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交響曲 ト長調 「ランバッハ」 K.Anh.221
〔作曲〕 1766年 ハーグ |
1767年9月11日、モーツァルト一家はウィーンへ旅立った。 目的は皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざしたものであり、15日に到着した。 ところが、この頃ウィーンでは天然痘が大流行していて、10月15日に皇女ヨゼファが天然痘で死亡。 一家は天然痘を避けてウィーンを脱出、10月26日、チェコのオルミュッツ(オロモウツ)に着いたが、しかし、まずヴォルフガングが、次に姉ナンネルも天然痘にかかり、かなり危険な状態にまで至ったことはよく知られている。 二人の子供は奇跡的に回復し、一家はウィーンに戻ることができたが、ザルツブルク帰郷は大幅に遅れて、1769年1月5日となってしまう。 その前日、リンツ経由の帰途、ザルツブルクから約80km離れたランバッハ村の修道院に宿泊。 その古いベネディクト派修道院にレオポルトは自分の交響曲を15曲も奉納していて、深い縁のある所であった。 このときモーツァルト父子はそれぞれ自作の交響曲の筆写譜を寄進したが、それがこの曲であった。
この曲は19世紀初めの手書きカタログ「モーツァルトの全作品の主題目録」に記載されてあったが、楽譜の所在が確認できない作品として「K.Anh.221」に置かれていたものだった。 それが上記のように、ランバッハの修道院で見つかったのである。 発見者はオーストリアの音楽学者フィッシャー(Willhelm Fischer)で、1923年のことだった。 彼は1767年秋頃に書かれたものと考えたが、アインシュタインは楽譜に「1769年1月4日、作者より贈られる」と書かれてあることを考慮し、1768年初めの頃の作品と認定し、1768年1月16日の日付をもつ交響曲第7番(K.45)に近い「K.45a」の番号を与えた。 そして発見された地名にちなんで『ランバッハ』と呼ばれようになった。
1964年、大胆な仮説が提示され、事態は一変することになった。 すなわち、アーベルト(Anna Amalie Abert)による細部にわたる例証から、このメヌエットをもたない3楽章の『ランバッハ』は父レオポルトの作品であり、同じときに父が寄進したメヌエットをもつ4楽章から成るト長調シンフォニーの方が実はモーツァルトの作品であり、これらの曲の作者は逆であるという説を発表したのだった。 確かにアインシュタイン推定の「1768年初めの頃」とすればイタリア風の3楽章シンフォニーは様式的に不自然である。 写譜家が父と子の名前を書き間違えたとする、この画期的な説は広く受け入れられ定説となり、「K.Anh.221」の『ランバッハ』は『旧ランバッハ Alte Lambacher』と呼ばれ、かわりに父の作品とされていた曲が『新ランバッハ Neue Lambacher』と呼ばれるようになったのである。
ところが1982年2月、モーツァルテウム国際財団の機関紙に、ミュンヘン州立図書館音楽部長ロベルト・ミュンスター氏の寄稿が発表され、さらに大転回することになった。
ところが《新ロンドン交響曲》が含まれていた同じ私的コレクションに、従来の《ランバッハ交響曲》のパート譜の一揃いが含まれていたのが発見された。 12葉から成るこの楽譜は、レーオポルト・モーツァルト、それに姉娘のマリーア・アンナ、すなわちナンネルともうひとり名前未詳の写譜家によって筆写されたもので、表題には次のように謳われていたのだ。これによって、1923年にランバッハの修道院で見つかった『(旧)ランバッハ』がやはりモーツァルトの真作であると認められることになった。 ただし成立時期が一気に早まり、同じ時期の《新ロンドン交響曲》などと楽章の構成や様式が共通し、その意味でアーベルトが指摘した「1769年の時期にモーツァルトがイタリア風の作品を書くはずがない」という問題が氷解した。 こうしてこの曲の成立が明らかになった以上、アインシュタインによるケッヘル第3版以来の番号「45a」は改められなければならない。 1765年12月末にハーグで書かれた交響曲第5番変ロ長調(K.22)のあとに位置付けられ、たとえば「K.22a」のように改訂されるかもしれない。
《シンフォニーア、ヴァイオリン2、オーボエ2、ホルン2、ヴィオラとバス、ザルツブルクのヴォルフガンゴ・モーツァルト、ハーグにて、1766年》 しかも、このタイトルの筆跡はレーオポルト・モーツァルトのものであった。[海老沢] p.84
よく知られているように、モーツァルト一家は1763年6月から1766年11月末までおよそ3年半に及ぶ西方への大旅行に出ているが、この旅行もそろそろ終り頃の1766年1月から3月にかけてオランダに滞在していた。 このときにこの曲が作られ、父や姉の手で筆写されたのがオリジナル・パート譜である。 それから翌1767年9月に一家はウィーン旅行に出かけ、その帰途、1769年1月4日にランバッハに残したのはその写譜である。 ザスローによれば
この2つの稿は、まったく同一の作品の異稿である。 付け加えられたり、削除されたりした小節は1つもなく、新たな楽想も導入されていない。しかし大小さまざまの細部に変更が施されているという。[全作品事典] p.219
ヴォルフガングが勉強だけを目的として交響曲を改訂することはまずなかったであろうから、大旅行を終えた1766年12月からヴィーン旅行に向けて出発する1767年10月までの間に、彼はザルツブルクで、第2稿を演奏する機会をもったはずである。 ザルツブルクでの演奏(複数回かもしれない)の成功ゆえ、レーオポルトはヴィーン旅行に、この作品を携えていく気になったに違いない。そのウィーン旅行の際、ほかの作品も携えていたであろう。 それらの中からこの曲を選んでランバッハの修道院に奉納したと考えるならば、何かの理由があったのかもしれない。 何事にも几帳面なレオポルトが無作為に(あるいは適当に)選曲することは考えにくい。 1765年末から翌66年初めにかけてモーツァルト姉弟は重症のチブスにかかり、危険な状態にまでなったことがある。 その直後に書かれたのがこの曲であれば、想像をたくましくすれば、天然痘から奇跡的に一命を取りとめて、あのときと同じように帰郷の途にあるレオポルトにとって奉納すべきはこの曲以外にあり得なかったであろう。 そして2度も子供たちの命を救ってくれたことで、深々と神に感謝の祈りを捧げたに違いない。
〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20362] t=14'18 ホグウッド指揮 Christopher Hogwood (cond), エンシェント室内管弦楽団 Academy of Ancient Music 1978年頃、ロンドン |
CD [COCO-78045] t=11'01 グラーフ指揮 Hans Graf (cond), ザルツブルク・モーツァルテウム管弦楽団 Salzburg Mozarteum Orchestra 1989年 |
CD [CAPRICCIO 10322] t=11'01 ※上と同じ |
CD [Membran 203300] t=8'33 Alessandro Arigoni (cond), Orchestra Filarmonica Italiana, Torino 演奏年不明 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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