Karl Friedrich Abel1725 - 1787 |
ロンドンで作曲家として、またヴィオラダガンバの名手として活躍していたドイツ系の音楽家。 ヨハン・クリスチャン・バッハと共に、一般に開かれた音楽市場を開くことを企て、1765年1月、ソーホーで世界で初めての会費制コンサートを開いた。 幼いモーツァルトが父に連れられてロンドンに滞在したとき、大きな刺激と影響を与えた。
関連するモーツァルトの作品
アーベルの作品
CD[Glossa GCD 920403] * Arpeggiata * Adagio * Allegro Paolo Pandolfo (va) ; 1997年 ※17〜18世紀のヴィオラ使用 |
Johann Schobert1735? - 1767 |
パリで活躍していたドイツ系の作曲家。
幼いモーツァルトが父に連れられてパリに滞在したとき、大きな影響を与えた。
1767年夏、妻子や友人たちとパリ郊外の森で散策中に採った毒茸を食べ、3日後の8月28日に中毒死したという。
そのとき食べたほかの人たちも同じく死亡した。
François-Joseph Heina1729 - 90 |
フランソワ・ジョゼフ・エーナ(François-Joseph Heina, 1729-90)またはフランツ・ヨーゼフ・ハイナ(Franz Joseph Heina)はプラハ近郊で生まれ、1764年にパリに移住。 ヴァルトホルン奏者としてフランスの大貴族コンティ公(Louis François de Bourbon, Prince de Conti, 1717-76)の楽団につとめていた。 ゲルトルート(Gertrud Brockmüller)と結婚し、ともに楽器を販売するかたわら楽譜出版業も営んだ。
モーツァルトは彼のもとで、1778年に3曲のピアノ変奏曲
モーツァルトは1778年に母マリア・アンナと二人でパリを訪れた際、彼の世話になった。 事実、ザルツブルクの父に「ぼくはグリムよりもハイナにずっと多く世話になっています」と伝えている。 パリ滞在はマリア・アンナ(当時57才)にとって心細い毎日であり、親切に面倒をみてくれたエーナ夫妻だけが心のより所であったろう。 彼女はその地で客死。
サン・トゥスタシュ教会 |
パリのモーツァルトからザルツブルクのブリンガー師へ(1778年7月3日)
夜の10時21分、母は息を引き取った。 そのとき居合わせたのは、ぼくのほかはぼくらの親友の(父も知っている)ハイナさんと付添婦だけだった。[書簡全集 IV] p.138
サン・トゥスタシュ教会の記載
1778年7月4日、土曜日。 同日、マリー・アンヌ・ペルトゥル、57歳、バイエルン、ザルツブルクの楽長レーオポルト・モーツァルトの妻、グロ・シュネ街で昨日死亡、息子ヴォルフガング・アメデ・モーツァルトと友人、国王近衛軽騎兵隊トランペット奏者フランソワ・エーナの立ち会いで、墓地に埋葬。 〔署名〕モーツァルト、F・エーナ。 助任司祭イリソン。葬列。[書簡全集 IV] p.140
〔参考文献〕