Mozart con grazia > ミサ曲
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K.257 ミサ曲 第9番 ハ長調「クレド・ミサ」

  1. キリエ Andante maestoso ハ長調
  2. グロリア Allegro assai ハ長調
  3. クレド Allegro molto ハ長調
  4. サンクトゥス Allegretto ハ長調
  5. ベネディクトゥス Allegro ヘ長調
  6. アニュス・デイ Andante maestoso ハ長調

〔編成〕 S, A, T, B, SATB, 2 ob, 2 tp, 3 tb, 2 vn, bs, og
〔作曲〕 1776年末〜77年初 ザルツブルク

1776年11月




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作曲の動機、時期は不明。 E.シェンクによればブリクセンのシュパウル伯爵(Ignaz Joseph Graf Spaur, 1727~79)のために作曲したとも推測されている。 彼はザルツブルク司教から1776年にブリクセン司教になり、1776年11月17日に、ザルツブルクで叙任式が行われたが、そのときモーツァルトのミサ曲が使われ、もしかしたらこの「クレド・ミサ」だったかもしれないという。

有名な「ドレファミ」音型によるクレドの語を何度も繰り返すことからこの呼び名がついた。 同様のミサ・ブレヴィス「第6番ヘ長調」(K.192)があり、区別するときはそれを「小クレド・ミサ」、この「第9番ハ長調」を「大クレド・ミサ」と呼ぶ。 よく知られているように、この音型は「ジュピター音形」と呼ばれ、彼の最初の交響曲(K.16)から最後の交響曲(K.551)まで繰り返し愛用されているものである。 ただしこのミサ曲ではサンクトゥスにその音型が使われている。

この曲はアインシュタインによれば「モーツァルトの教会音楽の様式における内なる革命的」作品といわれる。

1776年の11月および12月に、モーツァルトは三つのミサ曲をつぎつぎに書いている。 同年春の二重合唱の奉献誦(K.260)と、これらのミサ曲の最初のもの(K.257)とのあいだには、もしこの両作品だけしか知らないとすると、二人の別な作曲家の存在を信ぜざるをえないほどの深淵が横たわっている。
いったい、なにごとが起ったのか? 或る震撼的な体験をきっかけに、モーツァルトをしばらくのあいだ、もっぱら教会音楽だけに向わせる革命が彼の内面に生じ、また教会音楽の様式に関する彼の観念のなかにも、同時に革命が生じたにちがいない。
[アインシュタイン] pp.457-458
モーツァルトが1776年9月4日にボローニャのマルティーニ神父に宛てて
われわれの教会音楽はイタリアのそれとは大層異なっておりまして、キューリエ、グローリア、クレード、教会ソナタ、オッフェルトーリオあるいはモテットなりサンクトゥス、およびアニュス・デイをすべて具えたミサ、さらにもっとも荘厳なミサよりもつねに長いのでありますが、そのミサを君主お自身が唱えられます時には、45分以上かかってはいけないことになっています。 この種の作曲のためには、特別の研究が必要であります。 それにしましても、それはすべての楽器(戦闘用のトランペット、ティンパニ等も)を用いたミサにならなければなりません。
[手紙] pp.41-42
と書いていることはよく知られているが、彼の内面に生じた革命とは「今度は大司教のことを考慮してではなく、自分自身の利益のために熟考したにちがいない」(アインシュタイン)ものであった。 それは「さらに非教会的であり、いっそう心がこめられ、より単純、より個性的な、リート風の教会音楽」(アインシュタイン)であった。 それを踏まえて、ド・ニは次のように述べている。
もはやモーツァルトは明らかに、衒学的な対位法を用いることだけが、典礼音楽特有の様式であるとは考えなくなっている。 もちろんポリフォニーの技法をまったく使用しなくなったわけではなく、むしろそれは音楽の表現力を強めるための手段のなってゆく。 このことは作曲家モーツァルトの成長の過程で、とくに宗教音楽の進歩を促す主要な財産の一つともなったのである。
日ごろ彼が意を注いでいる音楽の機能的な理想を実現するために、曲を短くそして密度を高めるように努力を払っているのである。 つまり極限にまで狭められた音楽空間のなかで、可能な限り豊かな表現をもつ音楽を作曲するようになったのである。
[ド・ニ] pp.47-48
さらに、もっとわかりやすく言えば、このころのモーツァルトの内面に以下のような意識が強く現れてきたからである。
1770年代のモーツァルトは、意識的にポピュラーな教会音楽を書こうとしていた、という新説が出されている。 つまり、彼の書いた大司教のための楽しいシンフォニーやディヴェルティメントやセレナードは、宮廷人や土地の貴族にしか聴いて貰えず、一般の人の耳には届かなかったからで、一般人に聴けるものといえば、ダンス音楽(モーツァルトはたくさん書いているが、何曲かは大変に美しい)か、教会音楽だけだった。 ザルツブルク近郊の教会や高地オーストリア(首都はリンツ)の教会を調査した最近の研究では、ミサ曲K257、259、262、275のような1775年と76年の作品(275は次の夏の作品)群は、手書きの譜でこれら近隣の教会におびただしく流布されており、極めてポピュラーになっていたことが判った。 実際のところ、ラント・ザルツブルクや高地オーストリアの多くの人は、長年にわたって、モーツァルトの音楽といえば、これらの教会音楽しか知らなかったのである。 これらの「ポピュラーな」ミサ曲の中で最も偉大な作品は、輝かしい『クレードー』ミサK257で、若さの活力と躍動するリズムにあふれ、最初から最後まで人をとらえて放さない。
[ランドン] pp.50-51

〔演奏〕
CD [WPCC-4859] t=24'54
アルノルト・シェーンベルク合唱団, アーノンクール指揮ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス
1991年

〔動画〕

 

〔参考文献〕

 

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2015/02/01
Mozart con grazia