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交響曲 第1番 変ホ長調 K.16
〔作曲〕 1764年12月か65年1月 ロンドン |
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産業革命を迎えつつあった豊かな都会ロンドンで活躍するクリスチャン・バッハやアーベルたちの公開演奏会に刺激を受けて作った。 少年モーツァルトが彼らの交響曲を熱心に研究したと思われる形跡が(K.17、K.18)残っている。 モーツァルトの第1番は急・緩・急の3楽章から成るイタリア風シンフォニアの構成。 翌年2月21日の演奏会(ヘイマーケットの小劇場)で発表されたらしい。
モーツァルトのシンフォニー作曲家としての出発は全くイタリア的だったが、彼がシンフォニーの形式と精神をイタリア人から受け取らず、一人のイタリア的ドイツ人、ヨーハン・クリスティアーン・バッハの手からすでに得ていたことは、象徴的のように感じられる。おそらくは父レオポルトが自分の息子の類まれな天分を、ロンドン滞在中に、当地の著名な作曲家クリスティアン・バッハに認めさせる目的で少年モーツァルトに交響曲を書かせようとしたのだろうが、モーツァルトの死後、姉ナンネルは、当時重病の父を気づかってピアノを弾くことができないでいたヴォルフガングがあらゆる楽器の作曲を試み、この最初の交響曲もそうした中で産まれたと回想している。
モーツァルトは8歳ないし9歳のときにロンドンで、無抵抗に彼の影響を受ける。 この影響は新しい別の感銘によって弱められたり、そらされたり、豊かにされたりしたとはいえ、長いあいだ彼のシンフォニー作法を支配しつづけるのである。 シンフォニー作曲家としてのモーツァルトは最初のうちは、自分の模範ヨーハン・クリスティアーンとちがったようには全然考えることも案出することもできない。[アインシュタイン] pp.302-303
(1800年1月22日)ただしこの交響曲にはトランペットもティンパニも登場しないので、ナンネルの記憶違い、記憶の混乱と思われている。 ザスローは「ひょっとすると、ナンネルはただ、弟のためにパート譜を作成しなくてはならなかったと言ってるだけだ、とも考えられよう」と推測している。
ロンドンで、私たちの父があやうく死にかけるほどの病気にかかったとき、私たちはクラヴィーアに触れることは許されませんでした。 そこで勉強のために、モーツァルトはあらゆる楽器、とくにトランペットとティンパニを伴う最初の交響曲を作曲しました。 私は彼のそばに坐って、この曲を書き写さねばなりませんでした。 彼が作曲し、私が写している間、彼は私にこう言ったものでした。 《ヴァルトホルンにぴったりのことができるようにぼくに注意してね!》[書簡全集 I] p.187
なぜならば、この時期に書かれた他の交響曲(K.19、K.19a、K.45a)が、レーオポルトとナンネルによるパート譜のセットというかたちで残っているからである。しかし「K.16のスコアは、実際にはヴォルフガングの手で書かれ、レーオポルトによって修正されている」という。 もしかしたら彼女(49歳)は、自分の弟の優れた才能を強調しようとするあまり、ほかの記憶と混同して結びつけ、まったく弟独自のアイデアで最初の交響曲を作り上げたのだと言いたかったのかもしれない。[全作品事典] p.210
モーツァルトとクリスティアン・バッハの関係に話を戻すと、モーツァルトの最初の交響曲の中間楽章が短調であることも注目すべきことである。 ド・ニは「ハ短調はモーツァルトにとって死を意味する調性である」といい、その調性が8歳の少年の最初の交響曲で用いられたことに驚いているが、このときモーツァルトがまさか父の死まで考えたわけではないだろう。 クリスティアン・バッハは1765年に「作品3」で6曲の交響曲を公にしたが、2曲は中間楽章が短調であるのは注目すべき事実であるとアインシュタインは指摘する。
ヨーハン・クリスティアーンの作品3番はこの少年に、自分の第1番シンフォニー(K.16)で早速、非常に感情的なハ短調の中間楽章を書く勇気を与えている。そして、その緩徐楽章にはホルンによって有名な「ジュピター音形」が奏されることも注目すべきことである。 その4つの音符「ドレファミ」はその後『小クレド・ミサ』(K.192)や最後の交響曲『ジュピター』(K.551)まで多くの作品の中に現れるものである。[アインシュタイン] p.304
最も象徴的なのは、彼の交響曲創作活動を締めくくるこの「ジュピター音形」が、実は、彼の交響曲の最初の作品、すなわち旧全集番号で第1番と呼ばれる変ホ長調(K.16)の第2楽章に見出されることだろう。 この緩徐楽章で、ホルンが奏する音形が、20数年後の最後の交響曲で、この上なく重要なモットーとなろうとは、おそらくはモーツァルト自身も予想だにしていなかったことであろう。さらに、この音形はモーツァルトの専売特許であると言う。[海老沢2] p.19
そればかりではない。 モーツァルトはこの音形を、ヘ長調のミサ・ブレヴィス(K.192 = K6.186f)やハ長調のミサ(K.257)のごとき声楽曲や、第33番変ロ長調(K.319)のような交響曲で、およそ10回を越えて用いている。 この「ジュピター音形」は、まことに重要なモーツァルト音楽の表徴のひとつなのだ。
ナンネルの回想にあるようにロンドン滞在中、レオポルトが病気で倒れている間に少年モーツァルトが練習用に書いた『ロンドン小曲集』が残っていることはよく知られている。 これらには父による修正が多くあり、また表紙にも父の筆跡でタイトルが書かれているが、この交響曲には「ヴォルフガング・モーツァルトの交響曲、ロンドンにて、1764年」と書かれているという。
これが正しければ、この交響曲はレーオポルトの病気の後、しかし新年よりは前、すなわちこの年の10~12月の間に書かれたものと思われる。 手稿譜の最初のページは、きちんと開始されているが、たちまちヴォルフガングとレーオポルトによる数多くの修正が、より大きく、よりぞんざいに書き込まれている。手本となるクリスティアン・バッハと肩を並べる作品に仕上げるために「芸術的・技術的にいかに悪戦苦闘したか、を見ることができる」とザスローは言う。 その苦労が実り、この交響曲は[全作品事典] p.210
モーツァルトの主要なモデルのひとつであったことが確実なヨハン・クリスティアン・バッハの作品3、カール・フリードリヒ・アーベルの作品7に含まれる交響曲との間には、長さ、複雑性、オリジナリティの点でほとんど相違がない。というものになった。 自筆譜はポーランドのクラクフにあるヤギェウォ図書館(Biblioteka Jagiellońska)が所蔵。同書 p.211
また、この交響曲は、父レオポルトが書き残した「ヴォルフガングが7歳から12歳までに作曲した作品の目録」(1768年頃)に記載されている「13曲の交響曲」(編成はヴァイオリン2部、オーボエ2、ホルン2、ヴィオラと低音弦)のうちの一つである。
余談であるが、13曲のうち現在まで残されているのは次の9曲であるという。
残る4曲のうち、3曲はイ短調(K.Anh.220 = K6.16a)、ヘ長調(K.Anh.223 = K6.19a)、それにハ長調(K.Anh.222 = K6.19b)で、いずれもライプツィヒのブライトコップフ・ウント・ヘルテル社が所属している手書きのモーツァルト作品目録に、曲首が書き出されており、それによって、失われはしたものの、こうした3曲が1765年のはじめごろ、モーツァルトの手で、ロンドン滞在中に生み出されたことが確かめられるのである。[海老沢1] p.77
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20360] t=12'52 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1978年頃、ロンドン |
CD [COCO-78044] t=10'06 グラーフ指揮 Hans Graf (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Salzburg Mozarteum Orchestra 1988年頃 |
CD [PILZ CD-160-176] t=12'46 リッツィオ指揮 Alberto Lizzio (cond), モーツァルト祝祭管弦楽団 Mozart Festival Orchestra 1990年頃 |
CD [BVCD 34019/21] t=13'47 アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1999-2000年 |
CD [Membran 203300} t=8'30 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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