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四重唱「せめて言っておくれ、どんな過ちをしたのか」 K.479

Quartet "Dite almeno, in che mancai."
〔編成〕 S, T, 2 B, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1785年11月5日 ウィーン
1785年11月

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ジョヴァンニ・ベルターティ(Giovanni Bertati, 1735-1815)台本。 フランチェスコ・ビアンキ(Francesco Bianchi, 1752-1810)のオペラ『さらわれた村娘 La villanella rapita』のための挿入曲。 そのオペラの初演は1783年(ヴェネツィア)であったが、ウィーンでの初演は1785年11月28日ブルク劇場であった。

この時代には、歌手の希望にそってアリアを書き直したり、作曲者のオリジナルのアリアであれ何であれ、できが良くないと思ったり、当地の条件に添わないと考えたりした時には、楽長が勝手に作り直してしまうというのが習慣になっていた。 モーツァルトはしばしばこの種の挿入曲を頼まれて書いているが、その中には彼の作品の中でも最高に楽しいとか、機知に富んでいる、悲しい、痛ましい、あるいは皮肉であるといった曲が存在している。 特に注目しておきたいのは、フランチェスコ・ビアンキのオペラ『かどわかされた村娘』のために書いたナンバーである。
[ランドン] p.149
そのナンバーとはこの四重唱(K.479)と三重唱「いとしのマンディーナ」(K.480)の2曲である。 モーツァルトは自作目録に四重唱を上記日付で記載している。 なお、訳語について、まず『La villanella rapita』では『誘拐された村娘』([事典]・[書簡全集]・[全作品事典])、『かどわかされた村娘』([ランドン])があり、そして四重唱「Dite almeno, in che mancai.」には「せめておっしゃって、私がどんな過ちを犯したのか」([事典]・[書簡全集]・[全作品事典])がある。

ベルターティについて、アインシュタインは「モーツァルトの崇拝者たる者はこの人に敬意を表さなければならない」と言っている。 彼がいなかったら『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)はできなかっただろうと言うのである。 ベルターティの1787年の作品『ドン・ジョヴァンニあるいは石の客人』にガッツァニーガ(Giuseppe Gazzaniga, 1743-1818)が曲を付けた一幕物のブッファ・オペラが手本となっているからである。 ヴェネツィアで「カスティダ・ポンテと同じく、僧職につくように定められながらリブレット作家としての生涯を選んだ」というベルターティが書いた数多くのオペラのうち、「生まれた土地の境界を超えて世間に広まり、本当のレパートリー・オペラとなった3曲」のうちの一つの作品がこの『さらわれた村娘 La villanella rapita』であった。

そうなったのは、たしかにビアンキの音楽のおかげではなく、社会批判の大胆さの点では他のいかなる《革命の先駆》にもひけをとらないリブレットのせいである。 しかもそれがオペラ・ブッファの枠内に納められていることは二重の驚嘆に価いするのである。 しかし、まさにこの枠内でこそ、パンフレットや本に書けば著者の投獄ということになりかねない多くのことが言い得たのであった。
[アインシュタイン] p.583
モーツァルトがダ・ポンテの台本に曲を付けた問題作『フィガロの結婚』(K.492)が作曲されたのはこの年の10月末から翌1786年4月29日にかけてであるが、その直前にベルターティ台本によるビアンキ作曲のこのオペラがブルク劇場で上演されることになったのは妙なる偶然であった。
自分の支配下にいる農夫の娘に眼をつけた伯爵がいる。 その娘マンディーナは農夫ビアージョの娘で、若い農夫ピッポと婚約しており、ピッポは許婚を嫉妬深い目で監視している。 そこで伯爵は結婚式の日にマンディーナを奪おうと決心する。 彼は薬の力を借りて、結婚式に集まった人々を泥酔させ、失神した花嫁を自分の城へ連れて行く。 しかしピッポとビアージョはこの貴族の犯行に泣き寝入りするつもりはない。 二人で城に侵入して花嫁を奪い返してしまう。
同書 p.583
そのオペラの上演に際してモーツァルトは挿入歌を2曲(K.479とK.480)書いたが、四重唱(K.479)は第2幕第13場で、三重唱(K.480)は直前の第12場でそれぞれ原作に代わって歌われるものであり、ダ・ポンテが作詞したと思われる。 原作ではその二つの場面ともレチタティーヴォであったが、モーツァルトはそこに登場人物のそれぞれの心情を絶妙に織り交ぜた重唱で置き換えたのであった。 アインシュタインは次のように高く評価している。
これら二つの楽曲はただモーツァルトだけに固有な音楽の魅惑的な充溢と、性格描写の円熟をそなえたアンサンブルである。 マンディーナと伯爵の二重唱は、もっとよく知られているツェルリーナとドン・ジョヴァンニの二重唱と同じくイ長調であって、やはり同じ誘惑的な甘美さに満ちている。
また、ロビンズ・ランドンもこれら2曲の挿入歌について次のように絶賛している。
半年前の『フィガロの結婚』と同じ水準のものである。 この時期のモーツァルトが手を触れたものは、ミダース王のそれのように、すべて金色に変わっている。
四重唱「せめておっしゃって、私がどんな過ちを犯したのか」(K.479)は、伯爵の城で目覚めたマンディーナ(S)が父ビアジョ(B)と婚約者ピッポ(B)の叱責に、涙ながらに弁明する三重唱で始まり、そこに伯爵(T)がかけつけて四重唱となるものである。 ウィーン初演では、マンディーナ役にコルテッリーニ(Cölestine [Celesta] Coltellini, 1760-1828)、伯爵役にカルヴェージ(Vincenzo Calvesi, 1760以前-1794以後)、ピッポ役にマンディーニ(Stefano Mandini, 1736-1824)、ビアッジョ役にブッサーニ(Francesco Bussani, 1743-?)が歌ったが、もちろんモーツァルトはこの4人のために作曲したのである。
『フィガロの結婚』と『ドン・ジョヴァンニ』のなかの人物像がすでに地平線上に現れているのがわかる。 ベルターティの伯爵はアルマヴィーヴァよりもさらに残忍で乱暴だというちがいがあるだけで、両者は近縁である。 ピッポはマゼットの原形である。 マンディーナはツェルリーナの原形であって、素朴で誘惑されやすい点でも後者に劣らない。
[アインシュタイン]
ちなみに、マンディーニは『フィガロ』初演(1786年5月1日)でアルマヴィーヴァ伯爵を、ブッサーニはバルトロとアントーニオをそれぞれ演じている。 また『ドン・ジョヴァンニ』初演(1788年5月7日)でブッサーニは騎士長とマゼット役を演じている。 さらに『コジ・ファン・トッティ』初演(1790年1月26日)では、ブッサーニはドン・アルフォンソを、カルヴェージはフェルランドを歌っている。

〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/4] t=6'29
Caroline Vitale (MS), Mardel Reijams (T), Ezio Maria Tisi (B), Christian Tchlebiev (B), Wilhelm Keitel (cond), European Chamber Orchestra
2002年6月、バイロイト劇場

〔動画〕


 

三重唱「いとしのマンディーナ」 K.480

Trio (Terzett) "Mandina amabile"
〔編成〕 S, T, B, 2 fl, 2 ob, 2 cl, 2 fg, 2 hr, 2 vn, 2 va, vc, bs
〔作曲〕 1785年11月21日 ウィーン

四重唱「せめておっしゃって、私がどんな過ちを犯したのか」(K.479)の前に歌われる曲。 マンディーナ役コルテッリーニ、伯爵役カルヴェージ、ピッポ役マンディーニのために。 モーツァルトは自作目録に上記日付で記載している。
なお、曲名「Mandina amabile」の訳語について、「やさしいマンディーナ」([事典]・[書簡全集]・[全作品事典])となっているが、ここでは昔ながらの「いとしのマンディーナ」のままにしておきたい。 意味が大きく違うわけではないので、当サイトのほかのページとの関連であちこち修正する手間を省きたいからである。

曲の内容は

伯爵はかわいいマンディーナに金をやるが、娘は素朴なので、どうしてそんなに親切にされるのかわけもわからない。 この情のこまやかな場面はピッポによって邪魔される。 そこで三重唱は三人の登場者の非常にまちまちな感情、つまりマンディーナのいぶかり、伯爵のひそかな勝利感、ピッポの荒々しい猜疑を展開する。
[アインシュタイン] p.584
というもので、「正確に言えば三重唱に拡大された二重唱」であり、アインシュタインは「マンディーナと伯爵の二重唱は、もっとよく知られているツェルリーナとドン・ジョヴァンニのニ重唱と同じくイ長調であって、やはり同じ誘惑的な甘美さに満ちている」という。

〔歌詞〕

Mandina amabile, questo denaro
Prendilo, tientilo tutto per te.
Oh come siete grazioso e caro!
Quanto denaro, tutto per me?

〔演奏〕
CD [Brilliant Classics 93408/4] t=5'00
Caroline Vitale (MS), Mardel Reijams (T), Ezio Maria Tisi (B), Wilhelm Keitel (cond), European Chamber Orchestra
2002年6月、バイロイト劇場

〔動画〕


 

 
 

Giovanni Bertati

1735 - 1815

1735年7月10日ヴェネツィア近郊マルテッラーゴ Martellago に生まれた。 1771年から1791年までヴェネツィアのサンモイーゼ劇場の台本作家として活躍。 ウィーンのブルク劇場でも彼の作品は多数上演されていた。

1787年の作品として、ガッツァニーガが曲を付けた『ドン・ジョヴァンニあるいは石の客人』がある。 このスペインの題材はしばしば脚色されてきたが、ダ・ポンテはこのベルターティの台本を直接の手本とした。 両者を比べると、ダ・ポンテのほうがはるかに詩作や脚色の能力が高いことが分かる。
[ブレッチャッハー] p.332
ウィーンでは啓蒙君主ヨーゼフ2世の死後、レオポルト2世は大規模な人事一新を断行し、そのときダ・ポンテは解雇され、1791年8月、その後任としてベルターティが宮廷劇場付詩人となった。 しかし競争が激しいその地位にはわずか2年しかとどまることができず、1793年にガメッラと交代させられた。 ベルターティがウィーンで書き残した代表作は、チマローザと組んだオペラ『秘密の結婚 Il matrimonio segreto』(1792年)である。

1798年に故郷ヴェネツィアに戻り、1815年12月に80歳の生涯を閉じた。
 


〔参考文献〕


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2018/10/07
Mozart con grazia