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ミサ曲 第15番 ハ長調 K.337
〔作曲〕 1780年3月 ザルツブルク |
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復活祭(3月26か27日)のために。 ザルツブルク大司教のために書いた最後のミサになる。 荘厳ミサ(ミサ・ソレムニス)とも呼ばれ、それにふさわしい大きな楽器編成になっているが、やはり切り詰められた内容になった。 「宮廷ミサ」と呼ばれることもある。 第3曲クレドには別稿がある。
ベネディクトゥスは、モーツァルトのすべてのミサ曲のうちで最も注目をひき、最も革新的である。 それはこのうえなく峻厳なイ短調の、厳格をきわめた対位法的書法による長大な楽曲である。ソプラノ・ソロによるアニュス・デイは『フィガロ』第2幕で伯爵夫人が歌う「愛の神よ、御手を」を先取りしている。 緩やかに上昇する弦の前奏で曲は始まり、弱音の静かな瞑想のうちに終る。 音楽で「祈り」を表現した比類のない作品とも言われるが、 アインシュタインによれば、[アインシュタイン] p.466
大司教の宮廷オルガニストとしての自分の義務を決して忘れていないことを立証するためのように、オブリガート・オルガンとオブリガート独奏管楽器を伴う長大なソプラノ・ソロを書き、トゥッティによって手短に完結させることで、コロレドを憤激させる術と自分自身の理想を追う術とを結び付けた。 それは1780年の反抗的なモーツァルトの性格にぴったりとかなっている。という。
モーツァルトはウィーンに移り住んでから、何度かザルツブルクの父にこの曲を送ってくれることを求めている。 スヴィーテン男爵に自分の宗教曲を聞いてもらいたいと思っていた。 よく知られているように、ウィーンに定住してからのモーツァルトが書いたミサ曲は未完成のハ短調(K.427)のみであり、しかもそれは注文によるものではない。 たとえその注文が大司教からのものであり、種々の制約が付けられていたにせよ、やはり実際に作曲の機会があるのとないのとには大きな違いがある。 まして現実主義者のモーツァルトでなくても、演奏の機会もなく、収入のあてもなく、ミサ曲を新たに書くことはあり得ない。 同様に教会ソナタもザルツブルクで書いた第17番ハ長調(K.336)で最後となった。 このような意味でこのミサ曲(K.337)はモーツァルトにとってウィーンの聴衆に披露するための貴重な作品だった。
1791年、レオポルト2世の戴冠式でサリエリが演奏した3曲のミサの一つ。 総譜にはサリエリが記した注意書きや演奏の指示が残っているという。 普通、ミサ曲第14番ハ長調 K.317 を「戴冠式ミサ」と呼ぶが、この曲(K.337)も同じように呼ばれることもある。
モーツァルトは晩年コンスタンツェが世話になったバーデンの合唱指揮者シュトル(1747 - 1805)に贈った。 シュトルは
〔演奏〕
CD [WPCC-5491] t=21'35 ボニー (S), フォン・マグヌス (A), ハイルマン (T), カシュマーユ (B), アルノルト・シェーンベルク合唱団, アーノンクール指揮 ウィーン・コンツェントゥス・ムジクス 1992年7月、シュタインツ、教区教会 |
〔動画〕
〔参考文献〕
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