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交響曲 第7番 ニ長調 K.45
〔作曲〕 1768年1月16日 ウィーン |
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父レオポルトがまとめた作品目録に掲載された交響曲のうちの一つ。 自筆譜に日付がある。 ただし「1月16日」の部分はレオポルトの筆跡だという。 モーツァルトのシンフォニーとして初めて、この曲からトランペット(D管)とティンパニが登場。 この2つの楽器は18世紀後半から19世紀前半にかけて一緒に用いられた。 モーツァルトにおいても片方だけ用いられる例は少ない。 また、トランペットは当時C管、D管、Es管が実用されていたので、彼がこの楽器を使うのはハ長調、ニ長調、変ホ長調の曲に限られている。 唯一の例外はト長調シンフォニー(K.318)。
モーツァルト一家は1767年9月、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざしてウィーンへ旅立った。 しかしその頃ウィーンでは天然痘が大流行していたのでチェコのブリュノを経てオルミュッツへ避難した。 ところが姉弟も重い天然痘にかかり、弟ヴォルフガングは一時的に失明し、危険な状態にまでいったという。 奇跡的に回復し、1768年1月ウィーンに戻ることができたが、このときのウィーン訪問は少年モーツァルトに新しい感銘を与え、イタリア式の3楽章からメヌエットを持つ4楽章シンフォニー群が生まれる。
1768年の4つのシンフォニー(K.45、Anh.221、Anh.214、K.48)は、そこここに新しい向上をもたらしている。 しかし根本性格は相変らず社交的、祝祭的、ブッフォ的、イタリア的である。[アインシュタイン] p.305
ここでヴォルフガングは、ハイドン、ディッタースドルフ、レオポルト・ホフマンといった作曲家の最新のオーストリア・シンフォニーを直接学ぶことができた。 彼らの作った実験的で大胆な作品群は、長くモーツァルトの頭に印象づけられることになる。 ヴォルフガングはこの時、3曲または4曲(K43、K45、K.48に、K17=Anh.C11.02という整理の手違いの疑いのある作品)のシンフォニーを書いた。 ここでも少年の腕は、巨匠の作品にはとても及ばない。 しかし、それらの曲は生き生きとした作品で、将来が約束されている。このような作品群のうち、ウィーンに戻ってすぐさま書き上げたのがこの曲である。 作曲の目的ははっきりせず、ウィーンでこの時期に少年モーツァルトの公開コンサートが催された記録がないことから、私的な演奏会のためと思われている。 父レオポルトの願いが通じ、女帝マリア・テレジアと戴冠したばかりのヨーゼフ2世と謁見することができたが、ただし演奏会は行う機会は得られなかった。 レオポルトはザルツブルクのハーゲナウアーにその残念な気持ちを伝えている。[ランドン] p.165
1768年1月30日ここからレオポルトの粘り強い活動が始まる。 皇帝ヨーゼフ2世からオペラの作曲依頼と作曲者自身の指揮による公演という提案を引き出すことに成功し、その実現のためありとあらゆる手を尽くして動き回ることになる。 しかし当然のことながらウィーンの音楽界を牛耳っているイタリア人たちには迷惑な話であり、マリア・テレジアをはじめ宮廷との摩擦を拡大していったようであり、陰謀、妨害がモーツァルト父子を苦しめ、結局のところオペラは完成したがウィーンで上演されずに終ってしまう。 その中心人物であった帝室劇場請負人ジュゼッペ・アフリジョ(当時49才)の名前を使って、それを「アフリジョ事件」と言うこともあるようである。 レオポルトはヨーゼフ2世に長文の「事件供述書」を提出し、具体的にどのように不当な妨害にあい、自分と息子の名誉が傷つけられたを書き残している。
宮廷の経済状態ももうひとつの事態で、これがおのずから多くの結果を招来します
(中略)
皇太后陛下はもはや奏楽を身近ではおさせにならず、オペラにも、芝居にもいらっしゃらず、そのご生活ぶりは俗世界からたいそう遠ざかっておられるので、私にはこのことを十分にご説明することは不可能なほどです。[書簡全集 I] p.321
これが、オペラを1曲書くというたいへんな骨折り(あの子が自分で書いたものは558ページにも達しています)や、失われた時間、それに無駄な出費に対して、愚息に与えられました報酬なのでありましょうか?このとき書かれたオペラとは『ラ・フィンタ・センプリチェ』(K.51 / 46a)であり、実はこの交響曲第7番からメヌエット楽章を除いた部分をその序曲に使ったのである。 そして今度はその序曲がもう一つの交響曲(3楽章から成る)となっているので、ややこしい。 この交響曲第7番の自筆総譜には第1と第3楽章の速度指示が書かれていないが、オペラ『ラ・フィンタ』の序曲はモルト・アレグロと指示されているので、新全集はこの交響曲第7番に対しても同様と解釈している。同書 p.368
余談であるが、1767年春にアフリジョがブルク劇場とケルントナートール劇場の興業権を得て、パリから先進的な舞踏家ノヴェール(Jean Georges Noverre, 1727-1810)の一座を招いて成功していた。 ノヴェールには息子ひとりと娘ふたりがいたようであるが、長女ヴィクトワール(Louise-Victoire, 1749-1812)は1768年9月8日にヨーゼフ・ジュナミと結婚、少年モーツァルトがウィーン滞在中のことであった。 このジュナミ夫人こそ9年後にモーツァルトが書いた通称「ジュノム協奏曲」(K.271)と縁のある女性であり、二人の最初の出会いがこの頃にあったと思われる。
もう一つ余談であるが、モーツァルト一家がザルツブルクに帰郷するのはかなり遅れて1769年1月5日になった。 このあまりに遅い帰郷のためレオポルトの俸給は1768年3月から停止されていた。 彼は差し止め解除を大司教に請願することになる。
1769年3月この請願は承認され、1769年1月分から俸給が支給されたという。 したがって1768年4月から9ケ月間は俸給なしの状態だった。
数け月お差し止めの俸給支払い復活につきましてご承認下さいますよう、恐れながら請願申し上げます。
大司教猊下におかせられましては、先ごろ私が家族とともになお数か月ヴィーンに滞在することをお許しくださいましたが、また帰着いたしますまで私の俸給を差し止めるようお命じになりました。 しかしながら、このヴィーン滞留は私の意に反するものであり、かつ私の不利益となるものでありましたため、私は自分および愚息の名誉を守るためにも、より早くヴィーンを立ち去ることができませんでした。[書簡全集 II] pp.13-14
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20361] t=12'10 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1978年頃、ロンドン |
CD [COCO-78045] t=11'14 グラーフ指揮 Hans Graf (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Salzburg Mozarteum Orchestra 1989年 |
CD [CAPRICCIO 10322] t=11'17 グラーフ指揮 Hans Graf (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Salzburg Mozarteum Orchestra 1989年9月 |
CD [Membran 203300] t=8'39 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
CD [BVCD 34019/21] t=13'17 アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1999-2000年 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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