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ミサ曲 ハ短調 K.139 (47a)

  1. キリエ Adagio ハ短調
  2. グロリア Allegro ハ長調
  3. クレド Allegro ハ長調
  4. サンクトゥス Adagio ハ長調
  5. ベネディクトゥス Andante ヘ長調
  6. アニュス・デイ Andante ハ短調
〔編成〕 S, A, T, B, SATB, 2 ob, 4 tp, 3 tb, timp, 2 vn, 2 va, bs, og
〔作曲〕 1768年秋? ウィーン
少年モーツァルトを描いたといわれていた絵(部分) デュプレシ(Joseph-Siffred Duplessis, 1725-1802)画
(ルーブル美術館)

ミサ・ソレムニス(荘厳ミサ)。 通し番号は第4番、通称「孤児院ミサ Waisenhausmesse」。 第6版のケッヘル番号は「K6.47a」また第3版の番号は「K3.114a」
父レオポルトによる初期のモーツァルト作品目録のおしまいの方に記載されている大ミサ曲がこの曲であろうと思われている。 1771年12月16日にシュラッテンバッハ大司教が没したことから、1772年ザルツブルクで作曲とされ、K.139に位置づけられていたが、それよりもっと早い1768年12月7日ウィーンのレンヴェーク(現在の第3区)の孤児院の新教会献堂式のために、パルハーマー氏の依頼により作曲された「荘厳ミサ」と同一だとする説が、1920年代にクルテンによって提出され、1940年代にアインシュタインも認め、さらに1950年代にプファンハウザーにより確定的なものになり、定説として現在に至っている。
こうしてこの曲はミサ曲「第1番 K.49 (47d)」の前に置かれている。 モーツァルトが書いたミサ曲でこの作品の前には、アインシュタインのいう「1766年6月12日にパリで作曲した、フランス風=リート風なヘ長調の」キリエ K.33 しかないこと、そしてまた、初期の作品はミサ・ブレヴィスばかりであること、そのなかでこのハ短調の荘厳ミサは演奏時間が40分を越える長大なものであることを考えると、モーツァルトは第一作にしていきなり最高傑作を仕上げたことになる。

わずか一年半あまりで、彼の音楽的個性はその若さにもかかわらず、疑う余地のない天分の輝きを発して突然に開花した。 それどころではない。 12歳の少年による最初のミサ曲は大作であり、何を手本にしたかは一目瞭然とはいえ、この作曲家の独自の個性を初めて示した曲である。 この『孤児院ミサ』のなかで、年若きモーツァルトは宗教音楽の分野における美の理想を、余すところなく披瀝したといえる。
[ド・ニ] p.17
この見事な曲がモーツァルトの少年期の作として位置づけられた経緯はよく知られているが、それは以下の通りである。

1767年9月、モーツァルト一家はウィーンへ旅立った。 皇女マリア・ヨゼファ(マリア・テレジア女帝の9番めの皇女)の婚儀のために催される祭典を活用して、父レオポルトが息子ヴォルフガングを売り込む目論見があったが、運悪くウィーンでは天然痘が大流行していて、皇女は10月に死亡してしまった。 一家はウィーンを離れ、オルミュッツとブリュノに避難したが、よく知られているように、ヴォルフガングと姉ナンネルも天然痘にかかり、危険な状態に陥った。 しかし、そんなことでへこたれるレオポルトではなかった。 年が明けて早々にウィーンに戻り、宮殿で女帝マリア・テレージアに謁見するなど活発な売り込みを開始。 そのようななかでヴォルフガングはオペラ・ブッファ『見てくれのばか娘』を作曲するという大きなチャンスを得たが、さまざまな妨害にあってウィーンで上演することができなかった。 これといった成果なくザルツブルクに帰るつもりはレオポルトの頭にはなく、1年以上も一家はウィーンに滞在し続けて次の大きな機会を待っていたところ、1768年の秋、それが巡ってきたのである。 モーツァルトは自分の持てる才能のすべてを賭けて「荘厳ミサ」の作曲にとりかかった。 もちろんそれはレオポルトにとっても大きな挑戦であり、息子の仕事を陰で支えていたことは間違いない。 と言うのも、レオポルトはザルツブルクでの自分の俸給差し止め処分を受けてまで、その大きな機会を苦労して手に入れたものだからである。

 レンヴェークの孤児院

まず「荘厳ミサ」という呼称は1768年11月12日の父レオポルトの手紙(故郷ザルツブルクの家主ハーゲナウアー宛て)にある。 そのなかに、レンヴェークの孤児院長パルハーマー師(Ignaz Parhamer, 1715-86)から孤児院付属礼拝堂の献納式用の作曲を依頼されたことが書かれてある。

1768年11月12日
聖なるマリアの無原罪の御孕りの祝日には、パルハーマー師の孤児院の新しい教会の献納がおこなわれます。 ヴォルフガングはこの祝日のために、荘厳ミサ、奉献誦、それにこの孤児院の少年のために一曲のトランペット協奏曲を作曲しまして、師に敬意を表しました。 たぶんヴォルフガングがみずから指揮することになるでしょう。 なにごとにも理由があるものです。
[書簡全集I] p.373
レオポルトはパルハーマー師が彼の孤児院に新しい教会を建てることは早い時期から知っていたし、その礎石が設置されたとき(1768年夏)には家族ともども立ち会っていた。 皇帝も列席するであろう献納の儀式こそ息子ヴォルフガングが最高に輝く場になるだろうことをレオポルトをみすみす見過ごすはずがない。 周到な裏工作が実ってこその晴れ舞台であり、まさに「なにごとにも理由があった」のである。
この手紙に書かれた、特定できない荘厳ミサにはアインシュタインが K.47a とし、また、奉献歌は K.47b、トランペット協奏曲は K.47cと番号付けていた。 一方でとてつもなく巨大な「ハ短調ミサ曲 K.139」があり、それは1771年末に没したザルツブルクのシュラッテンバッハ大司教のために書かれたと思われていた。 ここに、その自筆譜が残る長大なミサ曲こそレオポルトの手紙に書かれた「荘厳ミサ」であろうという説が現れ、アインシュタインが認めることになったのである。
特別に盛大な機会であるレンヴェークのそばの孤児院教会の献堂式のために、合唱、独唱、弦楽器群、オーボエ2、トロンボーン3、トランペット4、ティンパニというきわめて豊かな編成を持つ、壮大な規模の荘厳ミサ曲を書いている。 このミサ曲が、しばしば論じられた問題のハ短調ミサ曲である。 従来わたしは「孤児院ミサ曲」を紛失されたもの(K.47a)とみなし、このハ短調ミサ曲をいくらかあとの時期においていたが、W.クルテンがその研究において、このハ短調ミサ曲を1768年12月7日の作と主張するのに賛成せざるを得ない。
[アインシュタイン] p.435
「1768年12月7日」とは孤児院教会の献堂式が催された日である。 こうして「ハ短調ミサ曲 K.139」は第3版において K3.114a という番号で位置づけられた。 さらに、アインシュタインが没した(1952年)直後にプファンハウザーによる研究成果が発表された。 しかしその研究が無視されているとド・ニは厳しい口調で指摘(1981年)していた。
これらの曲は紛失したと長いあいだ信じられてきたが、1954年にウィーンの音楽学者カール・プファンハウザーは、資料に基づいた反論の余地のない方法で、これらの曲がK.139とされてきたミサ曲(K.47a)と、K.117のオフェルトリウム『神は誉めたたえられよ』(K.66a=47b)であることを立証した。 ところが驚くべきことに、最近の出版物、たとえばあの記念碑的事業である作品全集の新刊版(NMA)における資料集(1978年)は、この厳密で正確な論拠に基づいたプファンハウザーの業績についてまったく無視している。 (1954年版『モーツァルト年報』(Mozart-Jahrbuch)の150〜168ページを参照のこと)
[ド・ニ] p.16
ただし、最近の文献では(たとえば1991年の「モーツァルト事典」も、2006年のザスロー編「モーツァルト全作品事典」も)プファンハウザーの研究を踏まえたうえでこの作品が取り上げられている。
長い間モーツァルト研究は、上述の「孤児合唱団の音楽」が『ミサ曲ハ短調』K.139を指しているのかという問題について議論してきた。
(中略)
こうした議論に、ドイツの音楽学者カール・プファンハウザー(1954)は新たな根拠をもとに「孤児院ミサ」という呼び名がほぼ正しいであろうことを示し、さしあたり終止符を打った。 モーツァルトの父は、息子の自筆譜に通奏低音の数字を書き加えており、彼が少年の作品を校閲したことに疑いの余地はない。
[モーツァルト全作品事典] p.22
こうして、現在は「K.139=K6.47a」が定説になっている。
1768年12月



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さて、レオポルトの11月12日の手紙にある「聖なるマリアの無原罪の御孕りの祝日」とは12月8日であるが、実際の式は前日に行なわれ、少年ヴォルフガングがみずから指揮をしたという。

「ウィーン日誌」より、1768年12月10日
7日水曜日、皇帝にして国王陛下はレンヴェークの孤児院へ赴かれた。 そこに新たに建てられた教会の最初の堅信礼及び礼拝に列席されるためである。 ・・・歌ミサの際の孤児院聖歌隊の音楽は全てザルツブルクの領主に仕える楽長レーオポルト・モーツァルト氏の12才の息子、その特異な才能で有名なヴォルフガング・モーツァルトがこの祝祭のために新たに作曲したものであり、大喝采と賞賛を博した。 彼自身による上演、正に正確な指揮ぶりであった。 その他にモテットも歌われた。
[ドイッチュ&アイブル] pp.75-76
当日はマリア・テレジア皇太后をはじめ、フェルディナント大公、マクシミリアン大公、エリーザベト皇女、マリア・アマリア皇女も列席し、盛大な式典であった。 そしてモーツァルトは皇太后からすばらしい贈り物をもらったという。 父レオポルトにとって、ウィーン宮廷に息子を売り込む最大の機会となったことは確かであるが、しかし皮肉なことに、皇太后の心は別の方を向いていたとはレオポルトは知る由もなかった。

これがモーツァルトがわずか12歳のときに書いた最初のミサ曲ということになるが、信じ難いほど見事な出来栄えである。 アインシュタインは

疑いもなく同じ1768年秋の作で、いっさいの単純さにもかかわらず感動的で雄大な「聖霊来り給え」(K.47)を書き、1年たらずののちには同じく疑う余地のない真作「ドミニクス・ミサ曲」(K.66)を書く少年なら、このハ短調ミサ曲を書くことも十分に可能であった。
[アインシュタイン] p.436
と感嘆するしかなかった。 「孤児院ミサ曲」という名称で、若いモーツァルトが機会に応じて作ったものと見過ごされがちであるが、まさに百聞は一聴にしかずである。
なお、当時の大作曲家ハッセは、ヴェネツィアのオルテスに宛てた手紙(1769年9月30日)で少年モーツァルトの力量について
まだほんの12か13才の息子は既に作曲家であり、楽長と言える程です。 彼のものだという作曲をいくつか見ました。 事実仲々のものです。 12才の少年のものとは思えないものがありました。 私は彼をクラヴィーアで様々に試してみましたから、その曲が彼のものであることは間違いありません。 彼は私にその年齢とはとても思えないようなもの、いや修養を積んだ大人のものとしても驚嘆に値するようなものを聞かせてくれました。
[ドイッチュ&アイブル] p.81
と書いているくらいだから、アインシュタインのように後世の人が「このハ短調ミサ曲を書くことも十分に可能であった」と推測することに何ら無理はないだろう。 ド・ニもその著書のなかでこの曲について詳細に解説したうえ、同じハ短調の大ミサ(K.427)に並ぶ作品と絶賛している。
この最初のミサ曲のなかで、モーツァルトは宗教音楽の理想を高らかに示しており、明らかに彼の個性によって、ミサ曲の分野における伝統的な環境から抜け出して、独自の境地に達した。 統一性を追及し、伝統のもつ優れたものを最大限に同化させているこの曲を、当時の「最先端」をゆく音楽だったといっても過言ではなかろう。 (中略) ある意味では、すでにこの12歳の少年による荘厳ミサは、彼の傑作である同じ調性の未完成の大ミサ(K.427)の先駆けともいえよう。
[ド・ニ] p.25
また、ド・ニは次のような追記をしている。
1768年12月7日に行なわれた献堂式のミサで演奏された3つの曲は、モーツァルトの作品目録(第6版)において次のように記載されるべきであろう。 『聖霊来たりたまえ』はK.47b、『ミサ曲ハ短調』はK.47c、オフェルトリウム『神は誉めたたえられよ』はK.47d。 同じときに演奏されたのではないかといわれている「トランペット協奏曲」は、おそらく「書簡ソナタ」(sonata all'epistola)の編曲ではないだろうか。
同書 pp.25-26
余談であるが、モーツァルト一家は年末になってようやくウィーンを離れ、翌1769年1月5日にザルツブルクに戻った。 レオポルトの夢はかなわず、彼はシュラッテンバッハ大司教の慈悲にすがるしかなかった。
1769年3月初め (レオポルトの請願書)
いと気高く高貴にして尊厳なる神聖ローマ帝国の領主にして慈悲深き主人様。 御恵みいと高き慈悲により家族共々数ヶ月にわたってヴィーンに滞在するお許しを得ました。 にも拘らず私が帰着致すまで給料が差止めとなりました。 しかし私のヴィーン滞在は私の意志に反したものであり、損害にしかならないものでした。 私自身の、そして息子の名誉のためにどうしてもヴィーンから離れられなかったのです。 しかも私も息子も教会のために、特に大聖堂礼拝堂で使われるための様々なものを制作致しました。 心からなる忠実な御願いを申し上げます。 願わくば慈悲深き御心をもちまして過ぐる月の未払いの給料、及び更に高き慈悲の御心をもちまして遡って未払い分を賜わるべく御指示下さいますよう。 御慈悲の深かればこそ私の務めも報われるものとなりましょう。 慈悲深き領主様の御心にお願い致します。
[ドイッチュ&アイブル] p.78

〔演奏〕
CD [COCO-78065] t=41'25
リンズリー Lindsley (S), シュレッケンバッハ Schreckenbach (A), ホルヴェーク Hollweg (T), グレーンロース Grönroos (Br), リアス室内合唱団 Rias Chamber Chorus, クリード指揮 Marcus Creed (cond), ベルリン放送交響楽団 Berlin Radio Symphony Orchestra
1988年、ベルリン、イエス・キリスト教会
CD [WPCC-3801] t=42'43
ボニー Barbara Bonney (S), ラッペ Jadwiga Rappé (A), プロチュカ Josef Protschka (T), ハーゲゴール Hakan Hagegard (Bs), アルノルト・シェーンベルク合唱団 Arnold Schönberg Chor, アーノンクール指揮 Nikolaus Harnoncourt (cond), ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス Concentus musicus Wien
1989年7月、Stiftskirche Stainz, Steiermark

〔動画〕


 

Ignaz Parhamer

1715-86

イグナーツ・パルハーマーは1715年6月15日生まれ、1786年4月1日ウィーンで没し、聖マルクス墓地に眠る。

イエズス会に属す司祭であり教育者でもあった。 1757年からレンヴェークの孤児院の院長を勤め、収容された700人を越える孤児たち(男女の比率は約2:1)を軍隊式に組織し、軍事的訓練も行った。 モーツァルトもそのような場面を見たことがあった。

1768年9月13日 (レオポルトの手紙)
昨日、私たちはパルハーマー師のお宅で食事をし、また彼の軍隊が射撃訓練をし、煙火を発射するのを見ました。
[書簡全集I] p.359
孤児院は女帝マリア・テレジアの支援を受けたものであり、その院長であるパルハーマーと親交を深め味方につけておくことはレオポルトにとって不可欠であった。 そのことを彼は(同じ手紙のなかで)次のように書いている。
ご注意いただきたいのは、ここでもまたパルハーマー師さまは、皇帝陛下がオペラはどのくらい進んだものかとヴォルフガングにおたずねになり、またこの子と長いことお話しになっておられたことの証人なのです。

 

〔参考文献〕

 

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2017/08/20
Mozart con grazia