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交響曲 第30番 ニ長調 K.202 (186b)
〔作曲〕 1774年5月5日 ザルツブルク |
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3回目のイタリア旅行からザルツブルクに帰って間もなく作られた第22番から第30番までの9つの交響曲の自筆譜は父の手でまとめられ合本とされ、作曲時期が消された。 旧全集はその合本通りの順で番号付けされていたが、その後、消された日付は解読され、次の順になった。
このシリーズの最後に位置する「第30番ニ長調」についてアインシュタインは「落伍兵」と評した。 ヨーゼフ・ハイドンの精神を吸収しつつ「偉大な」交響曲を目指して成長続ける連作の中で、ハイドンの強烈な印象を完全に消化できずに後退した作品とみなしたからである。
これはフィナーレ・シンフォニーではなく、終楽章はひとつの「結末」以上のものではなく、ただ主題の点で第1楽章と再度関係するということが目立っているにすぎないからである。 「アンダンティーノ・コン・モート」は弦楽器だけのためのものだが、ハイドン流のヴィーン四重奏曲(K.168~173)のなかにあってもよいだろう。 メヌエットはあまり個性的ではなく、最も重点のおかれた第1楽章は、ト短調(K.183)ならびにイ長調(K.201)のシンフォニーで得られた技術を、いくぶん不適当な材料に適用しているにすぎない。しかし、「シリアス」なものの方に価値を認め、そうでないものを「後退」とする見方に対しては当然異論がある。 ザスローは次のように言っている。[アインシュタイン] p.310
ジョルジュ・サンフォア、アルフレート・アインシュタインら学者たちは、この交響曲における規模の縮小に目を留め、それを、K.183やK.201における非常なシリアスさの後で、以前の作品の娯楽性とギャラントリーに回帰したものであるとした。 それを惜しむべきか喜ぶべきかは、それぞれの美学の問題である。 サンフォアとアインシュタインは、惜しむ立場をとった。 しかし、トランペットを伴うニ長調の祝祭的な作品が、どうして「シリアス」である必要があろう? また「シリアスさ」を時代錯誤的に(つまりロマン主義的に)過大評価して、どうなるというのであろうか。そして[全作品事典] p.245
(フィナーレの)減和音と不意の休止を配した展開部は、しばしシリアスそのものの印象を与えるが、その後コーダが「的確な」終止を提供せぬままあっけなく消え失せるさまに接するとき、われわれはこの作曲家が、ユーモアのセンスの発達した18歳の少年であったことを思い出すのである。と反論している。 現在もなおベートーベンに代表されるシリアスなシンフォニーを最高とする価値基準が依然として残っているため、アインシュタインの出版「人間と作品」から60年以上たった今も、ザスローはこのように書かなければならないのかもしれない。
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL 20369] t=25'02 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1979-80年 |
CD [PMG CD 160 114] t=24'04 リッチオ指揮 Alberto Lizzio (cond), モーツァルト・フェスティヴァル管弦楽団 Mozart Festival Orchestra 1988年頃 |
CD [Membran 203300] t=13'24 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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