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ミサ曲 第6番 ヘ長調 「小クレド・ミサ」 K.192 (186f)
〔作曲〕 1774年6月24日 ザルツブルク |
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ミサ・ブレヴィス。 簡略な楽器編成と、切り詰めた内容で密度の高い作品(アーベルトによれば、モーツァルトの初期教会音楽の最高峰)として有名である。 楽器編成中のトランペットは(作曲者自身が)あとで追加したものであるという。 ザルツブルクに特有な時間的制約が課せられたために、キリエとアニュスデイに短い序奏があるのみで、ほかはすぐ合唱から始まる。 よく知られているように、モーツァルトは1776年9月4日にボローニャのマルティーニ神父に宛てた手紙で
われわれの教会音楽はイタリアのそれとは大層異なっておりまして、キューリエ、グローリア、クレード、教会ソナタ、オッフェルトーリオあるいはモテットなりサンクトゥス、およびアニュス・デイをすべて具えたミサ、さらにもっとも荘厳なミサよりもつねに長いのでありますが、そのミサを君主お自身が唱えられます時には、45分以上かかってはいけないことになっています。 この種の作曲のためには、特別の研究が必要であります。 それにしましても、それはすべての楽器(戦闘用のトランペット、ティンパニ等も)を用いたミサにならなければなりません。と書いている。 コロレド大司教が求めた窮屈な制約は並の作曲家には致命的であったかもしれないが、18才のモーツァルトにとっては当然乗り越えるべき試練であり、彼自身の言葉の「特別な研究(イタリア語で un studio particolare)」により、極度に凝縮された内容でありながら表現力の強い教会音楽をいくつも書き上げていくことになったのであった。 ド・ニが[手紙(上)] pp.41-42
彼は自らに課せられた束縛のなかで、曲の構成の統一性をより完全にしようと努力したのである。 この束縛は結果として有益であった。 というのは、そのおかげで曲の密度が高まっただけでなく、表現力が極限にまで深化され、強化されているからである。と述べているとおりである。 また、ハルブレイヒはこのミサ曲について、[ド・ニ] p.40
控え目な規模(オーケストラはヴィオラなしの弦楽器群のみからなる)であるが、先に書かれた《ミサ曲》K.167 よりも聴く者を説得させ、心底から生れた作品であることを印象づける。 また K.167 よりも声を主体とすることが意識され、四重唱がとり入れられている。 各動機は徹底して短く、合唱はすばやく歌い進んでいくにもかかわらず、旋律線は柔軟で、優雅で、優しい。と高く評価している。[全作品事典] p.25
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12月6日、モーツァルトはオペラ『偽の女庭師』(K.196)の上演のために父とミュンヘンへ出発した。 1775年2月15日、滞在先のミュンヘンからレオポルトはマリア・アンナに手紙を送っているが、その中で
去る日曜日にはヴォルフガングの小ミサ曲が宮廷礼拝堂で演奏され、私が指揮をしました。 日曜日にはまたもう一曲が演奏されます。と書いている。 ここで「去る日曜日(2月12日)」に演奏されたと書かれたミサ曲は「ヘ長調 K.192」であり、次の日曜日19日に予定されているミサ曲は「ニ長調 K.194」だろうと思われている。[書簡全集 II] p.470
ところで、このミサ曲は「小クレド・ミサ」と呼ばれている。 それは、最初の交響曲 K.16 から最期のハ長調交響曲『ジュピター』(K.551)まで使われ続けた4つの音符「ドレファミ」による音形(そのため「ジュピター音形」とも呼ばれる)が繰り返し使われていることによる。
このミサ曲のクレドは四つの音符による動機によって、音楽的観点から見れば統一性が、典礼的観点から見れば高い効果が与えられていることに驚かされる。 この同じ動機による「われは信ず」(クレド)という歌詞は、リフレインのように全曲にわたって12回繰り返される(キリストの12人の弟子を象徴しているのだろうか)。この特徴的な音形の使用は、ミサ曲第9番ハ長調 K.257 でも同様であり、それが「大クレド・ミサ」と呼ばれるのに対して、この K.192 の方は「小クレド・ミサ」と呼ばれる。 これについて、アインシュタインは
(中略)
クレドの最後は同じ動機で閉じられるが、「来世の生命とを待ち望む」の、ごく短いけれども印象的なフガートの動機も同じものである。 このようにモーツァルトは、すでに若いときの作品から、音楽語法の明確さと統一性とを示しているのである。[ド・ニ] pp.40-41
もちろんヘ長調ミサ曲のクレドは、繰り返す声楽の冒頭モティーフ---すなわち、偉大なハ長調シンフォニー(K.551)のフィナーレにいたるまでモーツァルトの全生涯に随伴する四音符のモティーフ---によっても、統一されている。 それはつねに新たな対位法をもって、再三再四「クレド」(ワレ信ズ)と誓言する。 そして最後には、ストレッタと伴うフガートの「アーメン、アーメン」となって、再び帰ってくるのである。 この略式ミサ曲は、大規模で才気渙発なこの楽曲のおかげで、すでにほとんど真正のクレド・ミサ曲になっているのであって、実際にそう呼ばれているのちのハ長調ミサ曲(K.257)よりも、はるかにこの名にふさわしいであろう。と評し、大小の比較について内容的な差がないことを強調している。 モーツァルトはこの音形を「意式的にも、無意識的にも好んだ」といわれ、声楽曲で、交響曲で、「およそ10回を越えて用いている、まことに重要なモーツァルト音楽の表徴のひとつである」と海老沢と言う。[アインシュタイン] p.452
しかも、それだけにとどまらない。 この「ジュピター音形」は、ただたんにモーツァルトの専売特許であったばかりでなく、実にさまざまな時代の、さまざまな作曲家によって、用いられているものでもある。 それは16世紀の巨匠パレストリーナのモテットやアレッサンドロ・スカルラッティのミサから、バロック音楽の代表者バッハの『平均率クラヴィーア曲集』第2巻ホ長調フーガ、ヘンデルのオラトリオ『マカベアのユダ』第3幕「天の父よ」、さらにモーツァルトの師にして友であるハイドンの『交響曲第13番ニ長調』第4楽章から、ベートーヴェンの『ピアノ・ソナタ第14番嬰ハ短調(月光)』(作品27の2)第2楽章トリオ、シューベルトの『ミサ ヘ長調』(D105)「クレード」、メンデルスゾーンのオラトリオ『聖パオロ』第30曲二重唱にも及んでいる。
(中略)
この音形が、時代を越えてヨーロッパ音楽の中に根ざす象徴的な音形であるということになるだろう。[海老沢] pp.19-20
続くサンクトゥスとベネディクトゥスは、ド・ニによれば、通常の伝統に反して徹頭徹尾ポリフォニーの様式で処理している。 そして最後のアニュス・デイは短調で始まるが、それが結末まで沈み込んでゆくのではなく、途中で一変してヘ長調のアレグロ・モデラートになる。 その部分について、ド・ニは
ニ短調で始まるアニュス・デイも非常に表現力が豊かで、それが長調に転調して「われらに平安を与えたまえ」の、なごやかな気分になっていく様子は印象的である。と、18才のモーツァルトが示した見事な解決に舌を巻いている。[ド・ニ] p.41
余談であるが、お人好しのモーツァルトは自分の作品を簡単に人の手に渡す癖があり、そのことでレオポルトの心配は絶えなかった。
1777年9月23日、モーツァルトは母と二人でザルツブルクを旅立ちパリへ向かった。
途中10月に父の故郷であるアウクスブルクに滞在したとき、ハイリヒ・クロイツ(聖十字架大聖堂)修道院に足を運んでいる。
21歳のモーツァルトはその修道院の修士たちともすぐ「まるで20年以来の知り合いのように」仲良くなったが、それはベースレ(マリア・アンナ・テークラ)が前もってどんな人物かモーツァルトに話してくれていたからだった。
このときモーツァルトは初対面の院長(その男をモーツァルトは「世界一のお人好し」と言っている)に数曲のミサ曲(K.192、K.220)と奉献歌(K.222)の楽譜を貸したのである。
また、ベースレはそこで「総監督」の役を演じていたという。
「世界一のお人好しの男」がそう簡単に修道院の院長になれるだろうかという疑問はさておき、そのうえ彼らはミサ曲以外にリタニアもモーツァルトから手に入れようとした。
モーツァルトが「持っていない」と答えると、「いや、あるはずだ。隠しているのだ」と探したという。
それに対してモーツァルトは「ここには持ってきていないが、ザルツブルクの父が持っているから手紙で送ってもらうように頼んでください」と答えに窮している。
貸してしまったミサ曲はあとですべて返してもらったと思われるが、モーツァルトは奉献歌(K.222)を「真っ先に返して欲しいと望んだので、無事に戻りました」と父に伝えている。
ベースレは彼らの手引きの役割を果していたのだろうか。
このときの件で、彼女は見返りに何かをもらったとしても不思議ではない。
従姉妹のベースレが仕切っていた現場で、父の束縛から自由になった青年モーツァルトの脱線した(良俗に反するような)姿を想像することもできる。
あるいはそれは当時19才のベースレちゃんに翻弄されているお人好しで初(うぶ)な若者の姿だったかもしれない。
この有名なモーツァルトの従姉妹はどんな女性だったのだろう。
手に負えない不良少女ではなかったと思うが、のちに1784年に(彼女が26歳のとき)ある高位の聖職者を父とする私生児の母となり、83歳の長寿をまっとうした彼女の人生は興味深い。
〔演奏〕
CD [BMG BVCD-3008-09] t=20'03 アウクスブルク大聖堂少年合唱団室内合唱隊 Kammerchor der Augsburger Domsingknaben, カムラー指揮 Reinhard Kammler (cond), コレギウム・アウレウム合奏団 Collegium Aureum 1990年6月 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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