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混成曲「ガリマティアス・ムジクム」 ヘ長調 K.32

  1. Allegro molto ニ長調 4/4 13小節
  2. Andante ニ短調 2/4 18小節
  3. Allegro ニ長調 2/4 20小節
  4. パストレラ ト長調 3/4 16小節
  5. Allegro ニ長調 3/8 16小節
  6. Allegretto イ長調 2/4
  7. Allegro ニ長調 3/8
  8. Molto adagio ト長調 3/4
  9. Allegro ハ長調 3/8
  10. Largo ニ短調 3/4
  11. Allegro ニ長調 3/8
  12. Andante ヘ長調 2/4
  13. Allegro 変ホ長調 2/4
  14. Menuetto ヘ長調 3/4
  15. Adagio ニ短調 3/4
  16. Presto ニ短調 3/8
  17. フーガ ヘ長調 2/2
〔編成〕 2 ob, fg, 2 hr, hc, 2 vn, va, bs
〔作曲〕 1766年3月 ハーグ

1763年6月9日、モーツァルト一家は西方への大旅行に出発し、故郷ザルツブル クに戻るのは、約3年半後の1766年11月29日だった。 旅の途中、1765年9月から1766年4月にかけて、一家はオランダに滞在していた。 それは予定外の滞在だった。
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と言うのは、1765年7月24日に一家はロンドンを出発し、ドーヴァー海峡を渡り、大陸に戻ったあと、レオポルトはイタリアへ向い、ミラノとヴェネツィアを回ってからザルツブルクに帰るつもりでいた。 ところが、ロンドンを離れるとき、当時18歳のオランダ総督オランニエ公ヴィレム5世(Willem V, Prinz von Oranien, 1748-1806)の命を受けたオランダ駐英大使の熱心な懇願により目的地を変更せざるを得なくなったからである。 用意周到な計画を信条とするレオポルトが変更を決心するとはよっぽどのことであろうが、その理由としては当然のことながら相当な収入が得られると見越してのうえである。 ただしそこは彼一流のユーモアで「お腹の大きな女の人からの願いは断ってはいけない」からだとしている。 ここでの「お腹の大きな女の人」とは、ヴィレム5世の姉フォン・ヴァイルブルク侯妃カロリーネのことである。 オランダのハーグ(デン・ハーク)に着いたあと、レオポルトは「8月をオランダで過ごし、9月末にはパリへ行く」つもりでいたが、ところがよく知られているように、この頃、モーツァルト親子が次々に病気で倒れたのであった。

1765年9月19日、デン・ハークからザルツブルクのハーゲナウアーへ
ところでふたたび、私ども人間の計画なぞまったくの無価値なものだという見本がやってまいります。 リルでヴォルフガングがたいへん烈しいカタルにかかりましたが、この子が二週間ほどでいくらかよくなると、今度は私に順番が回ってきました。
[書簡全集 I] p.235
この病気は3年前にかかった「連鎖状球菌の感染による頸部の結節性紅斑」の再発と考えられているという。 さらに、この病気から回復したのち、姉と弟はもっと重い病気にかかってしまったのである。 レオポルトは妻マリア・アンナと交代で看病し続けていたが、このときばかりは娘ナンネルの死を覚悟するまでになっていた。 幸いにも奇跡的に一命ををとりとめることができたが、休む暇なく次は息子ヴォルフガングの番となったのである。 1765年12月12日にはハーゲナウアーへ次のように知らせている。
娘がベッドを離れて一週間、そしてひとりで部屋の床を歩き慣れたか慣れないうちに、11月15日、ヴォルフガングが病気に襲われまして、彼は四週間というもの、この病気のためにまことに惨めな状態におちいり、まったく意識がなくなったばかりか、柔らかな皮と小ちゃな骨骸のほかなんにもなくなったほどでした。 今では五日前から、毎日ベッドから安楽椅子に運ばれています。
同書 p.249
1766年3月





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そして1766年にかけてようやく回復し、そのために旅行が延ばされてしまうことになったのである。 このようななかで、1766年3月7日から12日まで続いていたオランニエ公ヴィレム5世の即位式とモーツァルト一家の滞在が重なったのである。 ヴィレム5世は1751年に3歳で父ヴィレム4世のあとを継いでいたが、18歳の成年に達したこの年から自ら政治を行うことになり、それを祝う祭典が数日続き、幼いモーツァルトはその祝いの式典用に(食卓音楽として)この曲を作ることになったと思われる。

父レオポルトはこの小品を「ガリマティアス・ムジクム Galimathias Musicum と題したクォドリベット Quodlibet」と記し、初期のモーツァルト作品目録に記載している。 クォドリベットとはラテン語の「quod(英語 what)」と「libet(英語 pleases)」を組み合せた言葉で「あなたを喜ばせるものはなんでもありますよ」という意味になり、16〜18世紀に流行した通俗的な混成曲である。 題名にある「Galimathias」はよくわからない。 この語源となるものが不明であり、文字通り「わけの分からない言葉(話)」または「ちんぷんかんぷんの言葉(話)」である。 それで「脈絡なく次から次へと続く音楽で、あなたの好きなものがいろいろ出てきますよ」という意味を気取って、レオポルトは「ガリマティアス・ムジクムと題したクォドリベット」と書いたのだろう。 それを物語るように、この作品は当時の誰でも知っている曲で構成され、お客を飽きさせないように親しみやすく短い曲が次々につらなって演奏され、また、全部の楽器に独奏する機会が与えられている。 聴衆も「この曲、知ってる知ってる」と喜んで聴いたに違いない。 このような作品を仕上げるうえで、レオポルトは「オランダのパトロンに対する捧げ物」として十分な効果を発揮するように考えたのは当然であり、そしてそのためには10歳の少年にあれこれ知恵を授け、みずからも手を加えたのも自然でなことである。

自筆稿は両者の筆跡が入りまじっており、第五曲、第九曲、第十二曲の大部分はレオポルトの筆跡で、第十八曲のフーガでも第四十五小節から第百三十二小節まで、レオポルトがモーツァルトのあとを受けて書いている。
(中略)
この曲が田舎のダンスや宮廷舞曲との混淆からできている点は、レオポルト自身が以前に書いた標題音楽のスタイルに似ているし、部分的には後者からの引用すら含まれている。 だがこの曲に感じられるのは、親子の共同作業の自然さであり、父と子がこうして一緒に作業し、それによって一家の繁栄が推し進められる機会ができることを、二人が喜んでいる様子さえ思い浮かべられよう。 まして、それがモーツァルトの奇蹟を大衆に認知させることになり、結果として一家の収入が増えるとあれば、よけいめでたいことであろう。
[ソロモン] pp.94-96
聴衆が喜びそうな通俗的な曲を書くのはレオポルトの得意とすることだった。 このときはモーツァルト父子が喜んで共同作業したのかもしれないが、息子の方は通俗的な作品をあまり好んでいなかったことは事実である。 その点を踏まえてアインシュタインは両者を通俗性と貴族性とに引き離し、この通俗的な混成曲をモーツァルトにとっては駄作であるかのようにみなしている。
モーツァルト父子の音楽的天性は、人間としての天性と同様に、いちじるしく異なっていた。 レーオポルトが半ば合理主義的、半ば『通俗的な』、アウクスブルクあるいはザルツブルクの作曲家であるのに対して、ヴォルフガングは決して合理主義的でも通俗的でもあったことがなく、神的、王者的、貴族的だった。
(アウクスブルクとザルツブルクの)両都市の人々はおそらく、レーオポルトをその時代に最も有名にした粗雑な自然主義的あるいは写実主義的オーケストラ作品、『橇遊び』、『農夫の結婚』、『狩猟』、『シンフォニア・ブルレスカ』、『軍隊ディヴェルティメント』のようなオーケストラ作品を喜んだであろう。 これらの曲はおそらく、フランケンの僧侶ラートゲーバー神父が1733年から1746年のあいだに無名で『アウクスブルク宴会デザート』という書名で出版した楽曲集に祖先を持っている。 それらの楽曲はバイエルン・シュヴァーベンの粗野な官能性と民衆的なユーモアに満ちたもので、ことに野卑なクオドリベト数曲、牛飲と馬食の情景等々を含んでいる。 この写実主義がレーオポルトの気に入ったのである。
それに反して、ヴォルフガングは、ハーグあるいはドーナウエッシンゲンの宮廷の娯楽のために書いた初期の作品、『音楽の駄弁』(K.32)のなかだけに、ラートゲーバーとレーオポルトの持つアウクスブルク的なものへの共鳴が見いだされるにすぎない。
[アインシュタイン] pp.161-162
10歳の少年が絶対的な指導者である父レオポルトの指示に従って(共同で)書いたこの通俗的な混成曲について、元の曲としてよく知られているのは以下である。 どれも短い曲ばかりでつないでいるが、最後にオランダで誰もが知っている曲を、しかも138小節もある長い曲をもってくるあたりは見事に計算されているといえる。 予定外のオランダ滞在も、レオポルトには大きな収穫があり、病気の件は別として、不満は何もなかっただろう。 ようやく5月になってオランダを離れ、5月8日にベルギーのブリュッセル到着。 その後フランス、スイスを回って故郷にたどり着くことになる。

この混成曲についてはモーツァルト父子の草稿と、南ドイツのドーナウエッシンゲンでの演奏の際の写譜との異なる2つの版が伝わり、演奏に際して曲目、曲数、配列が一定しない。 旧全集では

  1. Andante (フガート)ヘ長調
  2. Allegretto (チェンバロ独奏)変ホ長調
  3. Menuetto (トリオなし舞曲)ヘ長調
  4. Adagio (間奏曲)ニ短調
  5. Allegro (民謡を主題にした編曲)ハ長調
  6. Adagio (間奏曲)ニ短調
  7. Molto allegro (カプリッチョ)ニ長調
  8. (田園曲)ト長調
  9. Allegro (狩の曲)ニ長調
  10. Allegretto (弦楽合奏曲)イ長調
  11. (行進曲)ニ長調
  12. (田園曲)ト長調
  13. Allegro (狩の曲)ニ長調
  14. フーガ
となっていた。 さらに第3版では18曲、第6版では22曲あげているが、新全集では後者を元に上記の17曲としている。 また、シンフォニア版もある。 なお、ドーナウエッシンゲンの演奏版があるのは次の事情による。 モーツァルト一家の大旅行は自家用の馬車で行われたが、出発のとき御者兼床屋として付き添ったのはヴィンター(Sebastian Winter, 1744-1815)であったが、彼は途中で自分の出身地ドーナウエッシンゲンに帰っていたのである。
1764年3月4日、パリからザルツブルクのハーゲナウアーへ
3日の日には、私どもの下男のゼバスティアン・ヴィンターが、田舎まわりの定期馬車で、シュトラースブルク経由でドーナウエッシンゲンに向かい、当地を出立しました。 彼は理髪師として、フォン・フュルステンベルク侯さまにご奉公することになり、私はジャン・ピエール・ポティヴァンという名の別の理髪師を雇いました。
[書簡全集 I] p.235
このときから2年半後の1766年10月、いよいよ西方への大旅行も幕を閉じようとするとき、一家はドーナウエッシンゲンに到着する。 当然のことながら、かつての従僕ヴィンターと再会したであろうし、フォン・フュルステンベルク侯の歓待を受けただろう。 オランダ総督オランニエ公ヴィレム5世に披露したこの「ガリマティアス・ムジクム」を演奏することは、フォン・フュルステンベルク侯への恰好の土産になったに違いない。 ヴィンターは神童を間近で目撃していた人物であり、別れてから2年半後、ずいぶん大人っぽく成長したヴォルフガングとナンネルを見て、再会を喜ぶとともに驚いたことだろう。 余談であるが、のちに(1786年)モーツァルトはヴィンターを介してフォン・フュルステンベルク侯の注文に応じ、交響曲「リンツ」(K.425)ほかを送っている。

〔演奏〕
CD [UCCG 6010] t=15'58
オルフェウス室内管弦楽団 Orpheus Chamber Orchestra
1989年12月、ニューヨーク

〔動画〕


 

シンフォニア「ガリマティアス・ムジクム」ヘ長調

  1. Molto allegro
  2. Andante
  3. メヌエットとトリオ
  4. Allegro

モーツァルト自身が書き残したものではないが、最初の4曲は「シンフォニア」として切り離された写譜(19世紀の)が残っているという。 ただし楽章の順番は、第3楽章にクリスマス・キャロル「ヨーゼフ、大好きなヨーゼフ」、フィナーレは第3曲アレグロと入れ替わっている。

〔演奏〕
CD [ポリドール FOOL-20360] t=5'05
ホグウッド指揮エンシェント室内管弦楽団
編成 2 ob, 2 hr, 弦, bsの補強としてfg, hc

〔動画〕


 

〔参考文献〕


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2016/09/11
Mozart con grazia