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歌曲「老婆」 ホ短調 K.517〔作曲〕 1787年5月18日 ウィーン |
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フォン・ハーゲドルン(Friedrich von Hagedorn, 1708-54)詞。
老婆(Die Alte)のくり言「昔は良かった」と歌う曲の内容に合わせて、有節形式の古い通奏低音歌曲のスタイルを意図的にとっている。
それには「古きよき時代を、皮肉を込めつつも、ノスタルジックに懐かしんでみせる」意味があるという。
また、作曲者は「いくぶん鼻にかかった声で Ein bischen durch die Nase」と指定している。
この曲が書かれた10日後(5月28日に)父レオポルトがこの世を去るが、それを予感したような有名な手紙がある。
1787年4月4日、父へ伏せ字「……」の部分は、[書簡全集 VI]によれば「父子がともにフリーメイスン結社に属していることを暗示しているのであろう」という。 父レオポルトは「事実をありのまま書く」ことなく死去。 のちにモーツァルト姉弟の間で父の遺産相続をめぐっていろいろと交渉が行われることになる。
死は(厳密に言えば)ぼくらの人生の真の最終目標ですから、ぼくは数年来、この人間の真の最上の友とすっかり慣れ親しんでしまいました。 その結果、死の姿はいつのまにかぼくには少しも恐ろしくなくなったばかりか、大いに心を安め、慰めてくれるものとなりました!
(中略)
ぼくがこの手紙を書いている間にも、あなたが快方に向かわれるよう願い望んでいます。 でも、あらゆる期待に反して恢復されないときは、どうか……にかけて、事実を隠さないでください。 事実をありのまま書くか、書かせるかしてください。[書簡全集 VI] p.385
あるときまで、父レオポルトはモーツァルトにとって神のように絶対的な存在であったが、しかし
レーオポルトの父親としてのあらゆる権威も、ヴォルフガングをしてレーオポルトの音楽から、自分に役立つ以上のものを受け取らせることはできなかった。 この場合、もちろん、二人が全くちがった世代に所属しているということもあずかって力がある。 なぜならレーオポルトは通奏低音の時代に生長し、いぜんとして、死滅した通奏低音時代に首を突っ込んでいたのであって、息子はこの時代を、『老婆』というリートのなかで面白くパロディー化している。モーツァルトがこの曲を作曲するとき、死を迎えつつある父親のことがまったく念頭になかったとは想像しにくい。 いくらか複雑な気持ちをもっていたに違いない。 なお、この年には『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)が書かれているが、その前後に多くの歌曲が作られ「歌曲の年」ともいわれる。 5月だけでも立て続けに次の4曲を書いている。[アインシュタイン] pp.159-160
ベルリンでまずさかんになったドイツ語歌曲の創作は、1770年代に、ウィーンにも飛び火した。 その最初の成果が、1778年におこなわれた、ヨーゼフ・アントン・シュテファンという作曲家の歌曲集出版であった。 これには、シュテファン自身の2つの続編がつづき、82年、84年には、ハイドンの歌曲集も出版された。こうして、「モーツァルトの意識に歌曲というジャンルが上るのがかなり遅かった」ことになり、「1785年、87年、91年の3つの年に集中している」のである。 しかもモーツァルトはまだ歌曲を「芸術的課題」として認識したわけではなかったのであり、アインシュタインは「モーツァルトは自分のリートにいささかの重きを置かなかった。 それは彼のオペラと器楽の作曲の副産物、補遺、余り物であった」とさえ言っている。 それでは、これらの「余り物」は、いつ、どんなときに書かれたのだろうか。
つまりモーツァルトは、こうした流れが起こりつつあったころのウィーンへと、移住してきたことになる。[磯山] p.113
きっかけは、ウィーンにおける交友を通じてあたえられた。 ゴットフリート・フォン・ジャカンを筆頭とする若い音楽家たちとの交流のなかで、モーツァルトの歌曲は書かれ、贈られ、歌われ、交換されたのである。 モーツァルト父子の手紙で歌曲が「交友曲 Freundstück」と呼ばれているのが、こうした事情を端的に物語っている。そうした交友の場で、この歌曲「老婆」が「いくぶん鼻にかかった声で」歌われ、「古きよき時代を、皮肉を込めつつも、ノスタルジックに懐かしんでみせる」(ジビュレ・ダームス [全作品事典] p.129)という演出を楽しむ陰に、モーツァルトのもう一つの顔(あるいは、死を迎えつつある父親に対する複雑な思い)が垣間見えるように感じられる。[磯山] p.114
〔歌詞〕
Zu meiner Zeit Bestand noch Recht und Billigkeit. Da wurden auch aus Kindern Leute, Aus tugendhafen Mädchen Bräute: Doch alles mit Bescheidenheit. (O gute Zeit!) Es ward kein Jungling zum Verräter, Und uns're Jungfern freiten später: Sie reizten nicht der Mutter Neid. O gute Zeit! |
私の頃にはね 正しいこと、当り前なことが通用した。 あの頃だって、子供が大人になり、 身持ちのいい娘が嫁になれた。 でも、みんな慎しみを知っていた。 (いい時代だったね!) 人を裏切る若者なんていなかった、 嫁に行くのも遅かった。 母親の男を取ったりしなかったのさ。 いい時代だったね! ・・・以下略・・・ 石井 宏 訳 CD[ARCHIV POCA-2066] |
〔演奏〕
CD [EMI TOCE-7589] t=4'34 シュワルツコップ Elisabeth Schwarzkopf (S), ギーゼキング Walter Gieseking (p) 1955年4月、ロンドン |
CD [EMI 7-63702-2] t=4'34 ※上と同じ |
CD [ARCHIV POCA-2066] t=4'13 マテウス Lotte Wolf Matthaeus (A), ノイマイア Fritz Neumeyer (hf) 1956年4月、フライブルク |
CD [PHILIPS 422 524-2] t=2'32 アメリンク Elly Ameling (S), ボールドウィン Dalton Baldwin (p) 1977年8月、オランダ、Musis Sacrum, Arnhem |
CD [PHILIPS 422 524-2] t=2'32 ※上と同じ |
〔動画〕
〔参考文献〕
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