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ミサ曲 第2番 ニ短調 K.65 (61a)
〔作曲〕 1769年1月14日 ザルツブルク |
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実りのない2回目のウィーン旅行から1月5日に帰郷したばかりで、13歳の誕生日を迎える直前に書かれたミサ・ブレヴィス。 わずか数ヶ月の間に第4番ハ短調(K.139)、第1番ト長調(K.49)と相次いで長短複数のミサ曲を12歳の少年が同時進行的に作曲していたことに驚かざるをえない。 アインシュタインは次のように驚嘆している。
長大で荘重なミサ曲から明瞭に区別されるのは、通常の日曜礼拝用の「略式ミサ曲」である。 ・・(途中略)・・ モーツァルトは、幼年時代に早くもこの種のミサ曲2つを、2つの荘厳ミサ曲とまさしく平行して書いている。 一つは1768年秋にヴィーンでできたもの(ト長調、K.49)であり、他はザルツブルクへの帰郷後、1769年2月5日に書かれたもの(ニ短調、K.65)である。 ・・(途中略)・・ すでにト長調の略式ミサ曲において、特にグローリアとクレドの作曲に際して肝要なこと、つまり、これらの長くて対比に富む楽曲の統一を把握している。 ・・(途中略)・・ ニ短調の略式ミサ曲はさらに驚くべき作品である。 その珍しい調性は、作曲の機因から説明される。 この作品は、ザルツブルク大学における四十時間祈祷の開始に当って、つまり四旬節に際して初演されたのであった。 この期間中は当然グローリアを歌うことはできなかったが、それにもかかわらず、モーツァルトはグローリアをも(明らかに将来の利用のために)作曲した。 ・・(以下略)・・ニ短調という暗い調性は彼の作品の中で特殊であり、オラトリオ『救われたベトゥーリア』(K.118)、ピアノ協奏曲第20番(K.466)、『ドン・ジョヴァンニ』(K.527)、そして『レクイエム』(K.626)にしかなく、そのためこのミサ曲にも共通する悲壮感があるといわれている。 ただしド・ニによれば[アインシュタイン] pp.439-440
このミサ曲が2月5日に、ザルツブルク大学の教会での「四十時間の祈り」(Oratio Quadraginta Horarum)の盛儀典礼のさいに演奏されることになっていたために短調を選んだらしい。 「四十時間の祈り」というのは灰の水曜日(四旬節の初日)の前の謝肉祭の日々に行われる儀式で、キリストの受難と復活を控えた典礼暦上の期間である四旬節を前にして、罪の償いをする儀式だった。という背景があり、「少年モーツァルトが選んだニ短調という調性は、たとえばエバーリンなどもよく用いたものだ」という。 またド・ニは、13歳の誕生日を迎えようとしている少年が新約聖書に通暁し、ミサ曲の深い意味を体得していることに驚いている。 それを「聖なるかな」を3回繰り返すサンクトゥスからベネディクトゥスの終りまでの部分に、これまでのどの曲にもないまったく新しい解釈を見せていると指摘している。[ド・ニ] pp.29-30
モーツァルトはサンクトゥスの厳かで悲痛な叫びの合唱に続いて、ベネディクトゥスをソプラノとアルトの半音階的な下降旋律に始まる苦悩に満ちた曲とした。 これこそ真のいけにえの奉納の歌であって、聖体奉挙(司祭がミサの中心部でキリストの肉体と血に変化したパンとブドウ酒を神に捧げ、信者に向けてそれを高く掲げること)のさいに、パンとブドウ酒を別々に捧げることが、まさにキリストの十字架上の死を象徴するという、当時の神学的解釈を感覚的な手法で表しているのである。ベネディクトゥスの作曲にはかなり苦労したものと思われ、最終稿のほかに二つの草稿が残されているという。 そのため、この部分だけは後年の作ではないかと疑われたという。 なお、ベネディクトゥスの部分に対するモーツァルトの解釈は、彼のザルツブルク時代の最後のミサ曲「荘厳ミサ」(K.337)でさらに深まり、イ短調のフーガの手法で感動的に表現される。同書 p.31
余談であるが、モーツァルトはこの曲を作る直前までザルツブルクを留守にしていた。 すなわち、1767年9月、皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)とナポリ・シチリア王フェルディナント1世の婚儀のために催される祭典をめざしてモーツァルト一家はウィーンへ旅立っていた。 運悪く、天然痘が大流行していたためオルミュッツへ避難したが、ヴォルフガングも姉ナンネルも天然痘にかかった。 このときヴォルフガングは一時的に失明し、危険な状態にまでいったらしい。 そのような緊急事態が発生したせいもあり、ザルツブルク帰郷が大幅に遅れたのであるが、ザルツブルク大司教は「1768年4月中に帰郷しないときは俸給停止」と決定していた。 その頃すでにヴォルフガングも姉ナンネルも危機を脱していたが、ウィーンに留まり、ヨーゼフ2世の依頼を受けてオペラ・ブッファ『見てくれのばか娘』(K.51)を作曲していた。 おそらく父レオポルトは周到な根回しでオペラ作曲の機会を与えてもらったつもりだったのだろうが、ウィーンで上演されることはなかった。 ウィーンは「もう用はないから早く地元へ帰れ」という空気だったに違いない。 たかが地方都市の楽士にすぎない分際の僭越な行動に反撥が起きるのは当然のことであり、過去の成功体験からレオポルトは我を忘れていたのである。 結局、彼の俸給は1768年3月から停止され、レオポルトは帰郷してから差し止め解除を大司教に請願することになる。
1769年3月この請願は承認され、1769年1月分から俸給が支給されたという。 このような事情もあって、このミサ曲はすぐにも作曲されなければならなかったのであろう。
数け月お差し止めの俸給支払い復活につきましてご承認下さいますよう、恐れながら請願申し上げます。
大司教猊下におかせられましては、先ごろ私が家族とともになお数か月ヴィーンに滞在することをお許しくださいましたが、また帰着いたしますまで私の俸給を差し止めるようお命じになりました。 しかしながら、このヴィーン滞留は私の意に反するものであり、かつ私の不利益となるものでありましたため、私は自分および愚息の名誉を守るためにも、より早くヴィーンを立ち去ることができませんでした。[書簡全集] pp.13-14
〔演奏〕
CD [koch schwann CD 313 021 H1] t=15'14 Carol Malone (S), Gabriele Schreckenbach (A), Karl Markus (T), Walton Groenroos (Bs), Chor der St.-Hedwigs-Kathedrale Berlin, Roland Bader (cond), Mitglieder des RSO Berlin 1977年6月、イエス・キリスト教会、ベルリン |
CD [PHILIPS PHCP-3808] t=14'46 ドーナス Helen Donath (S), マルケルト Annette Markert (A), ハイルマン Uwe Heilmann (T), シュミット Andreas Schmidt (Bs), ライプツィヒ放送合唱団 Leipzig Radio Chorus, ケーゲル指揮 Herbert Kegel (cond), ライプツィヒ放送交響楽団 Radio Symphony Orchestra Leipzig 1987年12月、ライプツィヒ |
CD [BMG BVCD-3008-09] t=13'10 アウグスブルク大聖堂少年合唱団室内合唱隊 Kammerchor der Augsburger Domsingknaben, カムラー指揮 Reinhard Kammler (cond), コレギウム・アウレウム合奏団 Collegium Aureum 1990年6月、Wallfahrskirche Violau |
■参考文献
〔動画〕
[http://www.youtube.com/watch?v=8uqfqkA3ugg] t=12'45 演奏不明 |
[http://www.youtube.com/watch?v=FN1UBwZ51zw] (1) t=1'38 [http://www.youtube.com/watch?v=aAPA9vVO0X0] (2) t=2'13 [http://www.youtube.com/watch?v=UMQklqUjKds] (3) t=4'58 [http://www.youtube.com/watch?v=aBsMZxMU-pA] (4) t=1'00 [http://www.youtube.com/watch?v=u9RbNeRTp2o] (5) t=1'20 [http://www.youtube.com/watch?v=wJrAzyqpCT4] (6) t=2'07 演奏不明 |
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