曲のうちでも、その後の彼が円熟期に成し遂げた技術的進歩がいかなるものであるにせよ、好みの点からいって1773年のこの三部作が最も素晴らしいとためらわずにいいたい。
新鮮さ、素直さ、ほとばしる旋律、優雅さ、といったすべてのものが若々しい力の爆発のなかで輝いている。 モーツァルトがイタリアで得た教訓を何一つ忘れていないことが感じられる。 歌うような美しさが、ここにはうっとりするほど充分に繰り広げられているからだ。
[オカール] p.42
モーツァルトは4年後の1778年に母と二人で就職活動のためパリを訪れた際、この1773〜74年頃のシンフォニーを出版しようとしたことがあるらしい。 パリではシンフォニー主体の演奏会も行われるようになっていたからであり、そのジャンルでの売り込みに参入しようと考えるのは自然なことである。 そのとき、ザルツブルクにいて息子の一部始終をコントロールしていた父レオポルトは反対した。
1778年9月24日
おまえの名誉にならないものは、知られないほうがいいのです。 だからおまえのシンフォニーはどれも人の手に渡しませんでした。 おまえが成人して、分別がつくようになったら、これらのシンフォニーは、おまえがそれを書いた当時は自分でそれに大満足だったにしても、だれもこれらの曲を持っていないのをおまえはうれしく思うだろうって、私は前から知っていたのです。 人はだんだんと選り好みをするようになるものです。
[書簡全集 IV] p.294
レオポルトは、息子が自分の意志と判断で困難を解決し、新しい活路を切り開いて行こうとする事態に狼狽したようである。
モーツァルトのシンフォニーの研究家ニール・ザスローは、この発言は一種のハッタリと受け取っている。 というのはレオポルト自身が1771年2月7日、1775年10月6日、1781年2月12日に、それぞれブライトコップ社に手紙を書いて息子のシンフォニーを売り込んでいるからである。
[ソロモン] p.170
息子がどれほどの高みに達していたか、父にはもはや理解できなかった。 息子が自分の手が届かないほど高いところに達することは、彼にとって認められない(許しがたい)ことであり、レオポルトが求めていたのは「父子の俸給で、安心できる境遇で、一家が安楽に暮す」ことだったからである。 同じ9月24日の手紙で、そのことを息子に強く念を押すのだった。
私の最高の満足は、おまえと私の高くなった俸給でもって、私たちが安心できる境遇に移り、私たちの『借金』を払い、そして安楽に暮らせることにあります。
やがてモーツァルトは、よく知られているように、一度は挫折を経験しながらも、父子の深刻な葛藤を乗り越え自立していくことになる。

楽器編成について、[事典]によれば、「合本」に含まれるスコアにはティンパニのパートは記されていないという。 モーツァルト自筆によるそのパート譜があったことは確認されていたが、18世紀以来行方不明となっていた。 それが1929年に突然現れ、競売にかけられたのち再び姿を消したという。

復元の試みも幾つか行われたものの、1960年の新全集は結局ティンパニなしで出版されたが、その後モデナでオリジナルからの写しらしい楽譜が発見されており、現在ではほぼ本来の形で演奏することが可能になっている。 なお、同時代の筆写譜の中にはファゴット・パートを含むものもある。
[事典] p.280

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL 20371] t=25'25
ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music
1979年
CD [TELARC PHCT-1248] t=21'26
マッケラス指揮 Sir Charles Mackerras (cond), プラハ室内管弦楽団 Prague Chamber Orchestra
1987年7月、プラハ、芸術家の家
CD [Membran 203300] t=16'30
Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino
2004年?

〔動画〕

〔参考文献〕


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2014/11/30
Mozart con grazia