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弦楽四重奏曲 第19番 ハ長調 「不協和音」 K.465
〔作曲〕 1785年1月14日 ウィーン |
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ハイドン・セット第6番となるこの曲の第1楽章冒頭に不協和音に満ちた序奏があることから、「不協和音」という渾名で呼ばれていることは改めて説明する必要のないほど有名である。 その響きは当時としては理解し難いものであり、出版されたとき写譜の間違いとまで言われたという。 6曲はこの年の9月1日に「作品10」としてアルタリアから刊行され、ハイドンに捧げられているが、そのような特別な目的で書かれた作品の最後にあたるこの曲には、モーツァルトが前年末(1784年12月14日)にフリーメーソン入信したことと深い関係があるという説がある。 コットは、「入信の儀式にモーツァルトは深い印象を覚え、彼に決定的な刻印を押した」と言い、その印象を楽譜によって代弁したものがこの作品であるとしている。
その作品は、フリーメイスンの消息に疎い学者達が、長い間、あれこれ頭を悩ましてきたものであった。 すなわち、弦楽四重奏曲K.465、いわゆる『不協和音』がそれである。 彼の時代としては異常に現代的なあの有名な不協和音は、第1楽章の序奏部のみに留まり、第1楽章の主部は、これとは対照的に、確固とした調性で書かれていることを想起しよう。 J・シャイエ教授は、モーツァルトの入信の日付、1784年12月14日と、この四重奏曲の完成の日付、1785年1月14日とを比較して、この2つのでき事の間に明白な連関があることを明らかにした。付け加えると、この四重奏曲の完成の1週間前(1月7日)には第2位階の「職人」に昇進したばかりだった。[コット] pp.134-135
ジャック・シャイエは彼の有名な著書の中で、「『魔笛』の解釈に取りかかってみると、不思議なことにモーツァルトに関する膨大な文献がいかに不備であるかがはっきりとわかる」と前置きしたうえ、次のように説明している。
私は、そのときまでに未解決であったその序奏にみられる奇妙な和声が闇と混沌を描く確固たる伝統に呼応していることを証明する機会に恵まれたのである。それでは、なぜこの時期にそのような作品を作曲者が必要としたのか。 シャイエは続ける。
・・・
『不協和音』四重奏曲の序奏をなすアダージオは、当時の人びとの目には、混沌とした闇を描いた一枚の絵としか思われなかった。 そしてそれはすぐ後のアレグロで炸裂する秩序と光の画像と激しく対立していた。 まさに、フリーメイスンの最も重要な標語の一つにみられる《混沌から秩序へ》である。[シャイエ] p.99
ところでこの四重奏曲は、ヨーゼフ・ハイドンがモーツァルトの「友愛の手」に導かれて殿堂の門に入る二ケ月前にハイドンに献呈されているが(モーツァルトは、そのときこの作品の作曲意図をたびたび彼に話したに違いない)、1784年12月の入信式以後彼によって書かれた最初の作品の一つであり、したがってその事件から受けた深い感動が最も激しく表われているはずの作品の一つであった。 周知のとおり、入門志願者は目隠しをされたままフリーメイスン結社の儀式のなかへ案内される。 すると、突然、目隠しがはずされ、彼は燦然と輝く光に目が眩んでしまう。[シャイエ] pp.99-100
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1月28日、父レオポルトはザルツブルクを出発。 友人マルシャンのいるミュンヘンを経由して、2月11日、レオポルトはハインリヒ・マルシャンを伴ってウィーン到着。 ちょうどその11日、ハイドンはフリーメーソンの「真の融和」ロッジに入会。 モーツァルトがこの先輩に「辛苦の結晶」である6曲の弦楽四重奏曲を捧げたことは、このことと無縁でない。 そして翌12日の土曜日、モーツァルトは自宅にハイドンを招き、最新の「ハイドン四重奏曲」の3曲(変ロ長調 K.458、イ長調 K.464、ハ長調 K.465)を演奏した。 演奏者は、父レオポルト、ティンティン男爵兄弟、そしてモーツァルト自身。 このときハイドンはレオポルトに
私は誠実な人間として神に誓って申し上げますが、あなたの御子息は私が個人的に知っている、あるいは名前だけ知っている作曲家の中で、最も偉大な人です。 御子息は趣味が良く、その上、作曲に関する知識を誰よりも豊富にお持ちです。と語ったという話は有名である。 ハイドンはモーツァルトの数少ない理解者であり弁護人でもあったが、ただし「ハイドンはこの『不協和音』四重奏曲の冒頭の前衛的な部分に対しては、近寄りたくないと思っていた」という(ソロモン)。 まして多くの人にとっては、この四重奏曲は聴き辛いものだった。
典型的な逸話として伝えられているのは、これが裕福なボヘミアの貴族のグラサルコヴィッツ公の家で演奏された時のことで、第1楽章が終ると、公は怒って楽譜を破いてしまったということである。 この話は事実ではないとしても、当時の空気を良く伝えている。しかし、この曲の渾名となっている「不協和音」は第1楽章冒頭のアダージョ序奏(22小節)であり、「そこで経験した感覚混乱の後では、アレグロの開始とともに明るく曇りないハ長調にしっかり着地することは、なおも一種の安堵である」とクリーグズマンは言う。 2月12日の演奏について、レオポルトはザルツブルクに残る娘ナンネルに「これらの曲はたしかにちょっとばかり軽いものだが、構成は素晴らしいものです」と印象を伝えている。 冒頭のいわゆる「不協和音」については何も伝えていないのは、短い序奏のあとすぐ「明るく曇りないハ長調にしっかり着地」していることで安心したのか、それとも長旅の疲れが彼の鋭いはずの感覚を鈍らせていたのか。 このあともレオポルトは演奏したり聴いたりする機会があったと思うが、何も語っていないことからすると、彼には「不協和音」は特に違和感を感じるようなものでなかったのだろう。 なお、よく知られているように、父も息子の勧めにより4月4日にフリーメーソンに入会する。[ランドン] p.160
〔演奏〕
CD [WPCC-4119] t=27'48 ウィーン・コンツェルトハウス四重奏団 Vienna Konzerthaus Quartet 1952年頃、ウィーン |
CD [DENON 28CO-2152] t=29'20 ベルリン弦楽四重奏団 Berliner StreichQuartett 1971年12月、ドレスデン・ルカ教会 |
CD [TKCZ-79213] t=32'14 ウィーン室内合奏団 演奏年不明 |
CD [TELDEC 72P2-2803/6] t=29'48 アルバンベルク 1977年 |
CD [COCO-78061] t=28'13 ペーターセン四重奏団 Petersen Quartet 1990-91年、ベルリン |
CD [NAXOS 8.550543] t=30'59 エーデル四重奏団 Éder Quartet 1991年10月、ブダペスト |
〔動画〕
〔参考文献〕
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